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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第三十一章(2)

バランスを崩しかけたら、ふつう何かにつかまろうとするだろう。

【訳文】

「君はこの役を見事に演じてるよ」私は言った。「この混乱した無邪気な女のなかに透けて見える冷たさや辛辣さを含めてね。みんな君のことを大間違いしていた。君は頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さんだと考えていた。とんでもない大失態だ」
 彼女は私をじっと見つめ、眉を上げた。何も言わなかった。それから小さな笑みが口角を持ち上げた。封筒に手を伸ばし、膝の上でとんとん叩いてから、テーブルの脇に置いた。その間ずっと私を見つめていた。
「フォールブルック役もまた見事な出来だった」私は言った。「振り返ってみれば、少々やり過ぎな気もするが、あの時はしてやられたよ。あの紫色の帽子は金髪には映えるだろうが、茶色のほつれ髪には全然似合わない。それに暗闇で手首を捻挫した人が化粧したようないかれたメイク、ぎくしゃくした風変わりな振舞い、どれをとっても上出来だ。そして、あんなふうに銃を手に押しつけられて、私はまんまと騙された」
 彼女はくすくす笑い、両手をコートのポケット深く突っ込んだ。靴の踵がこつこつと床を叩いた。
「でも、またどうして戻ったんだ?」私は訊いた。「なぜ白昼堂々、危険を冒してまで」
「じゃあ、私がクリス・レイヴァリーを撃ったと考えてるのね?」彼女は静かに言った。
「考えてるわけじゃない。知ってるんだ」
「私がなぜ戻ったのか? それを知りたいの?」
「本当のところ、どうでもいいんだ」私は言った。
 彼女は笑った。狡猾でぞっとする笑いだ。「彼は私の金をそっくり持っていった」彼女は言った。「私の財布を空っぽにした。小銭までもね。だから戻ったの。危険なことなんか全然なかった。彼の暮らしぶりはよく知ってた。戻る方が安全だったくらい。たとえば牛乳や新聞を取り込むとか。人はこういう時、頭が真っ白になる。私はそうじゃない、そうなる理由がわからない。そうしない方がよっぽど安全なのに」
「なるほど」私は言った。「ということは当然、前の晩彼を撃ったんだ。どうでもいいことだが、そう考えるべきだった。彼は髭を剃っていた。だが、髭の濃い男や女友だちがいる男は、寝る前に髭を剃ることがある。そうだろう?」
「聞いたことがある」彼女はほとんど楽しそうに言った。「それでどうするつもりなの?」
「君は滅多に見られない冷血な牝犬だ」私は言った。「どうするかって? もちろん警察に突き出すさ。喜んで」
「そうは思わない」彼女はほとんど歌うような調子で語りかけた。「空になった銃を渡したことをあなたは不思議に思った。なぜいけないの? バッグの中にもう一つ持ってたのよ。こんなふうに」
 彼女の右手がコートのポケットから上がってきて、彼女はそれを私に向けた。
 私はにやりと笑った。全然、心がこもった笑いではなかったかもしれないが、それでも笑いにちがいなかった。
「こういうシーンは好きじゃなくてね」私は言った。「探偵が殺人犯と向かい合う。殺人犯は銃を出し、探偵に向ける。殺人犯は探偵に悲しい物語の一部始終を聞かせる。語り終えたら探偵を撃つつもりで。こうして、多くの貴重な時間を浪費することになる。たとえ最終的に殺人犯が探偵を撃ったとしても。ただ、殺人犯は決してそうしない。それを邪魔する何かが常に起こる。神々もこのシーンがお嫌いのようで、いつも何とか台無しにしようとする」
「でも今回に限り」彼女はそっと立ち上がり、絨毯の上を歩いて私の方にやってきた。「少し趣向を変えてみましょう。私が何も言わず、邪魔も起こらず、あなたを撃つとしたら?」
「それでもそのシーンは好きじゃないな」私は言った。
「あまり怖がっていないみたいね?」彼女はそう言うと、ゆっくり唇をなめ、一切足音を立てず、絨毯の上を静かに私の方に向かってきた。
「怖くなんかないさ」私は嘘をついた。「夜も更けた。あたりは静まりかえっている、窓が開いていて、銃は派手な音を立てる。通りに出るまで時間がかかる。おまけに君は銃が苦手ときている。多分仕損じるだろう。レイヴァリーを撃ったときも三度も撃ち損ねている」 
「立って」彼女は言った。
 私は立ち上がった。
「撃ち損うには近過ぎるようね」彼女は言った。そして私の胸に銃を押しつけた。「こうするの。今回は外しっこない、でしょう? じっとして。両手を肩より上に上げて動かないの。少しでも動いたら弾が出るわよ」
 私は肩の横に手を上げ、銃を見下ろした。自分の舌を厚ぼったく感じたが、まだ動かすことはできた。
 彼女は左手で私のからだを探ったが銃は見つからなかった。彼女は手を下ろし、唇を噛んで私を見つめた。銃が私の胸に食い込んだ。「向こうを向いて」彼女は仮縫い中の仕立屋のように丁寧に言った。
「君のやることはみんな、少し調子が狂ってる」私は言った。「はっきり言って、君は銃が得意じゃない。私にくっつきすぎてるし、こんなことを言うのもなんだが、安全装置が外れていない。よくあることだが、君も見落としてる」
 それで、彼女は同時に二つのことをやりだした。大股で一歩後退し、私の顔から眼を離さずに親指で安全装置を探った。二つのとても簡単なこと、ほんの一瞬でできることだ。しかし、彼女は私に口出しされたくなかった。私の言いなりになるのが癪だったのだ。そのちょっとした混乱が彼女の心を揺さぶった。
 彼女が小さくくぐもった声を出した。私は右手を下ろして相手の顔を私の胸にぐいと引き寄せた。左手を彼女の右手首に振り下ろし、掌底で彼女の親指の付け根を打った。銃は彼女の手から離れて床を転がった。私の胸で彼女は激しく顔をよじらせた。悲鳴を上げようとしたようだ。
 それから、彼女は私を蹴ろうとして、わずかに残っていたバランスを崩した。両手で私にしがみつこうとした。私はその手首をつかんで背中にねじ上げた。彼女はとても力が強かったが、私の方がずっと強かった。そこで彼女は力を抜き、頭を抱えている手に全体重を預けることにした。片手では彼女を支えることができなかった。彼女が落ちかけたので、私も身をかがめなければならなかった。
 ソファの脇の床で取っ組み合う二人の立てる物音と激しい息遣いのせいで、床板が軋んだとしても聞こえなかっただろう。カーテンリングが棒の上で急に止まったような気がした。確信はないし、それについて考える余裕もなかった。突然人影が迫ってきた。左の真後ろ、視界の届かないところだったが、そこに男がいて、大男であることは分かった。
 分かったのはそれだけだ。場面は炎と闇に包まれ爆発した。殴られた事さえ覚えていない。炎と闇、そして闇が迫る寸前のむかつく一閃。

【解説】

「この混乱した無邪気な女のなかに透けて見える冷たさや辛辣さを含めてね」は<This confused innocence with an undertone of hardness and bitterness>。<undertone>は「底意」と考えればいいだろう。清水訳は「お人よしに見せながら、正体をつかませず、冷たく、反抗的なものを匂わせている」。田中訳は「大胆で、皮肉な、この混乱した、むじゃ気な女」。村上訳は「ハードで苦々しいものを込めた、混乱した無垢さみたいなものをね」。

要は「クリスタル・キングズリー」という女の性格をどう解釈するかということだ。その「頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さん」は<a reckless little idiot with no brains and no control>。清水訳は「わきまえがなく、抑えのきかない、無軌道な愚か者」。田中訳は「無考えで、自制心のない、わがままな、頭のわるい奥さん」。村上訳は「無軌道な、脳味噌と自制心の足りない、可愛い浮かれ女」。

どれもよく似たものだが<little idiot>の解釈は少しちがう。<little>には「小さくて愛おしい」という意味がある。<idiot>は古くは「白痴」を意味していた。口語表現としては「馬鹿、間抜け」のことだが、前に<little>がつけばニュアンスが変わってくる。田中訳や拙訳の「さん」づけはそういう意味だ。時代がかった「浮かれ女」という村上訳には「遊女、娼妓」の意味があり、少し違和感を覚える。

