marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第二章(2)

<homewrecker>は女の尻を追いかける「泥棒猫」のこと

【訳文】

 彼は鍵のかかった抽斗を開けるために椅子を後ろに退き、折り畳んだ紙片を取り出して渡してよこした。広げてみると電報用紙だった。電報は六月十四日 午前九時十九分にエルパソで打たれたもので、宛先はビヴァリー・ヒルズ、カーソン・ドライブ九六五、ドレイス・キングズリー。そし文面はこうだ。

「メキシコヘリコンシニイク クリストケツコンスル ゲンキデ サヨナラ クリスタル」

 私はそれを机のこちら側に置いた。彼は光沢紙に焼かれた大きなスナップ写真を私に手渡した。ビーチ・パラソルの下で砂の上に座っている一組の男女がきれいに撮れていた。男はトランクスを穿き、女は非常に大胆な白いシャークスキンの水着を着ていた。女はほっそりした金髪で、若く、すらりとした体つきで微笑んでいた。男は屈強で浅黒いハンサムな若者で、広い肩幅と長い脚、滑らかな黒髪と真っ白な歯をしていた。身の丈六フィートの標準的な泥棒猫だ。手は抱きしめるためにあり、頭そっちのけで顔に手をかけていた。サングラスを手に、カメラに向かってわざとらしい気楽な微笑を浮かべていた。「それがクリスタルだ」キングズリーは言った。「それとクリス・レイヴァリー。妻がそいつとひっつこうが、そいつが妻をつかまえようがどうでもいい。二人ともくそくらえだ」
 私は写真を電報の上に置いた。「分かりました。で、何が問題なんです?」私は訊いた。
「小屋には電話がない」彼は言った。「妻が山を下りるはずだった用事はたいしたものじゃなかった。それで電報が来るまで気にもしていなかった。電報にもさほど驚かなかった。クリスタルと私は何年も前から終わっていたんだ。妻はしたいようにして、私もそうしていた。妻には自分の財産があって、それもかなりの額だ。妻の家族は価値ある石油をリース取引する持株会社をテキサスに持っていて、そこから年に二万ドルほど入ってくる。妻が遊び回っていて、レイヴァリーが遊び相手の一人だということは知ってた。少々驚いたのはあの男とほんとに結婚したことだ。あいつはプロの女たらし以外の何ものでもないからな。今のところ、写真で見る限り、うまくやっているようだが。ここまではいいか?」
「それから?」
「二週間は何ごともなかった。その後、サン・バーナディノのプレスコット・ホテルから連絡があった。私の住所でクリスタル・グレイス・キングズリー名義のパッカード・クリッパーがガレージに置きっぱなしにされているが、どうしたらいいかというものだ。預かっておいてくれと伝えて小切手を送った。それでもまだ大して気にしていなかった。妻はまだ州の外にいて車で行ったのならレイヴァリーの車で行ったと思ったのだ。ところが一昨日、ここの角にあるアスレチック・クラブの前でレイヴァリーに会った。彼はクリスタルの居場所を知らないと言っていた」
 キングズリーは私の方をちらっと見てからボトルと二つの色付きグラスに手を伸ばした。二つのグラスに酒を注ぎ、一つを押して寄こした。自分のグラスを明りにかざし、ゆっくり言った。
「レイヴァリーが言うには、妻と出かけたりしていないし、この二か月会ってもいなければ、一切連絡もないそうだ」
 私は言った。「彼の言うことを信じたんですか?」
 彼は肯き、眉を顰め、酒を一口飲むとグラスを脇にやった。私も試してみた。スコッチだった。あまり上物ではなかった。
「もし彼の言うことを信じたとしたら」キングズリーは言った。「多分それが誤りだったのだろうが、彼が信じるに足る人物だったからではない。話は逆だ。友だちの妻と寝ておいてそれを自慢するようなろくでなしだからだ。私を見捨てた妻と駆け落ちしたなら、喜色満面でそれを吹聴するだろうと思ったんだ。私はこういう女たらしをよく知っているし、こいつのことならなおさらだ。しばらくの間、うちで外回りの仕事をしていたんだが、トラブル続きだった。オフィスの女の子に手を出さずにいられないんだ。そのことは別にしても、エルパソからの電報の件がある。しらを切ったところで彼に何の利があるんだ?」
「奥さんに捨てられたのかもしれませんよ」私は言った。「だとすれば、かなりの痛手を受けたでしょう。カサノヴァ・コンプレックスというやつです」
 キングズリーの顔が少し明るくなったが、ほんの少しだけだった。彼はかぶりを振った。「まだ半分以上彼の話を信じている」彼は言った。「君は私が間違っていることを証明しなければならない。君を雇ったのも一部はそれだ。それとは別にかなり心配していることがある。私はここで良い地位を得ている。しかし地位とは危ういものだ。スキャンダルは命取りになる。妻が警察沙汰を起こしたら、すぐにここから出て行かねばならない」
「警察?」
「妻の数ある行状の中に」キングズリーはむっつりして言った。「時々、デパートでやる万引きがある。酒を飲みすぎたときに起きる一種の誇大妄想で、気が大きくなるんだと思う。私たちは支配人室でかなりひどい目に遭ってきた。今までのところ、色々手を回して書類送検は免れてきたが、見知らぬ町でそんなことが起きたとしたら――」彼は両手を上に揚げ、ぴしゃりと机の上に落とした。「留置場に入れられるかもしれん。そうだろう?」
「奥さんは指紋を取られたことがありますか?」
「逮捕されたことは一度もない」
「そういう意味じゃないんです。大きなデパートでは、万引きの罪科を問わないことを条件に、指紋を取られることがあります。出来心でやった連中は震え上がるし、デパート防犯協会には窃盗症のファイルが溜まる。指紋の数が一定数を越えると相応の措置がとられます」
「私の知る限り、それはないようだ」彼は言った。
「今のところ、万引きの件は考えなくてもいいでしょう」私は言った。「もし逮捕されていたら、警察は身許を洗う。記録簿にはジェイン・ドウの名を使わせたとしても、あなたに連絡しそうなものだ。それに、自分が窮地にいることに気づいたら、今ごろ、助けて、と叫び始めているでしょう」私は青と白の電報用紙を叩いた。「それにこれはもう一月も前だ。あなたが恐れていることがその時期に起きていたら、もう解決ずみでしょう。初犯なら、叱りつけ、執行猶予付きの判決で済ますでしょう」
 彼は不安を紛らすためにもう一杯注いだ。「君のお陰で気が楽になったよ」彼は言った。

