marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(2)

<Sometimes a guy has to>は「男はつらいよ

【訳文】

 彼は奇妙な表情を浮かべながら目を背けたが、そこの光では読み取れなかった。私は彼の後について、箱や樽の間を抜け、ドアについた高い鉄の敷居を乗り越え、船の臭いのする長く薄暗い通路へと入っていった。そこを抜けると鉄格子の足場に出て、油でつるつるになり、つかまりにくい鉄梯子を降りた。オイル・バーナーのゆっくりしたシューッという音が今やあたりを満たし、他のあらゆる音を覆い隠していた。我々は物言わぬ鉄の山間を縫って音のする方に向かった。
 角を回ると、紫色のシルクのシャツを着た薄汚れたイタリア系の小男が見えた。針金で補強した事務用椅子に座り、天井からぶら下がった裸電球の下で、黒い人差し指と、おそらく彼の祖父のものだったろう金属縁の眼鏡の助けを借りて夕刊を読んでいた。
 レッドは忍び足で背後に回り、そっと声をかけた。
「やあ、ショーティ、子どもたちは元気にしてるか?」
 イタリア人はカクンと口を開け、紫のシャツの開口部に手を伸ばした。レッドは男の顎の角を殴り、倒れようとするところを支えた。その体をそっと床に寝かし、紫のシャツを引き裂きにかかった。
「これは間違いなくこいつを拳骨より痛い目に合わせるだろう」レッドは優しく言った。「だが、換気口の梯子を上ろうとすれば下に派手な音を立てる。上には何も聞こえない」
 彼は手際よくイタリア人を縛り、猿ぐつわをかませると、眼鏡を畳んで安全な場所に置いた。それから我々は格子のはまっていない換気口に歩を進めた。私は上を見上げたが、暗くて何も見えなかった。
「じゃあな」私は言った。
「もしかしたら、少し助けが必要なんじゃないか」
 私は濡れた犬のように身震いした。「本当は海兵隊一個中隊を必要としている。しかし、一人でやるか、やらないでおくかのどちらかだ。それじゃ」
「どれくらいいるつもりだ?」彼の声はまだ心配そうだった。
「一時間以内だ」
 彼はじっと私を見て唇を噛んだ。それから頷いた。「男はつらいよ」彼は言った。「暇ができたら、ビンゴ・パーラーに顔を出してくれ」
 彼はそっと歩き去った。四歩歩いたところで戻ってきて「あの開けっ放しの搬入口」彼は言った。「何かの時の役に立つかもしれん。使うといい」そう言うと、さっさと行ってしまった。

【解説】

「彼は奇妙な表情を浮かべながら目を背けたが、そこの光では読み取れなかった」は<He turned away from me with a curious look I couldn't read in that light>。清水訳は「レッドは不思議な眼つきを見せて、私からはなれていった。光線が暗く、私は彼の眼を読むことができなかった」。村上訳は「レッドはわけありげな顔をしてあちらを向いたが、貧弱な明かりの下では、細かい表情までは読めなかった」。原文のどこにも暗さについての新たな言及はない。

「そこを抜けると鉄格子の足場に出て、油でつるつるになり、つかまりにくい鉄梯子を降りた」は<We came out of this on to a grilled steel platform, slick with oil, and went down a steel ladder that was hard to hold on to>。清水訳は「通路を出たところは、油でツルツルすべる鋼鉄の床で、私たちはそこから、鉄梯子を降りた」。床が「格子状」であること、梯子がつかみにくいことがが抜け落ちている。

村上訳は「通路を出ると、格子状の鉄でできた床になっていた。オイルでつるつるしている。そこから下に降りる鉄の梯子は、手でしっかりつかんでいるのが難しかった」。新旧訳ともに<slick with oil>を<platform>を修飾するものと解釈しているが<hard to hold on>とあるので、同じ鉄製の梯子も油で滑りやすくなっている、と取るべきだろう。

