marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(1)

ドア越しに相手に投げるのは、キスだけじゃない。

【訳文】

《パジャマ姿でベッドの脇に座りながら、起きようかと考えていたが、まだその気になれなかった。気分爽快とまではいえないが、思っていたよりましだ。サラリーマンだったら、と思うほど気分は悪くなかった。頭は痛むし、腫れて熱があり、舌は渇き、砂利でも乗せているような気がした。喉はこわばり、顎はタフとはいえなかった。しかし、もっとひどい朝を迎えたことはある。
 霧の濃い薄暗い朝で、まだ暖かくはないが、暖かくなりそうだ。ベッドから体を持ち上げ、嘔吐のせいで痛む腹のくぼみをさすった。左脚は良くなっていた。痛みは残っていなかった。それで、ついベッドの角を蹴らずにいられなかった。
 ドアを強く叩く音がしたのは、悪態をついていたときだ。威張りくさったノック。二インチばかりドアを開け、汁気たっぷりのブーイングを浴びせてから、バタンと閉じたくなりそうな種類のやつだ。
 私はドアを二インチよりは少し広めに開けた。ランドール警部補がそこに立っていた。茶色のギャバジンのスーツに軽いフェルト生地のポークパイをかぶり、たいそう小奇麗で清潔、真面目くさっていたが、目にはたちの悪い色が浮かんでいた。
 彼がドアを少し押したので、私は後ろに下がった。彼は入ってドアを閉め、あたりを見回した。「この二日というもの、君を探していたんだ」彼は言った。彼は私を見なかった。目は部屋の中をじろじろ見ていた。
「病気だったんだ」
 彼は軽く弾むような足どりで歩きまわった。艶やかな銀髪は輝き、帽子を脇の下にはさみ、両手はポケットの中にいれていた。警察官としては大柄なほうではない。片手をポケットから出して、帽子を雑誌の上に注意深く置いた。
「ここにいなかったな」彼は言った。
「入院していた」
「どこの病院だ?」
「ペット・クリニックさ」
 彼はひっぱたかれでもしたかのように体をぐいと引いた。鈍い色が皮膚の奥に現れた。
「少しばかり早過ぎないか、その手の話には」
 私は黙って、煙草に火をつけた。煙を吸い込み、また素早くベッドに腰を下ろした。
「君のような男にはつける薬がない」彼は言った。「監獄に放り込むしかない」
「私は病人だった。まだ朝のコーヒーも飲んでいない。高級な機知を期待する方が無理だ」
「この事件には関わるなと言ったはずだ」
「あんたは神じゃない。イエス・キリストでさえない」
 私は煙草をもう一本吸った。内心どこか生硬な感じがしたが、そこが少し好きだった。
「俺がどれだけ君をひどい目に遭わせられるかを知れば、驚くだろうよ」
「だろうな」
「どうして今までやらなかったか、分かってるか?」
「ああ」
「なぜだ?」彼は敏捷なテリアのように少し前屈みになり、無慈悲な眼をした。遅かれ早かれ、警官はみんな同じ目つきをする。
「私が見つからなかったから」
 彼は上体を反らせて身を揺すった。顔が少し輝いた。「何か別のことを言うと思っていた」彼は言った。「それを言ったら、一発食らわす気だった」
「二千万ドルくらいでは怯まないってことか。しかし、上に命令されるかもしれない」
 彼は口を少し開いて、荒い息をした。ポケットからそろりそろりと煙草の箱を取り出して包装紙を引きちぎった。指が少し震えていた。唇に煙草を咥え、マガジン・テーブルにマッチ・ホルダーを探しに行った。慎重に煙草に火をつけ、マッチを床ではなく灰皿に捨て、煙を深く吸い込んだ。
「このあいだ、電話で忠告しておいたな」彼は言った。「木曜日だった」
「金曜日だ」
「そう、金曜日だ。聞き入れられなかった。理由は分かってる。しかし、その時は君が証拠を握っていることを知らなかった。この事件に関して良かれと思ったことを勧めただけだ」
「どんな証拠だ?」
 彼は黙って私を見つめた。
「コーヒーでもどうだ?」私は訊いた。「少しは人間らしくなれるかもしれない」
「いらん」
「私は飲む」私は立ち上がり、キチネットに向かった。
「座れよ」ランドールは厳しい口調で言った。「話はまだ終わっていない」
 私はかまわずキチネットに行き、薬缶に水を入れて火にかけた。蛇口から直接水を飲み、もう一口飲んだ。私は三杯目のグラスを手に、戻ってきて入り口に立って彼の方を見た。彼は動いていなかった。煙の帷が中身があるもののように片身に寄り添っていた。彼は床を見ていた。
「ミセス・グレイルの招きに応じたことの一体どこがいけないんだ?」私は訊いた。
「そのことを言ってるんじゃない」
「ああ、でもさっきはそれを言いたかったんだろう?」
「彼女は君を招いていない」彼は視線を上げたが、眼はまだ無慈悲さがうかがえた。赤らみが尖った頬骨に残っていた。「押しかけたんだ。そして、スキャンダルをちらつかせて仕事にありついた。事実上、脅迫だ」
「おもしろい。私の記憶によれば、我々は仕事の話さえしなかった。彼女の話に何かあるとは思いもしなかった。真剣に取り組もうにも、手の付けようがない、ということだ。もちろん君はすべて彼女から聞いたと思うが」
「聞いた。あのサンタモニカのビアホールは盗っ人どもの隠れ家だ。だからといって、それに何の意味もない。そこでは何も手に入らなかった。向かいのホテルも胡散臭いが、狙う相手じゃない。ちんぴらばかりだ」
「私が押しかけた、と彼女が言ったのか?」
 彼は少し視線を落とした。「いや」
 私はにやりとした。「コーヒーでもどうだ?」
「いらん」
 私はキチネットまで行き、コーヒーを淹れ、ドリップがすむまで待った。ランドールは今度は私についてきて入り口に立った。
「この宝石強盗団は私の知る限り、ここ十年ほどハリウッドを荒らしまわっている」彼は言った。「今度ばかりはやり過ぎた。人ひとり殺したんだ。私には理由がわかっている」
「いいぞ、もしこれがギャングの仕業で、君がそれを解決したら、私がこの街に住んでから初のギャング殺人事件の解決になる。少なくても一ダースは未解決事件の名を書き出せる」
「よく言うよ、マーロウ」
「まちがってたら、訂正してくれ」
「くそっ」彼はいらついて言った。「まちがってなどいない。記録の上は二件が解決済みになっているが、容疑者に過ぎない。チンピラがボスの罪をかぶらされたのさ」
「ああ、コーヒーは?」
「もし、飲んだら、真面目に話してくれるか、男対男として、気の利いた警句抜きで?」
「やってみよう。頭の中身をあらいざらいぶちまけるわけにはいかないが」
「知恵を借りに来たわけじゃない」彼は気難しげに言った。》