【解説】

「身の丈六フィートの標準的な泥棒猫だ」は<Six feet of a standard type of homewrecker>。清水訳は「身長およそ六フィート。世間でいうマダム・キラー型」。「マダム・キラー」はもう死語かもしれない。村上訳は「身長は百八十センチほど。いかにも家庭を破壊しそうなタイプだ。田中訳は「背の高さは六フィートぐらい。他人の家庭を破壊する典型的なタイプだ」。<homewrecker>は「(不倫などして)家庭を壊す人、既婚者と付き合う人、泥棒猫」と辞書にある。

「妻の家族は価値ある石油をリース取引する持株会社をテキサスに持っていて、そこから年に二万ドルほど入ってくる」は<About twenty thousand a year from a family holding corporation that owns valuable oil leases in Texas>。清水訳は「テキサスに石油の権利を持っている持株会社から年におよそ二万ドル入ってくる」とシンプルだ。情報量は少ないがこれで意味は通る。

田中訳は「テキサスの有望な油田採掘権をもつている会社を、クリスタルの家族が経営していて、そこから毎年二万ドルほど配当があるんだよ」と詳しい。村上訳は「彼女のファミリーは持ち株会社を経営し、その会社はテキサスに価値の高い油井の賃貸権を保有している。そこから年に二万ドルほどの金が入ってくる」。「ファミリー」とカナ書きするとマフィアか何かのようだが、何か意図があるのだろうか?

「今のところ、写真で見る限り、うまくやっているようだが。ここまではいいか?」は<But the picture looked ail right so far, you understand?>。清水訳は「ここまでの話はべつにどうということもないだろう」と、写真についての言及がない。村上訳は「しかし写真で見る限り、なかなか悪くない見かけだ。だいたいのところはわかったかね?」。<all right>を男のルックスについてと解釈している。田中訳は「しかし、この写真で見ると、二人は仲がよさそうだ」。文脈から見て、こう考えるのが妥当だろう。

「そのことは別にしても、エルパソからの電報の件がある。しらを切ったところで彼に何の利があるんだ?」は<And apart from all that there was this wire from El Paso and I told him about it and why would he think it worth while to lie about it?>。清水訳は「そんなことをべつにしても、エルパソからの電報があって、私がそのことを彼に話した。私に嘘をいってとく(傍点二字)をすると彼が思うはずはあるまい」。

田中訳は「それに、エルパソで打ったクリスタルの電報もある。クリスタルのことをかくして、嘘をつく必要は、レヴリイにはないわけだ」。ところが、村上訳では「そういうことは一切抜きにしても、エルパソから届いた電報の一件もあった。私はそのことを持ち出し、今更そんなことで嘘をついて何の得があるんだと彼に詰め寄った」となっている。先に、彼を信じたと言っているのに、こう言うのはおかしいだろう。

「記録簿にはジェイン・ドウの名を使わせたとしても、あなたに連絡しそうなものだ」は<Even if the cops let her use a Jane Doe name on the police blotter, they would be likely to get in touch with you>。清水訳は「どんな仮名を使ったところで、警察からあなたのところに連絡があるはずです」。村上訳は「仮に警察の取り調べで偽名を使っていたとしても、あなたのところには連絡が来るはずです」となっている。

<Jane Doe>は裁判文書等で用いる身元不明の女性の仮名のこと。また、今までにも何度か出てきている<blotter>だが、ここでは「吸取り紙」でも「下敷き」でもなく、警察の「事件控え帳」のことだ。身元不明の場合、仮の名前が使われるのは当然だが、その後、身許が明らかになれば家族に連絡が来る。ひと月前だったら、もう連絡が来ていていいはず。マーロウはそのことを言っているのだ。田中訳は「警察の記録には変名でとおしてくれるとしても、きっと、あなたには連絡があります」。