marginalia

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『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第36章(2)

<get done with>は「(仕事などを)片付ける」という意味。

【訳文】

「連中の思惑は分かる」レッドは言った。「警官の問題は、頭が足りないとか、腐りきってるとか、荒っぽいとか、そんなことじゃない。警官になれば今まで手にしたことがない何かが手に入ると考えるところだ。昔はそんなこともあったかもしれないが、今はちがう。上には頭の切れるやつが腐るほどいるんだ。そこで、ブルネットの話になる。彼が市政を動かしてるわけじゃない。彼は煩わされたくないんだ。市長選の資金を提供したのは自分の水上タクシーに口出しされたくなかったからだ。もし、彼が特別に便宜を図ってほしいと思ったら、その通りになる。以前、彼の友人弁護士が飲酒運転で逮捕されたことがある。飲酒運転は重罪だ。ブルネットは容疑を無謀運転に引き下げさせた。警察はそのために事件記録簿を改竄したが、それもまた重罪だ。一事が万事この調子だ。やつの生業は賭博だが、この頃じゃいろんな稼業が結びついている。そうなると、マリファナも扱ってるかも知れないし、誰かにやらせてあがりを取っているかもしれない。ソンダーボーグを知っていたかどうか、たしかなことは言えない。しかし、宝石強盗はハズレだ。連中の儲けが八千ドルだったとしよう。そんな仕事にブルネットが関係してるというのはお笑い草だ」
「そうだな」私は言った。「人が一人殺されてるんだ。覚えているか?」
「それも彼はやってない。やらせてもいない。もし、ブルネットがやったなら死体は見つからなかったろう。服に何が縫い込まれているか分かったもんじゃない。そんな危ない橋を渡るもんか。なあ、俺は二十五ドルであんたのために動いている。ブルネットはその金で何をするんだ?」
「人を殺させることはないのか?」
 レッドはしばらく考えていた。「あるかもな。おそらくあるだろう。しかし、彼は強面じゃない。あの手のギャングは新種なんだ。彼らのことを考えるとき、つい一昔前の強盗やヤク中のチンピラのように思いがちだ。警察本部長は、やつらはみんな臆病者だとラジオで大口を叩いている。女や赤ん坊を殺し、警官の制服を見たら、命乞いをするってな。たわごとを世間に広めるような馬鹿な真似はやめるべきだ。臆病な警官もいれば、気の弱い殺し屋もいるだろうが、どちらもごく少数だ。それに、ブルネットのようなトップにいる連中は、人を殺してその地位に就いたわけじゃない。知恵と度胸でのし上がったんだ。彼らにないのは警察の持つ一致団結した勇気だ。しかし、何よりもまず彼らはビジネスマンだ。金のために動く。他のビジネスマンと同じさ。時には邪魔になる男が出てくる。オーケイ、消しちまおう。しかし、それをやる前にじっくり考える。やれやれ、俺は何のためにこんな講釈を垂れてるんだ?」
「ブルネットのような男はマロイを匿ったりしない」私は言った。「人二人殺した後では」
「しないね。金以外にこれといった理由がない限り。引き返したくなったか?」
「いや」
 レッドは舵輪に置いた手を動かした。ボートは速度を上げた。「勘違いするな。俺が連中寄りだなどと」彼は言った。「奴らの根性が嫌いなんだ」

【解説】

「市長選の資金を提供したのは自分の水上タクシーに口出しされたくなかったからだ」は<He put up big money to elect a mayor so his water taxis wouldn't be bothered>。清水訳は「市長の選挙に大金を使っているからだ」と、水上タクシーを端折っている。村上訳は「彼は市長選に多額の金を出した。運営している水上タクシーについてうるさいことを言われないようにね」。

「ブルネットは容疑を無謀運転に引き下げさせた。警察はそのために事件記録簿を改竄したが、それもまた重罪だ」は<They changed the blotter to do it, and that's a felony too>。清水氏はここを「ブルネットが口ぞえしたんで、ただのスピード違反ですんじゃった」としている。村上訳は「ブルネットはもっと軽い違反に変更させた。逮捕記録を改竄させたんだ。こいつもまた重罪だ」としている。<They>という主語がなくなることで、ブルネットだけが悪いように読める。この<too>は警察のやったことも「重罪」だと言っているのに。

「ブルネットはその金で何をするんだ?」は<What would Brunette get done with the money he has to spend?>。<get done with>は「(仕事などを)済ませる、終わらせる、やり終える、片付ける」という意味。清水訳は「ブルネットが金を使えば、どんなことをさせられると思う?」。村上訳は「ブルーネットが金を積めばどれほどのことができると思う?」。ほぼ旧訳のままだ。

レッドは、わずか二十五ドルで危険を冒している。それでは、もしブルネットが大金を払ってまで処理しなければならないことがあるとしたら、それはどういうトラブルなんだ、という、レッドの反語的な問いかけと、ここはとるべきではないのだろうか? だからマーロウは、人を使って殺しをやらせることはないのか、と聞いているのだ。

「彼らのことを考えるとき、つい一昔前の強盗やヤク中のチンピラのように思いがちだ」は<We think about them the way we think about old time yeggs or needle-up punks>。清水訳は「ブルネットにかぎらないが、彼らを昔のギャングのように考えるのがまちがいなんだ」と<needle-up punks>をカットしている。村上訳は「俺たちはやつらについて考えるとき、どうしても昔ながらの強盗やら、薬物中毒のちんぴらを思い浮かべる」。

「警察本部長は、やつらはみんな臆病者だとラジオで大口を叩いている。女や赤ん坊を殺し、警官の制服を見たら、命乞いをするってな。たわごとを世間に広めるような馬鹿な真似はやめるべきだ」は<Big-mouthed police commissioners on the radio yell that they're all yellow rats, that they'll kill women and babies and howl for mercy if they see a police uniform. They ought to know better than to try to sell the public that stuff>。

清水氏は「彼らはみんな卑怯もので、女でも子供でも殺すし、警官の姿を見ると、ちぢみ上がって命乞いをすると思っている。警察が国民にそう思わせているんだ」と、かなり原文と異なる。村上訳は「でかい口をきく警察のコミッショナー連中はラジオに出演して、やくざなんてみんな臆病な連中で、女や子供ばかり殺し、制服の警官が現れたら泣いて慈悲を乞うみたいなことを威勢よく言い立てている。そんな与太話を大衆に売り込むよりもっと大事なことがあるだろうにな」。<ought to know better than to>は「もっと分別をもってしかるべき」といういみ。

「奴らの根性が嫌いなんだ」は<I hate their guts>。清水訳は「俺は彼奴らの度胸が嫌いなんだ」と、原文通りに訳している。ところが、めずらしいことに村上氏は「あいつらは許せん」と勝手な言葉に替えている」。ここは何度も出てくる<guts>をきちんと訳すべきところではないのだろうか。清水氏は「度胸」と訳しているが、嫌うなら「根性」の方が座りがいい、と思う。