もし、クリスタル・キングズリーを「頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さん」だと考えると、<with an undertone of hardness and bitterness>をどう考えればいいのだろう。<hardness and bitterness>こそが、クリスタル・キングズリー役を演じている女の素顔、下地ではないのか。そう考えると、清水訳の「お人よしに見せながら、正体をつかませず、冷たく、反抗的なものを匂わせている」が群を抜いている。田中訳、村上訳は二つの性格を弁別できていない。

「私はまんまと騙された」は<I fell like a brick>。清水訳は「私はすっかり参っちまったんです」。田中訳は「あれで、ぼくもコロッといつたんですよ」。村上訳は「まさに度肝を抜かれたよ」。<fall for like a ton of bricks>というスラングには「誰かに即座に激しく夢中になること」の他に「嘘や詐欺を信じること」という意味がある。清水、田中両氏の訳は前者の意味合いが濃い。村上訳の「度肝を抜かれる」はどこから来たのだろう。

「狡猾でぞっとする笑いだ」は<A sharp cold laugh>。清水訳は「鋭く冷たい笑いだった」。田中訳は「甲高い、つめたいわらい声だ」。村上訳は「鋭く冷ややかな笑いだった」。ここから、次第にこの女の非情な性格が表に出てくる。<sharp>は「鋭い」にちがいないが、他にも「頭のきれが鋭い、ずる賢い」という意味がある。マーロウの耳にどう聞こえたかを考えながら訳したいところだ。

「君は滅多に見られない冷血な牝犬だ」は<You're a cold-blooded little bitch if I ever saw one>。清水訳は「あんたのような冷たい女に会ったことはない」。田中訳は「あなたのような冷血な人殺しにお目にかかるのははじめてだ」。村上訳は「君は血も涙もない、類を見ないほどたちの悪い女だ」。<if I ever saw one>はかなり強調した言い方で「(そんなものはないとされているが)これまでに見たことがあるとすれば~こそが、まさにそれだ」くらいの意味。通常「くそ女」とでも訳すところだが、<cold-blooded>には「冷血(動物)」の意味もあるので、<bitch>をそのまま「牝犬」と訳してみた。

「両手で私にしがみつこうとした」は<Her hands came up to claw at me>。田中訳は「両手をあげて、ひつかこうともした」。村上訳も「それから両手を上げて私を爪で引っ掻こうとした」だ。<come up to>は「(~が)近くにやってくる」ことで、「上げる」のではない。<claw at ~>は「~を手でつかもうとする」という意味。その前にバランスを崩しているのだから、引っ掻く余裕などないはずだ。清水訳は「彼女の両手が私にすがりつこうとした」。田中訳が先で、清水訳の方が後だ。なぜ村上氏が元に戻したのか分からない。

「私はその手首をつかんで背中にねじ上げた」は<I caught her wrist and began to twist it behind her back>。田中訳は「おれはその手首をつかみ、背中のほうに、逆にねじあげた」。清水訳は「私は彼女の手首をつかんで背中の方にねじまげた」。村上訳は「私は相手の両手首を掴んで、背中でねじ上げた」。<wrist>が「両手首」になる理由もよくわからない。疲れが重なっていたのだろうか?

 

『湖中の女』を訳す 第三十一章(1)

<frozen-faced>は「氷を削ったみたいな顔」だろうか?

【訳文】

31
 
 彼女はまだグレイのコートを着ていた。ドアから離れて立っていたので、その前を通って、ツインの壁収納ベッドとありきたりの家具を最小限備えつけた四角い部屋に入った。窓辺のテーブルの上の小さなスタンドが、ぼんやりと黄色っぽい光を放っている。その後ろの窓は開いていた。
 女は言った。「座って、話はそれから」
 彼女はドアを閉め、部屋の向こう側にある陰気な揺り椅子に座りに行った。私は分厚いソファに座った。ソファの端に開口部があり、くすんだ緑のカーテンがかかっていた。化粧室と浴室に通じているのだろう。もう一方の端には閉じたドアがあった。キチネットにちがいない。それがすべてだった。
 女はくるぶしを交差させ、頭を椅子の背にもたせかけ、長いまつげの下から私を見た。眉毛は細く弧を描き、髪と同じ茶色だった。静かで秘密めいた顔だった。無駄な動きをするような女の顔には見えなかった。
「君はもっとちがったひとかと思っていた」私は言った。「キングズリーの口ぶりでは」
 彼女は唇をゆがめたが、何も言わなかった。
「レイヴァリーから聞いていたのともちがう」私は言った。「各人各様の見方があるということを証明しただけのことか」
「そんなおしゃべりをしてる暇はないの」彼女は言った。「知りたいことって何なの?」
「君を捜すために雇われたんだ。私はそれに取り組んできた。ご存じだろうと思うが」
「ええ。彼のオフィスの可愛い子が電話で言ってた。マーロウという男だと聞いたわ。スカーフのことも話してた」
 私は首からスカーフを外し、折り畳んでポケットに入れた。私は言った。「君の動きについて多少知っている。そんなに多くはない。君はサン・バーナディーノのプレスコット・ホテルに車を置いたままだ。そこでレイヴァリーと会っている。エルパソから電報を打ったことも知っている。そのあと、どうしたんだ?」
「彼が寄越したお金だけくれればいいの。私が何をしようとあなたの知ったことじゃない」
「あれこれ議論する気はない」私は言った。「君が金が欲しいかどうかの問題だ」
「ええ、私たちはエルパソに行った」彼女は疲れた声で言った。「その時は彼と結婚しようと思ったの。だから電報を打った。電報は見た?」
「見た」
「でも、気が変わった。家に帰って、私を一人にしてほしいと頼んだわ。彼は大騒ぎした」
「それで、君を残して一人で帰ったのか?」
「そうよ。それがどうかして?」
「それから、どうしたんだ?」
「サンタ・バーバラへ行って、そこに何日かいた。一週間以上いたかな。それからパサディナ。どこも同じ。そしてハリウッド。それから、ここに来た。それだけ」
「その間、ずっと一人だったのか?」
 彼女は少し躊躇して、やがて言った。「そうよ」
「レイヴァリーと一緒だったことはないか? ほんの少しの間でも」
「彼が家に帰ってからはね」
「どういうつもりだったんだ?」
「つもりって何よ」声が、少しばかりとんがった。
「連絡もせずにあちこち泊まり歩いたのは、どういうつもりだったんだ。彼が心配するだろうとは思わなかったのか?」
「ああ、夫のことを言ってるのね」彼女は冷やかに言った。「彼のことはたいして気にしてなかった。彼は私がメキシコにいると思ってたんじゃない? どういうつもりだったのかというなら、とにかくとことん考えてみるしかなかった。私の人生は絶望的なほどに混乱していた。どこか静かなところで一人になって、自分を立て直さなければならなかった」
「その前に」私は言った。「君はリトルフォーン湖で一か月間、自分を立て直そうとしたが、何の成果も得られなかった。そうだろう?」
 彼女は靴を見下ろし、それから眼を上げて私を見て深くうなずいた。ウェーブのかかった茶色い髪が頬に沿って垂れていた。彼女は左手で髪をかき上げて後ろに押し戻してから、一本の指でこめかみをなでた。
「どこか別の場所が必要だった」彼女は言った。「べつに面白い場所でなくていい。ちょっと変わったところ。顔なじみのいない。一人っきりになれるところ。ホテルのような」
「で、調子はどうなんだ?」
「あまりよくない。でも、ドレイス・キングズリーのところに戻ろうとは思っていない。彼はそうして欲しがってる?」
「私にはわからない。だが、どうしてここに来たんだ。レイヴァリーのいる街に?」
 彼女は指の関節を噛んで、その手越しに私を見た。
「もう一度会いたかったの。彼のことが頭の中でごっちゃになっている。彼に恋してるわけじゃない、っていうか、ある意味、恋してるかもしれない。でも、彼とは結婚したくない。これで筋が通ってる?」
「そのことは筋が通る。だが、家を離れて安ホテルを泊まり歩いていたことは筋が通らない。私が知るところでは、君は何年も好きなように生きてきたんじゃないか」
「一人にならなきゃいけなかった。考え事をするために」彼女は自棄気味に言い、また指の関節を強く噛んだ。「お金を渡してどっかへ行ってくれない?」
「もちろん、すぐに。ただ、あの時リトルフォーン湖を離れたのは、他に理由があったんじゃないか? たとえば、ミュリエル・チェスに関係することとか?」
 彼女は驚いたようだった。しかし、誰でも驚いた顔くらいできる。「驚いた、何のことを言ってるの? あの冷たい顔したつまらない、彼女が私と何の関係があるの?」
「彼女と喧嘩したんじゃないかと思ってね、ビルのことで」
「ビル? ビル・チェス?」彼女は更に驚いたようだった。ちょっと驚きすぎたくらいだ。
「ビルは君に言い寄られたと言ってるんだ」
 彼女は頭を仰け反らせ、甲高い声でわざとらしく笑った。「なんとまあ、あのしょぼい顔した酔っ払い?」彼女の顔が急に素面になった。「どうしたっていうの? 何もかも謎だらけってわけ?」
「彼はしょぼい顔した酔っ払いかもしれない」私は言った。「その上、警察には殺人犯だと目されている。彼の妻が、湖で溺死体で発見されたんだ。一か月後に」
 彼女は唇を湿し、小首をかしげて、私をじっと見つめていた。しばらく沈黙が続いた。太平洋の湿った息吹が部屋に滑り込んできて私たちのまわりを包んだ。
「それほど驚かないわ」彼女はゆっくり言った。「結局そういうことになったのね。あの二人はいつも酷く争っていたから。それが私が出て行ったことに関係してると思うの?」
 私はうなずいた。「その可能性はあった」
「見当ちがいも甚だしいわ」彼女は真顔で言って、頭を前後に振った。「言った通りよ。ただそれだけのこと」
「ミュリエルは死んだ」私は言った。「湖で溺れてね。君はそのことにあまり関心がないようだね?」
「あの女のことはあまり知らない」彼女は言った。「本当よ。人づきあいが苦手なほうだったから……どのみち」
「彼女が以前アルモア医師の診療所で働いていたことも知らないんだろうな?」
 彼女はあっけにとられているように見えた。「アルモア医師の診療所に行ったことはないの」彼女はゆっくり言った。「ずっと前に何度か往診に来てもらったことはあるけど。あなたは何の話をしているの?」
「ミュリエル・チェスの本名はミルドレッド・ハヴィランド、アルモア医師の診療所の看護婦をしていた」
「奇妙な偶然の一致ね」彼女は不思議そうに言った。「ビルが彼女をリバーサイドで見つけたことは知ってる。彼女がどうやって、どんな事情で、どこからきたかなんて知らない。アルモア医師の診療所ですって? そんなもの何の意味もないじゃない」
 私は言った。「いや、ただの偶然の一致だろう。よくあることだ。だが、どうして私が君と話をしなければならなかったかは分かるだろう。ミュリエルは溺死体で見つかり、君は立ち去った。ミュリエルは実はミルドレッド・ハヴィランドで、かつてレイヴァリーがそうだったようにアルモア医師と別の意味でつながりがあった。当然のことながら、レイヴァリーはアルモア医師の向かいに住んでいた。彼は、レイヴァリーは、ミュリエルとどこかほかで知り合いでもしたのかな?」
 彼女はそっと下唇を軽く噛みながら、それについて考えていた。「彼はあそこで彼女に会ったのよ」彼女はとうとう言った。「前に会ったことがあるようには見えなかった」
「そりゃあそうするだろう」私は言った。「彼のような男なら」
「クリスがアルモア医師とつながりがあるとは思えない」彼女は言った。「彼はアルモア医師の奥さんのことは知っていた。医師を知ってたとは思えない。だから、アルモア医師の診療所の看護婦のことはたぶん知らないと思う」
「やれやれ、どうやら無駄骨だったようだ」私は言った。「だが、どうして私が君と話をしなければならなかったか、これで分かってもらえるね。今なら金を渡せそうだ」
 私は封筒を取り出して立ち上がり、彼女の膝の上に落とした。彼女はそのままにしていた。私はまた腰を下ろした。

