marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(3)

―どうして村上氏は原文にない「死者」を訳に付け足したのだろう―

【訳文】

《「どうしてそうなったのか知りたいという訳か?」
「そうだ。こちらが百ドル払わなきゃいけないくらいだ」
「その必要はない。答えは簡単だ。私の知らないこともある。これはそのひとつだ」
 一瞬、男を信じかけた。男の顔は天使の羽のように滑らかだった。
「なら、どうして百ドルと臭くてタフなインディアン、それと車を寄こしたんだ? 時に、インディアンは臭くなきゃいけないのか? 雇い主なら、風呂を使わせることくらいできるだろう」
「彼は生まれつきの霊媒だ。ダイヤモンドのように稀少で、ダイヤモンドと同じように、汚れた場所で見つかることもある。君は私立探偵だったな?」
「そうだ」
「君は極めて愚かな人間のようだ。愚かに見える。愚かな仕事をしている。そして、愚かしい任務でここにやってきた」
「なるほど」私は言った。「私は愚かだ。のみこむのに時間がかかる」
「そして、私にはこれ以上君を引き留める必要がない」
「そちらが引き留めてるんじゃない」私は言った。「こちらが引き留めてるんだ。あの名刺が煙草の中に入っていたわけを知りたいのでね」
 彼は肩をすくめた。これ以上小さくはできないすくめ方だった。「私の名刺は誰でも入手可能だ。私は友人にマリファナ煙草を贈ったりしない。君の質問は依然として愚かしい」
「これで少しは機嫌が直るかもしれない。その煙草は日本製か中国製の安っぽい模造鼈甲のケースに入っていた。どこかで見た覚えは?」
「いや、まったく覚えがない」
「もう少し景気よくすることもできる。そのケースはリンゼイ・マリオットという名の男のポケットに入っていた。名前を聞いたことは?」
 彼は考えた。「聞いたことがある。一度面倒を見た。カメラ恐怖症だったんだ。映画界入りを考えていたようだが、時間の無駄遣いだった。映画界は彼を欲しがらなかった」
「察しはつく」私は言った。「彼の写真はイサドラ・ダンカンのように見えただろう。もっと大きなのが残っている。百ドル札を送りつけた理由は?」
「ミスタ・マーロウ」彼は冷ややかに言った。「私は莫迦ではない。罪深いことに、とても微妙な職業に携わっている。私はもぐりの医者だよ。つまり、私は医師たちの小さな怯えた利己的な組合では達成できないことをしているんだ。年がら年中、君みたいな連中からの危険にさらされている。危険に見舞われる前にやるだけのことをやったまでだ」
「かなり些細なことだったというのか、私の場合?」
「無に等しいね」彼は丁重に言った。そして左手で奇妙に目を引く動きをして見せた。それから彼は手をゆっくりと白いテーブルの上に置き、それを見た。それからまた底の知れない眼をあげ、両腕を組んだ。
「聞こえたかな―」
「臭いがしてるよ」私は言った。「彼のことは考えていなかった」
 私は左の方を向いた。インディアンが黒いヴェルヴェットを背に、三つ目のスツールに座っていた。
 彼は別の服の上から白いスモックのようなものを着ていた。身じろぎもせずにじっと坐っていた。眼を閉じ、頭は少し前に傾けていた。まるで一時間眠り込んでいたとでもいうように。浅ぐろく逞しい顔は影に包まれていた。
 私はアムサーを振り返った。彼は微かな微笑を浮かべていた。
「婆さんが見たら入れ歯を落とすだろう」私は言った。「本当のところ彼は何をしてるんだ―君の膝の上でシャンソンでも歌うのか?」
 彼は苛立たしそうなふりをした。「要点を言ってくれないか」
「昨夜、マリオットは私を付き添いに雇った。指定された場所で悪党に金を払うために、出かける必要があったんだ。私が頭を殴られてのびている間にマリオットが殺されていた」
 アムサーの顔には何の変化も現れなかった。叫び声も上げないし、壁をよじ登ろうともしなかった。しかし、反応が鋭くなった。腕をほどいてまた別の方法で組み直した。口元は険しかった。その後は、市立図書館前のライオンの石像のように動かなかった。
「煙草は彼から見つかった」私は言った。
 彼は冷ややかに私を見た。「しかし、警察じゃないな。警察はまだここに来ていない」
「正解」
「百ドルでは」彼はとても穏やかに言った。「足りないようだ」
「それで何を買うかによるな」
「煙草は君が持ってるのか?」
「そのうちのひとつを。しかし、何の証拠にもならない。お言葉通り、名刺は誰でも入手可能だ。煙草がなぜそこにあったのかが分からない。何か、考えはあるか?」
「君はミスタ・マリオットのことをどれだけ知っているんだ?」彼は優しく訊ねた。
「全然知らない。しかし、分かっていることもある。明々白々でよく目立っていた」
 アムサーは白いテーブルを軽く叩いた。インディアンはまだ眠りこけていた、巨大な胸に顎をのせて。重い瞼はしっかり閉じられていた。
「ところで、ミセス・グレイルに会ったことはあるか? ベイ・シティに住む金持ちの女性だ」
 彼はぼんやりとうなずいた。「言語中枢に問題を抱えていた。彼女には軽い言語障碍があった」
「いい仕事をしたな」私は言った。「彼女は私と同じくらい上手に話す」》

