marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第30章(1)

<just to give you an idea>は「ご参考までに申し上げると」

【訳文】

《詮索好きな婆さんは玄関ドアから一インチほど鼻を突き出し、早咲きの菫の匂いでも嗅ぐようにくんくんさせ、通りをくまなく見渡してから、白髪頭で肯いた。ランドールと私は帽子を取って挨拶した。この辺りでは、客はヴァレンティノと肩を並べられるらしい。彼女は私を覚えていたようだ。
「お早うございます、ミセス・モリスン」私は言った。「少し中に入れてもらえませんか? こちらは警察本部のランドール警部補です」
「後にしてくれないか。取り込み中でね、アイロンがけが山ほど溜まってるんだ」
「お手間はとらせません」
 彼女がドアから後ろに下がったので、私たちは彼女をすり抜けて、メイソン・シティやらどこやらから来たサイドボードのある廊下に入り、そこから窓にレースのカーテンがかかった小ぎれいな居間に入った。家の奥からアイロンの匂いが漂ってきた。彼女は間仕切りのドアをまるで練りパイ生地でできているかのようにそっと閉じた。
 今朝は青と白のエプロンを身に着けていた。両眼は相変わらず抜け目なさそうで、顎は何も伸びていなかった。
 私から一フィートのところに立って顔を前に突き出し、私の目をのぞき込んだ。
「届かなかったよ」
 私は心得顔をした。肯いて、ランドールの方を見た。ランドールも肯いた。彼は窓際に行き、横手にあるミセス・フロリアンの家を見た。それからポークパイを脇の下に挟み、学生演劇に登場するフランスの伯爵のように丁寧な物腰で戻ってきた。
「届かなかったんだ」私は言った。
「ああ、届かなかった。土曜日は朔日だった。エイプリル・フールだ。ひっ!ひ!」彼女は話を止め、エプロンで目を拭こうとしたとき、ゴム製だったことを思い出した。それがいささか気に障った。口にしわが寄った。
「郵便配達がやってきて、家の前を通り過ぎたとき、あの女は家から飛び出して呼びかけた。郵便屋は首を振ってそのまま行ってしまった。女は家に戻った。思いっきり戸を閉めたもんだから窓が壊れるんじゃないかと思ったよ。気でもふれたのかね」
「誓ってもいい」私は言った。
 詮索好きな婆さんはランドールに刺々しく言った。「バッジを見せるんだ。若いの。こっちの若いのはこの間ウィスキーの匂いをさせていた。私は前から本当に信じちゃいない」
 ランドールは青と金のエナメルのバッジをポケットから取り出して見せた。
「どうやら本物のようだね」彼女は認めた。「日曜日には何も起こらなかった。あの女は酒を買いに出て、角瓶を二本ぶらさげて帰ってきた」
「ジンだ」私は言った。「ご参考までに申し上げると、真っ当な人間はジンを飲まない」
「真っ当な人間はそもそも酒なんか飲まないよ」詮索好きな婆さんはあてつけがましく言った。
「ごもっとも」私は言った。「月曜日がやって来た、つまり今日のことだ。郵便配達はまた通り過ぎた。今度こそ彼女は本当に怒った」
「随分鼻が利くじゃないか、若いの。どうにかして人様が口を開くまで待てないものかね」
「申し訳ありません、ミセス・モリスン。これは我々にはとても大事なことなので―」
「こちらの若いのは、何の支障もなく口を噤んでいられるようだ」
「彼は女房持ちでね」私は言った。「練習を積んでる」
 彼女の顔は青みを帯びた紫色に変わった。気味の悪い、チアノーゼを思い出す色だ。「とっとと出てお行き、私の家から。さもないと警察を呼ぶよ」彼女は叫んだ。
「あなたの眼の前に立っているのがその警官ですよ、マダム」ランドールが簡潔に言った。「あなたの身に危険が及ぶことはありません」
「それはそうだが」彼女は認めた。紫の色合いが消え始めた。「この男は気に入らない」
「あなたには私がついています、マダム。ミセス・フロリアンに今日も書留は届かなかった。そういうことですね?」
「そうさ」彼女の声は刺々しく素っ気なかった。隠し事をしている目だった。そして早口でしゃべり出した。あまりにも早口過ぎた。「昨夜あそこに誰か来てた。姿は見ていない。知り合いに映画に誘われて帰ってきたとき―いや、知り合いの車が走り去った後だ―隣から車が出て行った。ライトを点ける暇もないくらい急いで。ナンバーは見えなかった」
 彼女は私を横目でちらっと盗み見た。どうしてそこまでこそこそするのか気になった。私は窓のところへ行って、レースのカーテンを上げた。青灰色の官服が近づいていた。男は重そうな革鞄を肩にかけ、つば付きの帽子をかぶっていた。
 私はにやにやしながら窓から顔を背けた。
「腕が鈍ったな」私はあけすけに言った。「来年はCクラスのマイナー・リーグでショートを守ることになりそうだ」
「気が利いてるとはいえないな」ランドールは冷やかに言った。
「なら、窓から外をのぞいてみろ」
 彼は外を見た。顔が険しくなった。彼はそこにじっと立ってミセス・モリスンを見ていた。彼は何かを待っていた、この世に二つとない音だ。それはすぐやってきた。》