【解説】

「各人各様の見方があるということを証明しただけのことか」は<It just goes to show that we talk different languages to different people>。清水訳は「われわれはどうも、考えてたのとちがう人間にちがう言葉をしゃべってる感じですね」。田中訳は「相手によつて言葉づかいをかえるようなものかな」。村上訳は「結局のところ、ひとから聞かされた話なんてあまりあてにならない、というだけのことかもしれないが」。<go to show>は「~を証明する」という意味。<we talk different languages to different people>は、ことわざか故事成語にありそうだが、見つけることができなかった。

「あの冷たい顔したつまらない」は<That frozen-faced little drip>。清水訳は「あの無神経な自堕落女」。田中訳は「あの、凍つたみたいなツンとした顔の女」。村上訳は「あんな氷を削ったみたいな顔をした味気ない女」。<frozen>は「(態度・表情などが)冷たい、冷淡な」という意味。<drip>は「退屈な人、つまらない人」を表す俗語。清水訳は問題外。田中訳には<little drip>が抜け落ちている。村上訳の「氷を削ったみたいな顔」が何を言おうとしているのか、よくわからない。

「あのしょぼい顔した酔っ払い」は<that muddy-faced boozer>。清水訳は「あの薄汚い酔っ払い」。田中訳は「あの、泥をなすりつけたみたいな顔の酔つぱらい」。村上訳は「あんな薄汚い顔をした酔いどれ」。<muddy>は「泥の(ついた)」という意味だが、いくら山暮らしでも、いつも顔に泥をつけていはしない。顔の状態を表すときは「つやのない、さえない」のような意味になる。澄んだ水とちがい、泥水は中の様子が分からないところから来るのだろう。複合語をなす<-faced>は「~の顔をした」という意味だ。始終、深酒をしていたビル・チェスは酒飲み独特のぼんやりした表情をしてたにちがいない。

「やれやれ、どうやら無駄骨だったようだ」は<Well, I guess there's nothing in all this to help me>。清水訳は「いまの話のなかに私の役に立つことは何もなかったようです」。田中訳は「そうですか。いや、ぼくの役にたつことはなにもないようだ」。村上訳は「まあ、こんなことは別に何の意味も持たないのだろう」。<all this>が何かということが問題だ。清水訳だけが「話」と捉えている。マーロウは女の話の中身は自分の役に立つものはなかった、と言っているのだ。マーロウにとって、女と直接会って話すことが大事だった。「こんなことは別に何の意味も持たない」わけではない。

<But you see why I had to talk to you>、<But you can see why I had to talk to you>とほぼ同じ文が二度繰り返されている。「だが、どうして私が君と話をしなければならなかったかは分かるだろう」、「だが、どうして私が君と話をしなければならなかったか、これで分かってもらえるね」と訳した。清水訳は「しかし、私がなぜあなたと話をしなければならなかったかがわかったでしょう」、「だが、私がなぜあなたと話をしなければならなかったかがわかったでしょう」。

田中訳は「しかし、なぜ、ぼくがあなたにこんな話をするかといえば」、「しかし、ぼくがあなたにあつて話したかつたことも、これでおわかりのはずだ」。村上訳は「でもなぜ私が君と話をしたかったか、それはわかるだろう」、「ただ私がどうして君の話を聞きたかったのか、それはわかってもらえるね」。田中訳を別にすれば<can>が付け加わったことにそれほど重きを置いていないようだ。チャンドラーは同じ文を繰り返す手法を多用する作家だが、繰り返すことには意味があり、少しの差異が加われば、それはそこが大事だというサインだ。この<can>は念押しである。

『湖中の女』を訳す 第三十章

<the hard rubber-smelling silence>は「ゴムの匂いのする硬質な沈黙」でいいのか?