【解説】
「臭くてタフなインディアン」は<a tough Indian that stinks>。大したところではないが、清水氏は「臭いインディアン」、村上氏も「ひどい匂いのするインディアン」と両氏とも<tough>をカットしている。それでいて、村上氏は<and a car>としか原文には書いてないのに「でかい車」とわざわざ大きさを強調している。

「彼は生まれつきの霊媒だ」は<He is a natural medium>。清水氏は「彼はごくしぜんな仲介役だ」と訳している。<medium>は、衣服のMサイズを表すように、「中間」の存在として両者の間をつなぐものだ。しかし、アムサーが「心霊顧問医」を名乗っていることから考えると「霊媒」と訳すのが適当だと思う。村上訳は「彼は生まれつきの霊媒なのだ」。

「私は愚かだ。のみこむのに時間がかかる」は<I'm stupid. It sank in after a while>。清水氏は「いかにも、つまらん用件かもしれないが……」とお茶を濁している。<sink in>は「(教訓、戒めなどが)十分に理解される、心に沁み込む」ことを意味している。村上訳は「私はたしかに愚かしい。それが理解できるまでに時間がかかったが」。このマーロウの台詞が次のアムサーの「そして、私にはこれ以上君を引き留める必要がない」を引き出している。清水訳では「そして、ここにはもう用はないはずだ」と訳されていて、一応つながってはいるが<after a while>が響いていない。

「そちらが引き留めてるんじゃない」、「こちらが引き留めてるんだ」は<You're not detaining me><I'm detaining you>。清水氏は「ところが、あるんだ」と前の台詞をつなげて短くまとめている。村上氏は「あなたは私をここに引き留めていない」、「私があなたを引き留めているのです」と丁寧だ。村上訳のマーロウは、アムサーに対してとても紳士的に会話している。この辺は訳者の解釈次第だ。

「彼は肩をすくめた。これ以上小さくはできないすくめ方だった」は<He shrugged the smallest shrug that could be shrugged>。清水氏はあっさりと「彼はかすかに肩をゆすった」と訳す。<shrug>は、アメリカ人がよくやる例の(両方の手のひらを上に向けて)肩をすくめるポーズのことだが、あまりに小さければ「ゆすった」くらいにしか見えないのかもしれない。村上訳は「彼はちらりと肩をすくめた。そんなにも微かに人は肩をすくめられるものなのだ」。マーロウが、ではなくて、村上氏自身が、アムサーに感心しているように思えてくる。

「これで少しは機嫌が直るかもしれない」は<I wonder if this would brighten it up any>。清水氏は「では、こういうことがあるが、どうだ?」と切り口上。それに対して村上訳はというと「念のためにうかがいたいのですが」とずいぶん下手に出ている。しかし、どちらも原文に忠実な訳ではない。<brighten up>は「(顔を)輝かせる、明るくさせる」という意味で「機嫌が直る」ことを表す。マーロウは、知らぬ顔の半兵衛を決め込むアムサーに、ゆさぶりをかけているのだ。

「もう少し景気よくすることもできる」は<I can brighten it up a little more>。<brighten up>が繰り返されているのだが、清水訳は「では、もう少し話そう」。村上訳は「じゃあ、このようにうかがいましょう」と、そっけない。

「そのケースはリンゼイ・マリオットという名の男のポケットに入っていたは<The case was in the pocket of a man named Lindsay Marriott>。清水氏は「そのケースはリンゼイ・マリオという男のポケットに入っていたんだ」と訳している。そこを村上氏は「そのシガレット・ケースは死者のポケットの中に入っていた。リンゼイ・マリオットという名の死者です」と、二度も「死者」という言葉をつけ加えている。これはやり過ぎというものだ。マーロウは、情報を小出しにしながら、アムサーがどこで本当のことを話すか探ろうとしている。マーロウがここでマリオットを「死者」と呼ぶことは考えられない。相手に情報を与えず、相手から情報を引き出すのが警察のやり方だ。

「罪深いことに、とても微妙な職業に携わっている。私はもぐりの医者だよ。つまり、私は医師たちの小さな怯えた利己的な組合では達成できないことをしているんだ」は<I sin in a very sensitive profession. I am a quack. That is to say I do things which the doctors in their small frightened selfish guild cannot accomplish>。清水訳は「私は微妙な職業にたずさわっている。私は医者だが、ありきたりの医者ではない」と、実にあっさりしたものだ。

村上氏は「とても微妙な職業に携わっている。私は正式の医者ではない。つまり世間の医者たちが、狭い仲間内の利己的な縛りのために、怖くてとても手が出せないようなことをやっているわけだ」と後半は、噛みくだいて訳しているが、前半は旧訳に手を入れただけだ。<sin>や<I am a quack>の持つ意味合いが伝わってこない。アムサーは語の真の意味で「確信犯」であることを宣言している。<quack>は「偽医者、山師、いかさま師」などを指す言葉で「正式な医者ではない」などという曖昧な言い方をしてはいない。