【解説】

「この辺りでは、客はヴァレンティノと肩を並べられるらしい」は<In that neighborhood that probably ranked you with Valentino>。清水訳は「この辺へ来れば、私もヴァレンティノ(美男で一世を風靡した映画俳優)と肩をならべられるらしい」。ルドルフ・ヴァレンティノはサイレント時代の俳優だ。近頃ではめったに見られない美男子だった。清水氏の当時でも注をつけないと分からないと思われたのだろう。

村上訳だとこうなる。「その近隣の水準からすれば、それはおそらくヴァレンチノ顔負けの気障な真似であったはずだ」。文脈という観点でいえば、村上氏は二人が帽子をとったのが気障な真似だと取ったわけだ。挨拶で帽子をとるくらいのことがそんなに気障なことだろうか。むしろ、二人の来客を見て、一人の方を覚えていたから肯いたことに対するコメントではないのだろうか。めったに来客などないので、一度見たら忘れないのだろう。

「私たちは彼女をすり抜けて、メイソン・シティやらどこやらから来たサイドボードのある廊下に入り」は<we slipped past her into her hallway with the side piece from Mason City or wherever it was and from that into>。清水氏はここをカットしている。前回の訪問のときに交わされた会話についての言及である。村上訳は「我々は彼女の身体をすり抜けるようにして、メイソン・シティーだかどこだかから運ばれてきたサイドボードが置かれている玄関に足を踏み入れた」だ。

「まるで練りパイ生地でできているかのように」は<as if it was made of short pie crust
>。清水氏はここもカット。<short pie crust>というのは「練りパイ」のことで、手順のかかる「折りパイ」に比べ、手軽なパイ生地のことである。村上訳は「まるでパイの皮でできたものみたいに」。あまり過程でパイを焼く習慣のない日本では、こちらの方が分かりやすいかもしれない。

「顎は何も伸びていなかった」は<her chin hadn't grown any>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「顎には成長のあとはうかがえなかった」。英米では「あご」は自己主張や意志力の宿る場所とみなされる、という解説が辞書にあった。「ぺらぺらしゃべる」という意味の俗語もあるので、マーロウはミセス・モリスンに対して思うところがあってわざわざ書き添えているのだろうか。

「ご参考までに申し上げると」は<just to give you an idea>。<just to give you an idea>は、何かを相手に教えようとするときに文頭に置く決まり文句である。清水氏は「わかったかね?」とミセス・モリスンに向けて話しかけるように訳している。これならどんな場合でも通用する。村上氏は「お里が知れるというやつだな」と訳しているが、「お里が知れる」というのは、ミセス・フロリアンの人物評になっていて、使い回しがきかない。決まり文句については、汎用性の高い日本語に訳すべきではないか。

「そして早口でしゃべり出した。あまりにも早口過ぎた」は<She began to talk rapidly, too rapidly>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「そして早口でしゃべり始めた。いささか早すぎるくらいに」。なぜ急ぐ必要があるのか、という疑問がマーロウの頭に浮かんでいるのだろう。だことを仄めかしている部分だ。こういうところは大事にしたい。

「青灰色の官服が近づいていた」は<An official blue-gray uniform was nearing the house>。清水訳は「灰色がかった青い制服の男が近づいてきた」。村上訳は「青灰色の制服を着た男がこちらに近づいていた」。両氏とも、原文にはない「男」をわざわざ入れているのに、原文にある<An official>にはふれていない。近づいて来ているのは、「男」ではない。見慣れた「公務員」の制服である。