【訳文】

30
 
 ピーコック・ラウンジの狭い正面は、ギフト・ショップと隣り合わせていた。ショップのウィンドウの中ではクリスタルの小さな動物の一群れが街灯の光を浴びてちらちら光っていた。ピーコックの正面はガラス煉瓦造りで、煉瓦の中に嵌め込まれたステンドグラスの孔雀の周りに仄あかりが差していた。中国風の衝立をまわって店内に入り、バーを見渡し、小さなブースの外側の端に腰を下ろした。照明は琥珀色、椅子の革は朱色、各ブースには光沢のあるプラスティック・テーブルが置かれていた。ブースのひとつでは、四人の兵士がむっつりとビールを飲んでいた。生気のない目をして、明らかにビールを飲むのにも退屈しているようだった。その向かい側では女二人と派手な身なりの男二人が騒いでいた。クリスタル・キングズリーと思しき女はどこにも見あたらなかった。
 眼つきの悪い、しゃぶられた骨みたいな顔の萎びたウェイターが、孔雀がプリントされたナプキンを目の前のテーブルに広げ、バカルディのカクテルを置いた。私はカクテルをちびりちびりやりながら、バーの時計の琥珀色の文字盤を見た。ちょうど、一時十五分を過ぎたところだった。
 二人の女連れの男の一人が急に立ち上がって、大股でドアに向かい、外に出て行った。つれの男の声が聞こえた。
「なんであいつを侮辱しなきゃならなかった?」 女の甲高い声がした。「侮辱したって? よく言うわ。あいつは私をベッドに誘ったのよ」
 不満気な男の声がした。「だからって、あそこまで侮辱する必要はなかっただろう?」
 兵士の一人が突然肚の底から笑い出し、茶色い手で顔からその笑いを拭い去り、もう一口ビールを飲んだ。私は膝の裏をさわってみた。まだ熱を持って腫れていたが、痺れたような感じは引いていた。
 ちっちゃな、白い顔にとびっきり大きな黒い瞳をしたメキシコ人の少年が入ってきて、バーテンが追い出す前に少しでも朝刊を売ろうと、ブースのなかを駆けずり回った。一部買い求め、何か面白い殺人事件でも載っていないかと目を通したが、そんなものはなかった。
 新聞をたたんで顔を上げると、真っ黒なスラックスに黄色いシャツ、グレイのロング・コートを着たすらりとした茶色の髪の女がどこからか現れ、私の方には目もくれずブースを通り過ぎた。どこかで見た顔のような気もするし、それこそ一万回は見たにちがいない、どこにでもいる細身の、お高くとまった美人タイプにすぎないような気もする。女は衝立をまわって通りに面したドアから出て行った。二分後、小さなメキシコ人の少年が戻ってきて、バーテンをちらりと見て、小走りで私の前に来て立った。
「ミスタ」彼は言った。すごく大きな目をいたずらっぽく輝かせ、手招きで合図すると、またちょこちょこと外へ駆け出した。
 私はカクテルを飲み干し、その後について出た。グレイのコートに黄色いシャツ、黒いスラックスの女はギフト・ショップの前に立ち、ウィンドウを覗き込んでいた。私が出てくるのを見て彼女の目が動いた。私はそこに行き、彼女の横に立った。
 彼女は私をまた見た。顔は蒼白くやつれていた。髪はダークブラウンより黒っぽかった。彼女は視線を逸らし、ウィンドウに話しかけた。
「お金をちょうだい」彼女の息で、ガラスが少し曇った。
 私は言った。「あなたが誰なのかを知らないと」
「私が誰か、知ってるはず」彼女はそっと言った。「いくら持ってきてくれたの?」
「五百だ」
「足りないわ」彼女は言った。「それっぽっちじゃ、ぜんぜん足りない。いいからさっさと渡して。誰かがここにやって来るのを一日千秋の思いで待っていたのよ」
「どこなら話せる?」
「話す必要なんかない。金を渡して、逆方向へ行くだけ」
「そう簡単にはいかない。ここへ来るだけでも危険なんだ。自分の置かれた立場がどうなってるのかくらいは知りたいね」
「ふざけないで」彼女は冷やかに言った。「どうして彼が自分で来ないわけ? 話なんかしたくない。一刻も早く逃げ出したいの」
「彼に来てほしくなかったんだろう。電話で話すことさえ嫌がってたそうじゃないか」
「そのとおりよ」彼女はせっかちそうに言って、頭をつんと反らした。
「だが、私とは話すことになる」私は言った。「私は彼のように簡単にはいかない。私に話すか、警察に話すかのどちらかだ。私は私立探偵でね、自分の身を守るのも仕事のうちだ」
「また、ずいぶんとしゃれたまねをしてくれたものね?」女は言った。「私立探偵ですって」声には軽い嘲りが嗅ぎとれた。
「彼は自分の知る限り最善を尽くした。何をすべきか、彼が知るのは容易ではなかった」
「何が話したいわけ?」
「君について、今まで何をしてきたか、どこにいたのか、そして何を期待しているか。 まあ、そういうことだ。 ささいなことだが、大事なことだ」
 彼女はショウ・ウィンドウに息を吐きかけ、曇りが消えてゆくのをしばらく見ていた。
「もっといいのはね」相変わらず他人事のような冷たい声で彼女は言った。「あなたはわたしにお金を渡して、わたしが自分で解決できるようにすることよ」
「だめだね」
 彼女はもう一度私に鋭い横目を使い、もどかしそうにグレイのコートの肩をすくめた。
「いいわ、どうしてもというなら。八番通りを北に二ブロック行ったところにある、グラナダにいる。六一八号室。十分ちょうだい。 一人で入りたいから」
「車ならある」
「一人で行きたいの」女はくるっと背を向けて、そのまま歩き去った。
 彼女は通りの角まで戻って大通りを渡り、胡椒木の並木が連なるブロックに消えていった。私はクライスラーに乗り込み、十分ほど待ってからエンジンをかけた。
 グラナダは角地に建つ醜い灰色の建物だった。厚板ガラスの玄関ドアは通りと同じ高さだった。角を曲がると「ガレージ」と書いた乳白色の電球が見えた。ガレージへの入り口は、スロープを下りて、列をなして駐まっている車のゴム臭い静寂の中にあった。ひょろっとした黒人がガラス張りのオフィスから出てきて、クライスラーにざっと目をやった。
「少しの間、こいつを停めておきたいんだが、料金はいくらだ? 上に行きたいんだ」
 彼はいやらしい薄笑いを浮かべた。「夜更かしが過ぎますぜ、ボス。彼女の方もさぞ磨き上げてるこったろう。一ドル頂戴します」
「ここは何をするところなんだ?」
「一ドル頂戴します」彼は無表情に言った。
 私は車から出た。彼は私にチケットをくれた。私は彼に一ドルを渡した。彼は訊きもしないのに、エレベーターはオフィスの裏、男子トイレの横だと言った。
 私は六階まで行き、ドアに書かれた数字を見て、静けさに耳を傾け、廊下の端から入ってくる海辺の空気の匂いを嗅いだ。ここは十分にまともな場所のようだ。どんなアパートにも幸せな女性が何人かはいるものだ。これでひょろっとした黒人の一ドルが説明できる。あの男は、人を見る目がある。
 私は六一八号室のドアに来て、少しの間その外に立って、それからそっとノックした。

【解説】

「ショップのウィンドウの中ではクリスタルの小さな動物の一群れが街灯の光を浴びてちらちら光っていた」は<in whose window a tray of small crystal animals shimmered in the street light>。清水訳は「小さな水晶の動物がいくつもショウ・ウィンドウの中で街灯に照らされている」。田中訳は「ショウウインドウにならんだクリスタルガラスのちいさな動物が、街灯の光をうけてキラキラひかつていた」。村上訳は「ショップのウィンドウの中では、トレイに載せられたクリスタルの動物たちが、街灯の光を受けて眩しく輝いていた」。

まず、村上訳に出てくる「トレイ」だが、<a tray of ~>は<a tray of grapes>(一盛りの葡萄)のように、何かの上に一盛りになっているものを指していう言い方で、トレイそのものより、載せられたものがどういう状態なのかが大事だ。また<shimmer>は「かすかに(ちらちら)光る」ことで、「眩しく輝く」わけではない。おそらくスワロフスキーか何かのクリスタルの置物のことを言っているのだろう。カットの具合でちらちら光るのであって、眩しいほどには光らない。

「どこかで見た顔のような気もするし、それこそ一万回は見たにちがいない、どこにでもいる細身の、お高くとまった美人タイプにすぎないような気もする」は<I tried to make up my mind whether her face was familiar or just such a standard type of lean, rather hard, prettiness that I must have seen it ten thousand times>。清水訳は「私は、どこかで見た顔だったか、何千回とお目にかかっているやせ(傍点二字)型のむしろ冷たい美女の標準タイプにすぎなかったかを見きわめようとした」。

