marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(1)

<chew out>は「厳しく叱りつける」という意味

【訳文】

 冷たい空気が換気口から勢いよく流れ込んできた。天辺までは遠いようだった。一時間にも思える三分間が過ぎ、喇叭のように開いた口からおそるおそる頭を突き出した。近くの帆布を張った救命ボートが灰色のぼやけた物のように見えた。低い声が闇の中で何かつぶやいた。サーチライトの灯りがゆっくりと円を描いた。光はずっと上から来た。おそらく途中で切られたマストに据えられた手すり付きの台座の上だろう。そこにはトミーガン片手の若い者もいるにちがいない。軽いブローニングも持ってるかもしれない。ぞっとする仕事だ。誰かが親切心で搬入口を開けっ放しにしておいてくれても、何の慰めにもならない。
 かすかに聞こえる音楽は、安物のラジオのようなわざとらしい低音が耳についた。頭上には檣頭のライト。そして高い霧の層を通して、冷たい星が幾つか睨みをきかせていた。
 私は換気口から這い出し、肩のホルスターから三八口径を抜き、肋骨に巻きつけるようにして袖で隠した。忍び足で三歩歩いて耳を澄ました。何も起きなかった。ぶつぶつという話し声は止んだが、私のせいではなかった。今では判っていた。声がしたのは二隻の救命ボートの間だ。そして不思議なことに、夜や霧の中から、要るだけの光が集まってきて焦点を一つに絞り、高い三脚に据えられて手すりの上からぶら下がった機関銃の暗く硬い筒先を照らした。傍らに立つ二人の男は、身じろぎもせず、煙草も吸わず、またぶつぶつと話しだした。言葉になることのない静かなささやき声だった。
 そのささやき声に耳を傾けすぎた。背後から別の声がはっきり聞こえた。
「申し訳ありません。お客様はボート・デッキには出られないことになっています」
 急ぐ素振りを見せず振り返り、相手の手を見た。ぼんやり浮かんだ両手は空っぽだった。
 頷きながら脇に身を寄せると、ボートの端が我々を隠した。男は静かに私の後についてきた。湿った甲板に靴音は立たなかった。
「どうやら、迷ったようだ」私は言った。
「そのようですね」若々しい声で、厳しく叱責する声ではなかった。「しかし、甲板昇降口の階段にはドアがあります。ばね錠がついていて、よくできた錠前です。以前は階段は開放されていて、真鍮の看板をかけた鎖が張られていました。それでは元気のいい客なら跨ぎ越えるだろうと気づきましてね」
 彼は長いあいだしゃべっていた。客あしらいなのか、何かを待っているのか、どちらか分からなかった。私は言った。「誰かがドアを閉め忘れたようだ」
 陰になった頭が頷いた。私より背が低かった。
「とはいえ、こちらの立場も察してください。もし誰かの閉め忘れだったら、ボスは放って置かないでしょう。誰かの閉め忘れでないなら、どうやってここに来られたのか知りたい。あなたならご存知のはずだ」
「いい考えがある。下に行ってボスと話そう」
「お友だちと一緒に来られたのですか?」
「とても愉快な連中だ」
「お友だちと一緒にいるべきでしたね」
「言わずもがなだが―振り返ったら他の男が彼女に飲み物をおごってるんだ」
 彼はくすくす笑った。それから顎をかすかに上げ下げした。
 私は身を低くして横っ飛びに飛んだ。静まり返った空気の中をブラックジャックが長い溜め息をついた。そばにあるブラックジャックはみんな自動的に私に向かって振り下ろされることになっているみたいだ。
 背の高いのが悪態をついた。
 私は言った。「かかってこいよ。ヒーローになれ」
 私はカチリと派手な音を立てて安全装置を外した。
 つまらない芝居でも時には大当たりをとることがある。背の高い方は根を生やしたみたいに立ちすくんだ。手首にブラックジャックが揺れているのが見えた。さっきまで話していた方の男は慌てることなく何やらじっと考えていた。
「その手には乗らないよ」彼は重々しく言った。「あなたが船を降りることはないだろう」
「それについても考えたが、君は気にしてないだろうと思ってたよ」
 あいかわらずのさえない芝居だ。
「望みは何だ?」彼はおだやかに訊いた。
「私は派手な音のする銃を持っている」私は言った。「だが、騒ぎ立てたいわけじゃない。ブルネットと話がしたいだけだ」
「仕事でサンディエゴに行っている」
「彼の代役と話そう」
「たいした度胸だ」話の分かる男は言った。「下に降りよう。ドアを通る前に銃をひっこめてくれ」
「ドアを通り抜けることができたら、銃はひっ込めよう」
 彼はかすかに笑った。「持ち場に戻れ、スリム。ここは俺に任せろ」
 男は私の前でのらりくらりと動いた。背の高い男は暗がりに消えたようだ。
「それじゃあ、ついて来るがいい」

【解説】

「おそらく途中で切られたマストに据えられた手すり付きの台座の上だろう」は<probably a railed platform at the top of one of the stumpy masts>。清水訳は「おそらく、マストの頂上から照らしているのであろう」と詳しい説明を省いている。村上訳は「おそらく途中まで断ち切られたマストの上につけられた手すり付きの台座に据えられているのだろう」。

