marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(2)

<squeeze out of>は「(情報・自白)などを(人から)強引に引き出す」

【訳文】

 彼は横ざまにテーブルの方に動いて銃を置くとオーバーコートを引き剥がすように脱いで一番上等の安楽椅子に腰を下ろした。椅子は軋んだが、どうにか持ちこたえた。ゆっくりと椅子の背にもたれ、自分の右手近くに来るように銃を置き直した。ポケットから煙草の箱を取り出して一本振り出し、指を使わずに口にくわえた。親指の爪でマッチを擦った。煙のいがらっぽい匂いが部屋の中に漂った。
「病気でもしてるのか? 」彼は言った。
「寝てただけさ。ひどい一日でね」
「ドアが開いてたぜ。誰か来るのを待ってるのか?」
「女だ」
 彼は考え深げに私を眺めた。
「待ちぼうけかもな」私は言った。「もし来たとしても、適当に追い払うよ」
「どんな女だ?」
「ただの女さ。もし来ても追い払うさ。君と話したいんだ」
 とても仄かな笑みが浮かんだ。ほとんど口は動いていない。彼はぎごちない手つきで煙草をふかした。まるで彼の指には小さすぎて扱いにくいとでもいうように。
「どうして俺がモンティに乗っていると思ったんだ?」彼は訊いた。
「ベイ・シティの警官だ。長い話になる。しかもほとんど当て推量だ」
「ベイ・シティの警官が俺をつけ回してるのか?」
「気になるか?」
 彼は再び微かな笑みを浮かべた。わずかに首を振った。
「君は女を殺した」私は言った。「ジェシー・フロリアンだ。あれはまちがいだった」
 彼は考えていた。それから肯いた。「俺だったらその話はよすがな」彼は静かに言った。
「しかし、そのせいでぶち壊しになった」私は言った。「君のことは怖くない。君は人殺しじゃない。君にあの女を殺す気はなかった。もう一つの方――セントラル街の――なら、切り抜けられただろう。しかし、脳みそが顔に飛び散るまで女の頭をベッドの柱に叩きつけては、もう抜け出せない」
「よほどひどい目にあいたいらしいな、兄弟?」彼はそっと言った。
「よくそういう目に遭っている」私は言った。「誰にやられたって大差ない。女を殺す気はなかった。そうなんだろう?」
 彼の眼は落ち着かなかった。神妙にこくりとうなずいた。
「自分にどれだけ力があるか、学習してもいい頃合いだ」私は言った。
「もう手遅れだ」彼は言った。
「君は彼女から何かを聞き出したかった」私は言った。それで彼女の首をつかんで強く振った。君がベッドの柱に頭を叩きつける前に女はすでに死んでいた」
 彼は私をじっと見つめた。
「君が彼女から聞きたかったことを知ってる」私は言った。
「続けろ」
「死体を発見したとき警官と一緒だった。事実を話すしかなかった」
「どこまで話した?」
「まあまあのところだ」私は言った。「しかし、今夜のことは知らない」
 彼は私を見つめた。「いいだろう。どうしてモンティにいると分かった?」その質問は二度目だったが、彼は忘れているようだった。
「分かるわけがない。しかし、逃げるなら海がいちばん手っ取り早い。ベイ・シティに匿うことができるなら賭博船の一隻に乗せることもできる。そこからまんまと逃げ果せることもできる。適切な助けがあればね」
「レアード・ブルネットはいい男だ」彼は他人事のように言った。「そう聞いている。俺は口をきいたこともない」
「君への言づてを伝えてくれた」
「知るか、あいつには頼りになる伝手がやたらとあるのさ。なあ、名詞に書いてあったことはいつやるんだ? あんたは正直だという気がしてる。そうでもなきゃ、ここへ来ようと思わなかった。どこへ行くんだ?」
 彼は煙草を揉み消して私を見た。彼の影が壁にぼんやり浮かび上がった。巨人の影だ。彼は嘘みたいに大きかった。

【解説】

「もう一つの方――セントラル街の――なら、切り抜けられただろう。しかし、脳みそが顔に飛び散るまで女の頭をベッドの柱に叩きつけては、もう抜け出せない」は<The other one-over on Central-you could have squeezed out of. But not out of beating a woman's head on a bedpost until her brains were on her face>。

清水訳は「もう一つの殺人――セントラル街の殺人事件だけなら、なんとかなったかもしれないが、女の頭をベッドの柱に叩きつけて、頭をぐしゃぐしゃに潰しちまっては、もう逃げることはできない」。

村上訳は「もう一人の相手についていえば――セントラル・アヴェニューの男だが――殺そうと思って殺せたかもしれない。しかし女の頭をベッド・ポストに何度も叩きつけて、脳味噌を飛び出させるというのは、君には意図してやれることじゃない」。

村上版のマーロウは、少しマロイを善人視し過ぎてはいないだろうか。<squeeze out of>には「(情報・自白)などを(人から)強引に引き出す」という意味がある。セントラル街の場合、マーロウという証人がいる。正当防衛を立証できれば、故殺という重罪は免れる。その気にさえなれば、マロイはマーロウから証言を得ることができた。だが、老婦人殺しには、目撃者がいない。故殺でないと分かっても、それを証明する手立てがない。そのディレンマを言っているのだ。

「知るか、あいつには頼りになる伝手がやたらとあるのさ」は<“Hell, there's a dozen grapevines that might help him to do that>。清水訳は「あの男が持ってきたわけじゃねえ」。村上訳は「そんなこと、やつにとっちゃ朝飯前だ。情報網を張り巡らしているからな」。<grapevine>は「葡萄の蔓」だが、そこから「噂(秘密)の情報経路」の意味になる。