田中訳は「だれかに似てるようだが、今まで、何千回かあつたにちがいない、ほつそりとして、どちらかといえばあつかいにくい美人の典型的なタイプの一人にすぎないような気もする」。村上訳は「それが見覚えのある顔なのか、あるいはこれまでに一万回くらいは目にしてきたであろう、よくいる「ちょっときつい(傍点三字)顔をした痩せ型の美人」に過ぎないのかを、私は見極めようとした」。清水、田中両氏が<ten thousand times>を「何千回」と訳しているのには、若輩者の知らない、何かわけでもあるのだろうか。

「ガレージへの入り口は、スロープを下りて、列をなして駐まっている車のゴム臭い静寂の中にあった」は<The entrance to the garage was down a ramp into the hard rubber-smelling silence of parked cars in rows>。清水訳は「ガレージの入口からランプを入って行くと、駐車している車の列からゴムの匂いが鼻をついた」。田中訳は「ガレージの入口のところは傾斜しており、ならんだ車のタイヤのゴムが闇のなかでプンとにおう」。村上訳は「ガレージの入り口はなだらかな下り坂になっており、そこを降りていくと、列をなして並んだ車の、ゴムの匂いのする硬質な沈黙があった」。<the hard rubber-smelling silence>は「ゴムの匂いのする硬質な沈黙」なのだろうか。

「夜更かしが過ぎますぜ、ボス。彼女の方もさぞ磨き上げてるこったろう。一ドル頂戴します」は<Kinda late, boss. She needs a good dustin' too. Be a dollar>。清水訳は「遅いんですね。それに、ずいぶんよごれてますぜ。一ドルですね」。田中訳は「もう、おそいんでね、旦那。それに、この車はそうとうよごれてるから、埃をはらうのがたいへんだ。一ドルくださいよ」。両氏は<she>を車のことだと解釈している。

村上訳は「かなり夜も更けてますぜ、旦那。彼女もさぞやお待ちかねでしょう。一ドルでさ」。<dustin'>は<dusting>。「埃をとりのぞく」という意味の他に「(粉などを)軽く振りかける(はたく)こと」という意味もある。<dusting powder>は「化粧用パウダー」のことだ。この直後に<What goes on here?>(ここは何をするところなんだ?)というマーロウの科白があるから、黒人のいやらしい眼つきを考え合わせると、このアパートメントは「男女の密会の場」になっていると考えられる。だとしたら<she>は「待ち合わせ相手の女」と考える方が理にかなっている。

『湖中の女』を訳す 第二十九章

「すまじきものは宮仕え」というのが今のマーロウの心境

【訳文】

29

 深夜らしく控えめなノックの音がして、私はドアを開けに行った。クリーム色のシェトランドのスポーツコートを着て、ざっと立てた襟の内側に緑と黄色のスカーフを首に巻いたキングズリーは、馬のように大きく見えた。濃い赤褐色の中折れ帽を目深にかぶり、つばの下から覗く目は病んだ動物のそれだった。
 ミス・フロムセットがいっしょだった。スラックスにサンダル履き、ダークグリーンのコートを着て、帽子はかぶらず、髪は危険なまでに艶めいていた。耳のイヤリングには、拵え物の小さな梔子の花が、それぞれの耳に二つずつ重なって垂れていた。ギラ―レイン・リーガル、香水のシャンパンが彼女といっしょにドアから入ってきた。
 私はドアを閉め、椅子を指して言った。「一杯やった方が良さそうだ」
 ミス・フロムセットは肘掛椅子に座って脚を組み、煙草を探して見回した。そして、一本見つけると、さもくつろいだ様子でこれ見よがしに火をつけ、天井の一隅に向けて寒々とした笑みを浮かべた。
 キングズリーは唇どころか顎でも噛みそうな顔つきで、部屋の真ん中に立っていた。私は小食堂に行き、飲み物を三人分作って戻り、二人に手渡した。そしてグラスを手に、チェス・テーブルのそばの椅子に座った。
 キングズリーは言った。「いったいどこで何をしていたんだ。それに脚をどうした?」
 私は言った。「警官が蹴ったんです。ベイ・シティ警察からのプレゼントらしい。あそこではそれがお定まりのサービスなんです。何をしてたかというと、飲酒運転で留置場に放り込まれてました。あなたの表情からすると、すぐにあそこに逆戻りすることになりそうだ」
「何のことを言ってるのか見当もつかない」彼はそっけなく言った。「私にはさっぱりわからん。冗談を言っている場合じゃない」
「では、ここまでにしときましょう」私は言った。「何の電話でした。彼女はどこにいるんです?」
 彼はグラスを手に腰を下ろし、右手の指をまげて、コートの内側に入れた。出てきたのは細長い封筒だった。
「これを彼女に届けなきゃならん」彼は言った。「五百ドルだ。もっと欲しがっていたが、今はこれが精一杯だ。ナイトクラブで小切手を現金化した。簡単ではなかった。彼女は街から出たいらしい」
 私は言った。「どこの街からです?」
「ベイ・シティのどこかだろう。どこかは知らん。ピーコック・ラウンジという店で会いたいそうだ。アルゲロ・ブールバードの八番通り近辺だ」
 私はミス・フロムセットを見た。相変わらず、ただ車に相乗りしてきただけとでもいうように、天井の隅を見ていた。
 キングズリーが封筒を投げてよこし、それはチェス・テーブルの上に落ちた。私は中身を見た。確かに金だった。そこまでの話は筋が通っていた。私はそれを、茶色と淡い金の正方形が象嵌された、滑らかな小さなテーブルの上に置いたままにしておいた。
 私は言った。「彼女が自分の金を引き出すのに何か支障でもあるんですか? どこのホテルでも小切手で支払いができる。たいていのホテルは現金に換えてもくれる。彼女の銀行口座は出金停止にでもなったんですか?」
「そんな話をしている場合じゃない」キングズリーは重苦しく言った。「彼女は困ったことになっている。どうしてそのことを知ったのかは分からん。指名手配でもされたら別だろうが。そうなのか?」
 私は、知らない、と答えた。警察の放送を聞く暇がなかった。生身の警察官の話を聞くのに忙しかったのだ。
 キングズリ―は言った。「まあ、今、小切手を現金化する危険は冒さないだろう。以前は支障なかったが、今はだめだ」 彼はゆっくりと目を上げて、今まで見たこともないような虚ろな視線を私に送った。
「わかりました。分からないことをあれこれ言っても意味がない 」私は言った。「で、彼女はベイ・シティにいる。彼女と話しましか?」
「いや、話したのはミス・フロムセットだ。電話はオフィスにかかってきた。就業時間は過ぎていたが、ちょうどベイ・シティから警官が来ていた。ウェバー警部だ。ミス・フロムセットは当然、彼女に話をさせたくなかった。それで電話をかけ直すと言った。向こうの電話番号は教えてくれなかった」
 私はミス·フロムセットを見た.。彼女は天井から視線を下ろし、それを私の頭のてっぺんに向けた。 彼女の目からは何も読み取れなかった。 まるでカーテンを引いたようだった。
  キングズリーは続けた。「私は彼女と話したくなかった。彼女も私と話したくなかった。会いたくもなかった。彼女がレイヴァリーを撃ったにちがいない。ウェバーはそう確信しているようだった」
「それはあてにはなりません」私は言った。「彼が口で言うことと、頭で考えていることは同じである必要さえないんです。それより、警察が追っていることを察知しているのが気に入らない。面白半分に警察の短波を聴く者などいません。で、彼女は電話をかけ直してきた。それから?」
「かれこれ六時半頃だったか」キングズリーは言った。「私たちはオフィスに座って電話が鳴るのを待っていなければならなかった。君が話してくれ」
 彼は女の方を振り返った。
 ミス・フロムセットは言った。「ミスタ・キングズリーのオフィスで電話を受けました。彼は私のすぐそばに座ってたけど、何も話さなかった。彼女は金をピーコックの店に届けるように言い、誰が持ってくるのか訊いた」
「怯えているようだった?」
「ちっとも。完全に冷静だった。氷のように冷静だったといってもいいくらい。段取りはすべて飲み込んでいた。金を運ぶのが知らない誰かになるかもしれないことも分かってた。彼女はデリー……ミスタ・キングズリー自身が来ないことを見越しているようでした」
「デリーで構わない」私は言った。「誰のことかは分かる」
 彼女はかすかに微笑んだ。「彼女は毎時十五分、このピーコック・ラウンジに顔を出す。私は、私、てっきり、あなたが行くものだと思ったので、彼女にあなたの外見を伝えた。あなたはデリーのスカーフを身につけていく。そのことも説明した。彼はオフィスに何着か服を置いていて、その中にこれがあった。これならよく目立つから」
 まさにそのとおりだった。卵の黄身みたいな黄色の地にでっぷりした緑色の腎臓が敷き詰められた代物だ。赤、白、青に塗り分けられた一輪車を押して入っていくのと同じくらい目立つだろう。
「中身が空っぽの割に、彼女の頭は実にしっかり働いてますね」私は言った。
「ふざけている場合じゃない」キングズリーは鋭く言った。
「それは前にも聞いた」私は言った。「ずいぶん虫のいいことを考えるもんだ。警察が血眼になって追いかけてる人間に高飛びの金を届けに、私がのこのこ出かけていく、と」
 彼は膝の上に置いた片手を握り、ねじくれた笑みをひねり出した。
「確かにちょっと厚かましいことは認める。で、どうだ、やってくれるかね?」
「我々三人は事後従犯に問われることになる。夫と腹心の秘書にとっては何ほどのこともないかもしれない。だが、私を待っているのは、誰もが夢見る休暇じゃない」
「それに見合うだけのことはするつもりだ」彼は言った。「それに彼女が何もしていなかったら、事後従犯にはならないだろう」
「そう願いたいものだ」私は言った。「そうでもなきゃ、あなたと話していない。つけ加えておくが、もし彼女が殺人を犯したと判断したら、彼女を警察に引き渡すつもりだ」
「彼女は君と話したりしないだろう」彼は言った。
 私は封筒に手を伸ばし、ポケットに入れた。「話すでしょう。これがほしいなら」私は腕時計を見た。「今すぐ出れば、一時十五分にぎりぎり間に合うかもしれない。そのバーじゃ、今までの間に彼女の顔が覚えられているにちがいない。それも事を難しくする」
「髪をダークブラウンに染めてる」ミス・フロムセットは言った。「少しは役に立つはず」
 私は言った。「彼女のことをただの旅人だと考える役には立ちそうもない」私は酒を飲み終えて立ち上がった。キングズリーは自分のグラスを飲み干して立ち上がり、首からスカーフを取って私に手渡した。
「いったい何をやって警察に捕まったんだ?」彼は訊いた。
「ミス・フロムセットが親切に入手してくれた情報を活用中でした。それが、アルモア事件を調査していたタリーという男の探索につながり、ブタ箱行きにつながった。 警察がその家を張ってたんでね。タリーはグレイソン夫妻が雇った探偵です」そうつけ加え、長身の黒髪の娘を見た。「どういうことなのか 、君なら説明できるだろう。どうでもいいことだが、今は詳しく説明している暇がない。二人とも、ここで待ってたいですか?」
 キングズリーは首を振った。「われわれは私の家に行って、君の電話を待つことにする」
 ミス・フロムセットは立ち上がって欠伸をした。「いいえ、デリー。私は疲れた。家に帰って眠りたい」
「私といっしょにくるんだ」彼は声を尖らせた。「君がいないと、どうにかなってしまいそうなんだ」
「どちらにお住まいですか、ミス・フロムセット?」
「サンセット・プレイスのブライソン・タワー・アパートメント、 七一六号室。なぜ?」彼女は私に思わせぶりな顔をした。
「いつか、君に連絡を取りたいと思うかもしれない」
 キングズリーの顔はわびし気で苛立っているように見えたが、その目はやはり病んだ動物の目だった。私は彼のスカーフを首に巻き、小食堂に行き電気を消した。私が戻ってくると、二人はドアのそばに立っていた。キングズリーは彼女の肩に腕を回していた。彼女は疲れきっていて、見るからにうんざりしていた。
「大丈夫、うまくやってのけるさ……」彼はそう言いかけ、素早く一歩踏み出し、手を差し出した。「君は何ごとにも動じない男だな、マーロウ」
「さっさと、行くんだ」私は言った。「連れて行ってくれ、どこか遠くへ」
 彼は怪訝そうな表情を浮かべて私を見た。それから二人は出て行った。
 私はエレベーターが上昇して停止し、ドアが開いて再び閉じ、エレベーターが下降し始める音がするまで待っていた。それから、私は地下のガレージに降りる階段を使って、クライスラーを再び始動させた。