「オイル・バーナーのゆっくりしたシューッという音が今やあたりを満たし、他のあらゆる音を覆い隠していた」は<The slow hiss of the oil burners filled the air now and blanketed all other sound>。清水訳は「重油の燃える音が、その他のすべての音を消していた」。村上訳は「オイル・バーナーのしゅうっという緩やかな鋭い音が今ではあたりに満ちて、他のすべての音を圧倒していた」。

「オイル・バーナー」というのは「水蒸気の力で油を霧状にし,空気流中に噴射して燃焼させる」装置なので、意味としては清水訳の通りなのだが、残念ながら、どんな音かが分からない。<hiss>は村上訳の通り<しゅうっという>音なのだが、「緩やかな鋭い音」というのは、一体どんな音なのだろう。「ヒス音」からの連想でつい「鋭い」と入れたのだと思うが、かえってどんな音か分からなくしてしまっている。

「我々は物言わぬ鉄の山間を縫って音のする方に向かった」は<We turned towards the hiss through mountains of silent iron>。清水訳は「私たちは鋼鉄の林のあいだを抜けて、その音のする方へ歩いて行った」と、「山」を「林」に替えている。村上訳は「むっつりとそびえ立つ鉄の塊のあいだを抜けて、我々はその鋭い音に向けて進んだ」と「塊」に替えている。何分にも比喩なので、目くじらを立てるところではないが、参考までに。

「角を回ると、紫色のシルクのシャツを着た薄汚れたイタリア系の小男が見えた」は<Around a corner we looked at a short dirty wop in a purple silk shirt >。清水訳は「角をまがると、紫色のシャツを着た薄汚い小男」。村上訳は「角をまがったところに、紫色のシャツを着たすすけた(傍点四字)イタリア系の小男がいた」と、両氏とも<silk>を忘れている。清水氏が訳していない<wop>はラテン系、特にイタリア人を指す蔑称。<short dirty wop>と続けたところに差別意識が強く出ている。

「天井からぶら下がった裸電球の下で、黒い人差し指と、おそらく彼の祖父のものだったろう金属縁の眼鏡の助けを借りて夕刊を読んでいた」は<under a naked hanging light, and read the evening paper with the aid of a black forefinger and steel-rimmed spectacles that had probably belonged to his grandfather>。清水訳は「裸の電灯の下で、祖父の代から伝わっているような鉄ぶちの眼鏡をかけて夕刊を読んでいた」。

村上訳は「真っ黒な人差し指と、金属縁の眼鏡の助けを借りて、裸電球の下で夕刊を読んでいた。その眼鏡はおそらく彼の祖父がかつて使っていたものだろう」。清水訳は<with the aid of a black forefinger>が抜けている。また両氏とも<hanging>を訳し忘れている。頭上近くにぶら下がった裸電球の光で、指で文字をたどりながら新聞を読む男のイメージは絵に描いたようではないか。

「やあ、ショーティ、子どもたちは元気にしてるか?」は<Hi, Shorty. How's all the bambinos?>。<shorty>は「背が低い」ことを意味する。日本語なら「ちび」だ。清水訳はここもそれを使わず「こんばんは。どうだい、今日のレースは?」。新聞を見ていることから<bambinos>.(赤ん坊)を馬と解したのだろう。村上訳は「よう、ショーティー。子供たちは元気かね?」。

「これは間違いなくこいつを拳骨より痛い目に合わせるだろう」は<This is going to hurt him more than the poke on the button>。清水訳は「頭を殴りつけるより、この方がきくんだ」。村上訳は「こんなことをされるのは、顎に一発食らうよりも、こいつにとってはこたえるはずだ」。<poke>は俗語で「殴る」の意味。<on the button>は「(言ったことが)まったく正しい」という意味だ。清水氏は頭より顎を殴ったことが男にとって効いた、と取っているようだが、この場合の<this>は、シルクのシャツを裂かれることだろう。

男はつらいよ」と訳したのは<Sometimes a guy has to>。意味としては「時には男は(したくなくても)しなければならない(ことがある)」。清水氏はここをカットしている。いい文句なのに。村上訳は「男であるというのは時としてきついものだ」。マーロウのセリフなら、このきざったらしい文句もありだろうが、レッドの口から出るとしたら、もっとくだけた文句にしたい。