marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第23章

―いくらタフでも、喉が「肉挽機」を通ったら、元に戻りそうにない―

【訳文】

《「おい」大男が言った。「そろそろ潮時だ」私は目を開けて、体を起こした。
「河岸を変えようじゃないか、なあ」
 私は立ち上がった。まだ夢見心地だった。我々はドアを通ってどこかへ行った。それから私は、そこが周囲を窓に囲まれた待合室だと気づいた。外はもう真っ暗闇だった。
 場違いな指輪をした女が机の前に座っていた。その隣に男が立っていた。
「ここに座るといい」
 彼は私を強引に座らせた。快適な椅子だった。背凭れは真っ直ぐだが座り心地は良かった。もっとも、そんな気分ではなかった。女が机の向こうで手帳を開き、声に出して読み上げていた。背の低い、灰色の口髭を生やした年配の男が無表情にそれを聴いていた。
 アムサーは部屋に背を向けて窓辺に立ち、静かな水平線を眺めていた。遥か遠く、桟橋の明かりの向こう、この世界の向こうを、まるで愛しいものでも見るように。彼はちらりと私方を見た。顔の血は洗い落とされていたが、鼻が最初に見た鼻と違っていた。二サイズ以上大きかった。思わずにやりとしたせいで、唇の傷口が開いた。
「お愉しみのようだな、相棒?」
 私は声の主を見た。眼の前にいる、私をここまで連れてきた相手を。二百ポンドはあろうかという、吹きさらしの花木のような大男で、シミの浮いた歯とサーカスの呼び込みのような蕩ける声の持ち主だ。タフで俊敏、赤身の肉を食べる。誰にもこき使えない。毎晩のお祈り代わりに愛用のブラックジャックを唾で磨くタイプの警官だが、ユーモラスな眼をしていた。
 両脚を開いて眼の前に立ち、私の札入れを開いて手に持っている。物を傷つけるのが好きだとでもいうように革を引っ掻いている。もし、彼が手にするすべてがそういうものであればどうということはない。だが、おそらく人間の顔の方がもっと彼を楽しませるのだろう。
「覗き屋かい? 大きな悪い街からお出でなすって? ちっとばかし強請りでもってか?」
 帽子をあみだにかぶっていた。額にかかった埃っぽい茶色の髪が汗で黝ずんでいた。ユーモラスな眼は血管で赤く斑になっていた。
 咽喉が水絞り機にかけられたようだった。手を伸ばして触ってみた。インディアンだ。鋼鉄の工具のような指の持ち主だ。
 浅黒い女が読み終えた手帳を閉じた。灰色の口髭を生やした年配の小柄な男が肯いて、私に話しかけている男の後ろにやってきた。
「警官か?」私は顎をさすりながら訊いた。
「どう思うね?」
 警官のユーモアだ。小柄な男の片目は斜視で、半ば見えていないようだった。
「L.A.じゃないな」私は彼を見て言った。「その眼じゃ、ロサンジェルスでは勤まらない」
 大男は札入れを私に渡した。調べてみた。金も名刺もそのままだった。これには驚いた。
「何か言えよ」大きい方が言った。
「俺たちがあんたのことを好きになれそうな何かをさ」
「銃を返してくれ」
 彼は少し前屈みになって考えた。私には考えているように見えた。痛いところをついたようだ。「銃が欲しいのか?」彼は横目で灰色の口髭の方を見た。「こいつは銃を欲しがってる」彼は言った。彼はまた私の方を向いた。「また何のために銃が欲しいんだ?」
「インディアンを撃ちたいんだ」
「へえ、あんた、インディアンが撃ちたいんだ」
「ああ、インディアンを一人、バンと」
 彼は口髭の男をまた見た。
「タフな野郎だ」彼は言った。「インディアンが撃ちたいそうだ」
「いいか、ヘミングウェイ、私の言うことをいちいち繰り返すな」私は言った。
「こいつは気が変だ」大きいのが言った。「俺のことをヘミングウェイと呼ぶ。変だと思わないか?」
 口髭の男は葉巻を噛んで、何も言わなかった。窓際の長身の優男はゆっくり振り向いて静かに言った。「おそらく、少し情緒不安定なのだろう」
「俺のことをヘミングウェイなんて呼ぶ意味が全然分からない」大きいのが言った。「俺の名前はヘミングウェイなんかじゃない」
 年寄りの男が言った。「銃は見なかった」
 彼らはアムサーを見た。アムサーが言った。「中にある。私が預かっている。君に渡すよ、ミスタ・ブレイン」
 大男が腰をかがめ、膝を少し折って私の顔に息を吹きかけた。
「なんで俺のことをヘミングウェイと呼ぶんだ?」
「レディの前だよ」
 彼は背を伸ばした。「これだもんな」彼は口髭の方を見た。口髭の男は肯いて後ろを向き、部屋を横切った。スライド・ドアが開いた。彼は中に入り、アムサーが続いた。
 沈黙が落ちた。浅黒い女は机の上を見下ろし、眉をひそめた。大男は私の右の眉毛を見て、首をゆっくり左右に振った、訳が分からないとでも言いたげに。
 再びドアが開き、口髭の男が戻ってきた。彼はどこかから帽子を取り出し、私に手渡した。ポケットから私の銃を取り出し、私に手渡した。重さで弾倉が空だと分かった。それを脇の下に収め、立ち上がった。
 大男が言った。「さあ、行こう。外の空気を吸ったら少しは頭がはっきりするだろう」
「オーケイ、ヘミングウェイ
「こいつ、まだ言ってる」大男は悲しげに言った。「女の前だからって、俺のことヘミングウェイと呼ぶ。下品な冷やかしか何かのつもりなのか?」
 口髭の男は言った。「急ぐんだ」
 大男は私の腕を取り、我々は小さなエレベーターに向かった。エレベーターが上がってきて、我々は乗り込んだ。》