【解説】

「耳のイヤリングには、拵え物の小さな梔子の花が、それぞれの耳に二つずつ重なって垂れていた」は<In her ears hung ear drops made of a pair of tiny artificial gardenia blooms, hanging one above the other, two on each ear.>。清水訳は「小さなくちなし(傍点四字)の花が二つ重なったイアリングをつけていた」。田中訳は「小さなくちなしの花を二つかさねたイヤリングを、両方の耳にぶらさげている」。

村上訳は「両耳からはイヤリングが下がっていた。それぞれに小さなガーデニアの花が二つ、重なりあうようについている。それぞれの耳に花のペンダントが二つだ」。マーロウの目に映っているのは、イヤリングそのものではなく<gardenia bloom>だ。<two on each ear>の<two>は「拵え物の小さな梔子の花」を指している。旧訳ではそれが曖昧なのでこうしたのだろう。しかし、一文ですむものを三つの文に分けて、しかも原文にない「ペンダント」の一語まで付け足すことで、余計ややこしくなっている。

「キングズリーは唇どころか顎でも噛みそうな顔つきで、部屋の真ん中に立っていた」は<Kingsley stood in the middle of the floor trying to bite his chin>。清水訳は「キングズリーは部屋のまん中につっ立っていて、顎を噛みそうな顔つきだった」。田中訳は「キングズリイは、自分の顎のさきでもかみつきたいような顔で、部屋のまんなかにつつ立っていた」。村上訳は「キングズリーは部屋の真ん中に立って、顎をまっすぐ引いていた」。

<bite one's lips>は「唇を嚙む、悔しがる、つらい思いをこらえる」という意味だ。ここはそれを誇張して、下唇より、もっと下にある「顎」をもってきたのだろう。「顎をまっすぐ引いていた」では、辛さや痛みをこらえている様子が伝わらない。それだけでなく、キングズリーが、何か毅然としているようにも見える。

「中身が空っぽの割に、彼女の頭は実にしっかり働いてますね」は<For a blimp brain she's doing all right>。清水訳は「奥さんはおつむ(傍点三字)が弱いのかと思ったら、やることはしっかりしてますね」。田中訳は「奧さんのお脳は小型だという話だったが、それにしてはちやんとしてるようですね」。村上訳は「お気楽な脳味噌のわりには、奥さんはずいぶん抜かりなく立ちまわっている」。

<blimp>は「小型軟式飛行船」のことだ。三氏の訳からは、広告などに使われる、内部支持構造や竜骨を持たない「小型軟式飛行船」を喩えに持ち出した、マーロウの真意が伝わってこない。夫の口から聞いたところでは、ミセス・キングズリーは、後先考えずにふらふらと行動する女だということだ。マーロウが彼女の頭脳に、大きく見えても中身は空っぽ、という「小型軟式飛行船」という比喩を思いついても不思議はない。

「それは前にも聞いた」は<You said that before>。清水訳は「あなたは前にもそんなことをおっしゃった」。田中訳は「それは、前にもききました」。村上訳は「あなたが前に口の(ママ)したことですよ」。村上訳は、妻の悪口を言ったマーロウをとがめる雇い主に、自身が前にそう言ったと言っているように聞こえる。キングズリーが言ったのは<This is no time to fool around>だ。これは部屋に入ってすぐに言った<This is no time to kid around>のことを言っていると考える方が理にかなっている。

第二十九章では、マーロウは始終、ミス・フロムセットのことを意識している。ミス・フロムセットは、それに気づきながらも、雇い主であり愛人でもある男といることが気づまりなのだろう、知らんぷりを決め込んでいる。二人の心理的な駆け引きが章の中心になっている。キングズリーの方は年甲斐もなく、娘といってもいい歳の若い秘書にべたべたしていて、マーロウはそれを見ているのが苦痛に感じられてきている。

「大丈夫、うまくやってのけるさ……」は<Well, I certainly hope->。清水訳は「頼むよ、待っているから……」。田中訳は「もちろん、きみは……」。村上訳は「ああ、私は本当に心から……」。一度言葉を切ったのは、紋切型の「君なら仕事をやり遂げる」のような言葉を続けるつもりだったのを途中で切り替え、別の言葉を言おうとしたからだ。次にくるキングズリーの言葉を見てみよう。