「ぞっとする仕事だ。誰かが親切心で搬入口を開けっ放しにしておいてくれても、何の慰めにもならない」は<Cold job, cold comfort when somebody left the loading port unbolted so nicely>。清水氏はこの一文をまるまるカットしている。<cold comfort>は「少しも慰めにならないもの」という意味。<cold job>との語呂合わせだろう。村上訳は「おっかない話だ。誰かさんが荷物積み入れ口を親切に開けたままにしておいてくれたところで、さして慰めにはならない」。

「かすかに聞こえる音楽は、安物のラジオのようなわざとらしい低音が耳についた」は<Distantly music throbbed like the phony bass of a cheap radio>。清水訳は「音楽が安っぽいラジオの音楽のようにかすかに聞こえていた」と<throbbed like the phony bass>をきちんと訳していない。村上訳は「遠くから流れてくる音楽は、安物のラジオの低音みたいにぼそぼそと聞こえた」。<throb>は「鼓動する」の意味で、どきどき、ずきんずきん、と規則的に響いてくる動きのこと。「ぼそぼそと」というのとは違う。

「冷たい星が幾つか睨みをきかせていた」は<a few bitter stars stared down>。清水訳は「心細い星がいくつか光っていた」。村上訳は「いくつかの星が凍てつくように光っているのが見えた」。<bitter>には「苦い、つらい、厳しい、冷酷な」のような意味があるが「心細い」というのはない。文末の<stare down>は「見下ろす」という自動詞の他に、「にらみ倒す、おとなしくさせる」という他動詞としての用法がある。「心細い」のは星ではなく、誰の助けも得られないマーロウの方だ。

「そして不思議なことに、夜や霧の中から、要るだけの光が集まってきて焦点を一つに絞り、高い三脚に据えられて手すりの上からぶら下がった機関銃の暗く硬い筒先を照らした」は<And out of the night and the fog, as it mysteriously does, enough light gathered into one focus to shine on the dark hardness of a machine gun mounted on a high tripod and swung down over the rail>。

清水訳は「そして夜が暗く、霧が立ちこめていたにもかかわらず、そこに一台の機関銃が据えられ、銃口を海面に向けているのが見えた」。実にあっさりしたものだ。村上訳は「そして夜の霧の中で、何かしら神秘的な成り行きによって、光がほどよく集まってひとつに焦点を結び、機関銃の黒々とした硬い銃身をぎらりと光らせた。機関銃は高い三脚の上に据えられ、手すりの上から周囲を睥睨(へいげい)していた」。いくら「神秘的な成り行き」にせよ、夜霧の中で銃身が「ぎらりと」光ったりするものだろうか。

「若々しい声で、厳しく叱責する声ではなかった」は<He had a youngish voice, not chewed out of marble>。清水訳は「彼は若々しい声でいった」と、後半をトバしている。村上訳は「若々しい声だった。大理石から切り出したようないかつい声ではない」。これは誤訳だろう。<chew out>は「厳しく叱りつける」という意味の俗語だ。<marble>には「冷たい」という意味がある。

「そばにあるブラックジャックはみんな自動的に私に向かって振り下ろされることになっているみたいだ」は<It was getting to be that every blackjack in the neighborhood swung at me automatically. The tall one swore>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「手近にあるブラックジャックはすべて、自動的に私に向かって振り下ろされるように設定されているのかもしれない」。

「つまらない芝居でも時には大当たりをとることがある」は<Sometimes even a bad scene will rock the house>。清水訳は「まずい演出の場合でも、観客にうけることがある」。村上訳は「ときには月並みな台詞が馬鹿にできない力を発揮することもある」だ。村上氏は<scene>を「台詞」と解しているが、<scene>には安全装置を外した音を聞かせることも含めているのではないか。

「その手には乗らないよ」は<This won't buy you a thing>。清水訳は「騒いでも、何にもならない」。村上訳は「よく考えた方がいい」だ。<won't buy ~>は「~に騙されない」という意味だ。この男はマーロウに対して何かを命じているわけではない。こちらとしてはあなたを信じる気はない、と言っているのだ。

「それについても考えたが、君は気にしてないだろうと思ってたよ」は<I thought of that. Then I thought how little you'd care>。清水訳は「それは、わかってる。だが、どう出て来るか、試してみたかったんだ」。村上訳は「考えても詮ないことは考えないようにしているのさ」。両氏の訳が全く異なる。村上氏は一つ前の「よく考えた方がいい」を受けた訳になっているのだろう。しかし、原文とはかなり異なる訳になっている。

「男は私の前でのらりくらりと動いた」は<He moved lazily in front of me and the tall one appeared to fade into the dark>。清水氏はこの部分を「ついて来たまえ」の後に動かし「優しい声の小男はそういって歩き出した」と訳している。村上氏は「彼が私の前であきらめたように身体の向きを変えると」と訳している。<move lazily>は「のろのろと動く」の意味だ。「歩き出」したり「身体の向きを変え」たりはしていない。スリムと呼ばれた男が自分の言う通りに動くかどうか確かめるため時間を稼いでいたのだろう。