【解説】

「そろそろ潮時だ」は<You can quit stalling now>。清水氏は、その前の<all right>とくっつけて「さあ、起きろ」と訳している。村上氏も同じ扱いで「おい、そんなところで気を失われちゃ困るんだ」と訳している。<stall>は「(畜舎の)一頭用の仕切り」のこと。競馬のスターティングゲートを意味する場合もある。それが転じて<stalling>は「エンストなどの失速、急停止」、「口実、言い逃れ、ごまかし、時間稼ぎ」を意味することになった。

「場違いな指輪をした女」は<The woman with the wrong rings>。清水氏は「大きすぎる指環をはめた女」、村上氏は「サイズの合わない指輪をつけた女」と訳している。女の指輪については第二十一章(2)で言及済み。

「彼はちらりと私を顧みた」は<He half turned his head to look at me once>。清水氏は「顔を私の方にむけたときに」と訳している。村上氏は「一度だけ顔を半分こちらに向けて私の様子をうかがった」と訳している。<half turn>は、文字通り「半回転」のことで、「顔」ではなく、「頭」を百八十度回転することである。つまり、海を見ていたアムサーは、部屋の方にくるりと振り返ったのだ。だから、鼻が大きくなっていたことに気がついたのだ。格好をつけて海を見ていた男の鼻が、膨れ上がっていたら、さぞおかしかったことだろう。

「思わずにやりとしたせいで、唇の傷口が開いた」は<That made me grin, cracked lips and all>。清水氏は「私は裂けた唇をまげて苦笑した」。村上氏は「私は思わずにやりとし、唇を開かないわけにはいかなかった」。アムサーの鼻を見た結果として、にやりと笑ってしまったマーロウ。その笑いが切れかけていた唇の傷を開いたのだろう。

「二百ポンドはあろうかという、吹きさらしの花木のような大男」は<He was a windblown blossom of some two hundred pounds>。清水氏は「二百ポンドもありそうな大男」と<windblown blossom>をカットして訳している。村上氏は「百キロ近い体重の、風に吹きさらされた花のような男」と訳しているが、<blossom>を「花」と訳してしまうと風に吹かれる野の花のようで可憐すぎ、二百ポンドとなじまない。林檎のように実をつける果樹は可憐な花をつけるから、多分そういう花のことだと思うが、分かりづらい比喩だ。

「タフで俊敏、赤身の肉を食べる。誰にもこき使えない」は<He was tough, fast and he ate red meat. Nobody could push him around>。清水氏はここをすべてカットしている。村上氏は「タフで、俊敏で、赤身の肉を食べる。彼をこづくような真似は誰にもできない」と訳している。頭はどうか知らないが、腕力には長けている、一度これと決めたら動じない、現場で力を発揮するタイプの警官というところか。カットするには惜しいところだろうに。

「もし、彼が手にするすべてがそういうものであればどうということはない。だが、おそらく人間の顔の方がもっと彼を楽しませるのだろう」は<Little things, if they were all he had. But probably faces would give him more fun>。清水訳は「それが彼の持っていたすべてでも、小さなことだ。だが、たぶん、顔の方が興味があるのだろう」。村上氏は「ほかに何もなければ、小さな何かを傷つける。しかし、彼としては誰かの顔を傷つける方がもっと愉しいはずだ」と、例によって噛みくだいて訳している。

「咽喉が水絞り機にかけられたようだった」は<My throat felt as though it had been through a mangle>。清水氏は「私の咽喉は皺のばし機械を通ってきたような感じだった」と訳している。村上訳は「肉挽機を通り抜けてきたみたいな具合だった」だ。<mangle>は、動詞の場合「切ったり叩いたりして、ぐちゃぐちゃにする」という意味があるが、名詞の場合は「(ローラーを使った)皺のばし機、洗濯物手動絞り機」を指す。昔の洗濯機についていた二本のローラーの間に洗濯物を入れるあれだ。インディアンの手で押しつぶされたことをいうのだから「肉挽機」はちがうだろう。

「痛いところをついたようだ」は<It hurt his corns>。清水氏は例のごとく、ここをカットしている。村上氏は「それはどうやら苦手なことのようだ」と訳している。解釈としてはその通りだろう。<tread(step, trample) on one's corns>というイディオムがある。<~の感情を害する>のような意味で使う。<tread、step、trample>は「踏みつける、踏みにじる」の意味で<hurt>は「傷つける」の意味だから、それを踏まえているのだろう。