「君は何ごとにも動じない男だな、マーロウ」は<You're a pretty level guy, Marlowe>。清水訳は「君は話がよくわかる男だよ、マーロウ」。田中訳は「正直な人間だと信用してるよ、マーロウ君」。村上訳は「きみはずいぶん胆の据わった男だな、マーロウ」。<level guy>の<level>は「ずっと同じ高さの」つまり、「動じない、冷静な、分別のある」という意味だ。

キングズリーは、いったいマーロウが何に動じない、と言いたいのか。それは、キングズリーがミス・フロムセットを自宅へ連れ帰ろうとしているときに、彼女の自宅の住所を訊き出し、「いつか、君に連絡を取りたいと思うかもしれない」と、しゃあしゃあと言ってのけたからだ。清水、田中両氏の訳からも、それが読み取れないこともないが、ぼかした物言いになっている。村上訳は、それがもっと強く顔をのぞかせている。

それに対するマーロウの反応が次の科白にはっきり出ている。「さっさと、行くんだ」「連れて行ってくれ、どこか遠くへ」は<Go on, beat it,><Go away. Go far away>。清水訳は「やめてくださいよ」「行っちまってください」。田中訳は「さあはやく」「おかえんなさい。こんなところにうろうろしているのはいけない」。村上訳はいいから早く行きなさい」「さっさと、できるだけ遠くに行っちまってくれ」。

三氏とも、比較的優しい口ぶりになっているが、<beat it>は「出て行け、さっさと行け」という意味の口語だ。<go way>には「駆け落ち」の意味もある。キングズリーがミス・フロムセットを自宅に連れ帰ろうとしていることに対するマーロウのいらだちがよく伝わってくるところだ。雇われている人間が雇い主に対してとる態度ではない。だから、それに対してキングズリーは「怪訝そうな表情を浮かべて」(gave a queer look)マーロウを見るのだ。人を顎で使うことに慣れているキングズリーにはマーロウの気持ちが理解できない。「すまじきものは宮仕え」というのが今のマーロウの心境だろう。

 

『湖中の女』を訳す 第二十八章

<have a line on>は「~に関する情報を持っている」

【訳文】

 ウェバーは静かに言った。「ここでは、我々のことをただの悪党だと思っている人もいるだろう。連中はこう思っている。妻を殺した男が、私に電話をかけてきて言う。『やあ、警部。ちょっと殺人事件があってな、居間が取っ散らかってるんだ。それで、遊んでる一ドル銀貨が五百枚ほどあるんだが』すると、私がこう言うんだ。『分かった。何もするんじゃない。すぐに毛布を持って駆けつける』とね」
「そこまでひどくはないだろう」私は言った。
「何がしたくて、タリーの家に会いに行ったんだ。今夜は?」
「タリーはフローレンス・アルモアの死に関する何らかの情報を手にしていた。彼女の両親は彼を雇ってそれを探らせてたんだが、彼はそれについて、二人に話していない」
「それで、君になら話すだろうと思ったのか?」ウェバーは皮肉っぽく訊いた。
「手持ちの札がそれしかなかったんだ」
「それとも、デガーモに痛い目に合わされた腹いせに、彼にも痛い目を見せてやりたくなっただけなのか?」
「それも少しはあるかもしれない」私は言った。
「タリーはケチな強請り屋だった」ウェバーは見下げ果てたように言った。「常習犯でね。 追い払う方法は何でもよかった。というわけで、彼が手にした情報とやらを教えてやろう。フローレンス・アルモアの足から掠めたダンスシューズの片っぽうだ」
「ダンスシューズの片っぽう?」
 彼はかすかに微笑した。「ダンスシューズの片っぽうだけ。後になって、彼の家に隠してあったのが見つかった。緑色の天鵞絨のダンス用パンプスだ。踵に小さな宝石がいくつかはめ込まれていた。ハリウッドの劇場用の履き物なんかをつくる職人に特注したものだ。さて、このダンスシューズがどうして重要なのか、訊いてくれ」
「このダンスシューズがどうして重要なんだ、警部?」
「彼女はそれを二足持っていた。全く同じもので、同時に注文していた。別に不思議はない。擦り減るとか、酔っ払いに足を踏まれるとかした時のためだ」彼は言葉を切り、薄笑いを浮かべた。「一足の方は一度も履かれていなかったようだ」
「分かりかけてきたように思う」私は言った。
 彼は椅子の背に凭れ、肘掛けをとんとん叩いた。私の答えを待っていた。
「家の通用口からガレージまでの通路は雑な仕上げのコンクリートだ」私は言った。「かなりざらついている。彼女が運ばれて、歩いていないとしよう。そして、彼女を運んだ誰かが彼女にダンスシューズを履かせた。まだ履いたことのない方を」
「それで?」
「そして、レイヴァリーが往診中の医師に電話している間にタリーがそれに気づいたとしよう。そこで彼は、履かれていないダンスシューズを持ち去った。フローレンス・アルモアが殺害された証拠だと考えたんだ」
 ウェバーはうなずいた。「もし彼が、警察に見つかるように、現場に残しておきさえすれば、それは証拠になった。取られた後では、彼が食わせ者だったという証拠にしかならん」
一酸化炭素血中濃度の検査はしたのか?」
 彼は両手を机の上に置いて、じっとそれを見下ろした。「した」彼は言った。「一酸化炭素中毒でまちがいない。また、その見かけに検死官も満足していた。暴力沙汰の形跡はなかった。それで、アルモア医師が妻を殺害していないと満足してしまった。おそらく彼らはまちがっていた。捜査は少々おざなりだったようだ」
「担当は誰だったんだ?」私は尋ねた。
「ご推察の通りだ」
「警察が来たとき、ダンスシューズが片っ方なくなっていることに気づかなかったのか?」
「警察が来たときにはダンスシューズはなくなってはいなかった。忘れちゃいけない。アルモア医師がレイヴァリーの電話を受けて帰ってきたのは警察が呼ばれる前だ。紛失した靴のことはタリーに教えられた。家に置いてあった新品の靴を彼が持ち去ったのかもしれない。通用口は鍵がかかっていなかったし、メイドたちは寝ていた。それに対する反論は、履かれていない靴のあることを彼が知っていたとは思えない、というものだ。あいつならそれくらいのことはやりかねない。目端の利くこすっからい小悪党だからな。だが、やったと決めつけるだけの証拠がない」
 我々はそこに座って互いに顔を突き合わせ、考えていた。
「ただし」ウェバーはゆっくりと言った。「その看護師が、タリーと組んでアルモアを強請ろうとしていたなら、話はちがってくる。考えられる話だ。そう思わせる点もある。そうではないと思わせる点はもっとあるがな。山で溺死した女がその看護師だと考える理由は何だ?」
「理由は二つ。どちらか一方だけでは決定的ではないが、二つ合わせるとかなり強力だ。数週間前に見かけも振舞いもデガーモによく似たタフガイが山にやってきて、ミルドレッド・ハヴィランドの写真を見せて回っている。髪型や眉毛にちがいはあったが、それはミュリエル・チェスによく似ていた。誰も彼に協力する者はいなかった。男はデソトと名乗り、ロサンジェルスの警官だと言っていた。ロサンジェルスにはデソトという名前の警官はいない。その話を聞いてミュリエル・チェスは怯えた。もし、それがデガーモだったとしたら話の辻褄が合う。もう一つの理由は、ハートのついた金のアンクレットがチェスの小屋の粉砂糖の箱の中に隠されていたことだ。彼女が死んで、亭主が逮捕されてから発見された。裏にこう彫られていた。『アルからミルドレッドへ。一九三八年六月二十八日。愛をこめて』」
「どこか別のアルと別のミルドレッドの可能性もある」ウェバーは言った。
「そんなこと、自分でも信じちゃいないんだろう。警部」
 彼は前かがみになり、空気に穴を開けるように人差し指をくるくる回した。「実際のところ、いったい君は何がしたいんだ?」
「はっきりさせたいんだ。キングズリーの妻がレイヴァリーを撃っていないことを。彼の死はアルモアの商売に関わりがあり、それはミルドレッド・ハヴィランドと繋がっている。もしかしたら、アルモア医師とも。明らかにしたい。キングズレーの妻が行方不明になったのは、彼女をひどく怖がらせるようなことが起こったからだということを。やましさを感じているかどうかは別として、彼女は誰も殺してはいない。もしそれを明らかにすることができたら、五百ドルは私のものだ。試してみても法には触れない」
 彼はうなずいた。「それはそうだ。その根拠さえ分かれば、力を貸すこともできるだろう。警察はその女を見つけてはいない。何しろ時間が足りないのでね。だが、君が私の部下をはめる手伝いはできない」
 私は言った。「デガーモをアルと呼んでいるのは聞いた。しかし、私はアルモアのことを考えていた。彼の名前はアルバートだ」
 ウェバーは自分の親指を見た。「しかし、彼はその女と結婚していなかった 」彼は静かに言った。「結婚していたのはデガーモだ。彼女は彼にひどく手を焼かせた。彼の中で悪いように見えるものの多くは、その結果なのだ」
 私はじっと坐ったままだった。しばらくして私は言った。「知らずにいたことが見えてきたよ。彼女はどんな女だったんだろう」
「頭が切れて、人当たりの良い、役立たずだ。男の扱いに長けていた。男たちは彼女のためなら四つん這いになって靴だって舐めたろう。もし彼女の悪口を言いでもしたら、あの大間抜けは即座に君の頭を引きちぎってしまうだろう。彼女は彼と離婚したが、彼にとってはそれで終わりではなかった」
「デガーモは彼女が死んだことを知ってるのか?」
 ウェバーは長い間静かに座っていた。それから、言った。「彼からは何も聞いていない。もしそれが同じ女だったとして、彼にどんな手が打てるというんだ?」
「彼は山で女を見つけてはいない――私たちの知る範囲では」
 私は立ち上がり、机の上に屈み込んだ。「ねえ、警部、揶揄っちゃいないだろうね?」
「いや、これっぽっちも。そういう男もいるし、そういう風に仕向ける女もいるということだ。デガーモが彼女を傷つけたくて山に探しに行ったと思っているとしたら、君はバータオル並みに湿っぽいな」
「そのことは頭になかったが」私は言った。「可能性はなくもない。デガーモがあの辺りをよく知っていれば、だが。誰であれ、女を殺した人物はよく知っていた」
「これはここだけの話だ」彼は言った。「胸の裡に収めておいてほしい」
 私はうなずいたが、約束はしなかった。もう一度、おやすみを言って出た。彼は私が部屋を出るのを見送った。その姿は傷つき、悲しげだった。
 クライスラーは建物脇にある警察の駐車場に駐まっていた。キーは差しっぱなしで、フェンダーは無傷だった。クーニーは脅しを実行しなかったようだ。私はハリウッドに引き返し、ブリストルにある自分の部屋に上がっていった。もう遅く、ほとんど真夜中だった。
 緑と象牙色の廊下に人影はなく、どこかの部屋で電話が鳴っているだけだった。その音はしつこく鳴り響き、ドアに近づくにつれて大きくなっていった。私は鍵を開けた。鳴っていたのは私の電話だった。
 私は真っ暗な部屋を横切り、横の壁にあるオーク材の机の縁にある電話のところまで歩いた。私がたどり着くまでに、少なくとも十回は鳴ったにちがいない。
 受話器を取り、電話に出た。かけてきたのはドレイス・キングズリーだった。彼の声は切羽詰まっていて、甲高く、緊張していた。「何てこった、いったいどこに行っていたんだ?」彼は怒った。「何時間も連絡を取ろうとしていたんだぞ」
「もういいでしょう、今はここにいますよ」私は言った。「どうしました?」
「彼女から連絡があった」
 私は手にしていた受話器をきつく握りしめ、ゆっくり息を吸い込んでからゆっくり吐き出した。「それで」私は言った。
「すぐ近くにいる。五、六分でそこに着く。出られる準備をしといてくれ」
 彼は電話を切った。
 私は耳と電話機の真ん中あたりに受話器を持ったまま、突っ立っていた。それから、のろのろと受話器を置き、握っていた手を見た。手は半ば開かれ、まだ受話器を握っているかのように固まっていた。