【解説】

「サラリーマンだったら、と思うほど気分は悪くなかった」は<not as sick as I would feel if I had a salaried job>。清水氏は「サラリーマンだったら、会社勤めに出かけるのも、さして苦痛ではない」と訳しているが、ちがうのではないだろうか。村上氏は「会社勤めをするのに比べたら数段ましな気分だ」と訳している。ニュアンスはこちらの方が近いが「数段まし」というほどの差はない気がする。かなり状態は悪いが、月給取りをしていたらこんな目に遭わなかったのになあ、と後悔するほどでもない、というくらいの意味だ。

「汁気たっぷりのブーイングを浴びせて」は<emit the succulent raspberry>。清水訳は「アカンべーをして」。村上訳は「べたべたするラズベリーを投げつけ」。村上氏は「キイチゴ」と解釈したようだが、清水氏の方がよくご存じのようだ。「アカンべー」とはうまい訳語を見つけたもので、この場合の「ラズベリー」はスラング。「ブロンクス・チア」ともいう。審判が誤審したときなどにアメリカ人がよくやる「軽蔑や不賛成の意を示す目的で、舌を唇の間にはさんで出す振動音」のことだ。

<succulent>は「水分が多い」を意味する形容詞。そのまま読めば「ジューシーな木苺」ということになる。村上氏がそう訳したくなるのも無理はないが、<emit>に「投げる」の意味はない。「(音、声などを)口に出す」という意味だ。映画で見たことがあるが、結構長く音を出すようだ。舌をふるわせて音を出すのだから、当然つばも飛ぶことだろう。

「内心どこか生硬な感じがしたが、そこが少し好きだった」は<Somewhere down inside me felt raw, but I liked it a little better>。清水氏は「からだはまだ、ほんとうに恢復してはいないようだった」と訳している。村上氏はそれを踏まえて「身体の内側で何かがちくちくしたが、それでも前よりは少しましになっていた」と訳している。疑問なのは、<inside>をどうして「体」の内側ととるのか、ということだ。

<(deep) down inside>は「心の奥底で」という意味。何を<raw>と感じたのかは不明だが<raw>とは「未加工の、精製していない」という意味だ。推測だが、マーロウは一服しながら<You're not God. You're not even Jesus Christ>という文句のことを考えていたのではないだろうか。確かにマーロウの台詞にしては「ひねり」がなさすぎる。しかし、その直截なところが逆に気に入ったのだろう。

「彼は敏捷なテリアのように少し前屈みになり、無慈悲な眼をした。遅かれ早かれ、警官はみんな同じ目つきをする」は<He was leaning over a little, sharp as a terrier, with that stony look in his eyes they all get sooner or later>。清水訳は「彼はテリヤのような眼でじっと私を見つめた」だ。テリアは地中の小動物を狩りだすための猟犬として開発された犬だ。キツネ穴に飛び込もうとするときの前傾姿勢を指すのであって、眼ではない。村上訳は「彼はテリアみたいに鋭く、いくらか前屈みになった。その目には無慈悲な冷酷さが浮かんでいた。いつかはそいつが顔を出すことになる」だ。<sharp>といえば何でも「鋭い」と訳すのは少し芸がないと思う。<they>はどこへ行ったのだろう。

「マガジン・テーブルにマッチ・ホルダーを探しに行った」は<went over to my magazine table for a match folder>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「マッチをとりにマガジン・テーブルまで行った」と訳している。<match folder>というのは、マッチを入れておくちょっとした小物入れのこと。材質も形状もさまざまで、灰皿がついている物もある。

「コーヒーを淹れ、ドリップがすむまで待った」は<made the coffee and waited for it to drip>。清水訳は「コーヒーの仕度をした」。村上訳は「コーヒーを作った」だ。まあ、薬缶を火にかけたことはわかっているので、サイホンやパーコレーターでないことは明らかだが、ドリップであることを知らせておくのも悪くはないだろう。