【解説】

「それで、遊んでる一ドル銀貨が五百枚ほどあるんだが」は<And I've got five hundred iron men that are not working.>。清水訳は「使い道のない紙っ切れが五百枚、ここにあるんだけどね」。村上訳は「で、五百枚くらい遊んでいるドル札があるんだがね」。田中訳は「ついでに言つとくが、おれのところには、ぶらぶらしてる子分が五百人はいる」。面白い訳だが、それだけ手下がいれば、死体の処理くらいお茶の子だろう。<iron man>は俗語で「ドル紙幣、ドル銀貨」のこと。

「というわけで、彼が手にした情報とやらを教えてやろう。フローレンス・アルモアの足から盗ったダンスシューズの片っぽうだ」は<So I'll tell you what it was he had. He had a slipper he had stolen from Florence Almore's foot>。清水訳は「だから、彼が握ってたのが何であったかを君に教えてあげよう。フローレンス・アルモアの足から盗んだスリッパの片っぽを握ってたんだ」。田中訳は「タリイがにぎていた証拠というのをおしえてやろうか。ミセズ・アルモアの死体からかつぱらつたスリッパだよ」。村上訳は「だから君に教えてやろう。彼が何を手にしていたかを。彼はフローレンス・アルモアの履いていたダンス靴の片方を持っていたんだよ」。

短い台詞の中に<he had>が三度連続して使われている。初め二つの<he had>は、マーロウが言った「タリーはフローレンス・アルモアの死に関する何らかの情報を手にしていた」(He had some line on Florence Almore's death>で使われている。<have a line on>は「~に関する情報を持っている」という意味だ。ウェバーが、それを踏まえて言ったのなら、同じ言葉で訳す方がいいと思うが、村上氏は特に意識していないようだ。

<slipper>は「スリッパ」だが、辞書を引くと、日本語の「スリッパ」より意味が広く、文脈によって「室内用の靴・ダンスシューズ・バレエシューズ・庭用サンダル・下駄」などを指すこともある、という。また普通は<slippers>と複数形を使うので、<a slipper>なら、そのどちらか片一方である。

「だが、やったと決めつけるだけの証拠がない」は<But I can't fix the necessary knowledge on him>。清水訳は「だが、彼についてはまだわからないことがだいぶある」。田中訳は「だが、それまで知つていたとは、わたしには考えられん」。両氏の訳ではそうなっているが、<fix ~ on>は「(責任、嫌疑など)を人に負わせる」という意味。村上訳は「ただやつがそうしたと決めつけられるだけの確証は、まだ得られていない」。

「私がたどり着くまでに、少なくとも十回は鳴ったにちがいない」は<It must have rung at least ten times before I got to it>。清水訳は「私が手にとるまで十分間は鳴っていたろう」。田中訳は「おれがでるまでに、すくなくとも十ぺんぐらいは電話をかけてきたらしい」。マーロウが知ることができるのは廊下を歩いていたときに鳴っていた電話の音だけだ。それが、何分間鳴っていたか、何回かけてきたか、そんなこと分かるはずもない。村上訳は「そこに着くまでに、少なくともベルが十回は鳴っただろう」。

「受話器を取り、電話に出た。かけてきたのはドレイス・キングズリーだった」は<I lifted it out of the cradle and answered, and it was Derace Kingsley on the line>。田中訳は「受話器をとりあげると、ドレース・キングズリイの声がつたわつてきた」。村上訳は「受話器を取り、返事をした。かけてきたのはドレイス・キングズリーだった」。清水訳にはこの一文が抜け落ちている。

『湖中の女』を訳す 第二十七章

<corner office>は二つの壁面が窓になった、眺めのいい重役室のこと

【訳文】

 ウェバー警部はその少し曲った尖った鼻を机越しにこちらに突き出して言った。「かけたまえ」
 私は丸い背凭れの木の肘掛け椅子に腰を下ろし、左脚を椅子の角張った縁からそっと離した。広くて端正なオフィスは眺めのいい角部屋だった。デガーモは机の端に座り、脚を組み、考え深げにくるぶしをさすりながら、窓の外を眺めていた。
 ウェバーは続けた。「君はトラブルを求め、それを手に入れた。住宅地を時速五十五マイルで走行し、サイレンと赤いスポットライトで停止を命じるパトカーから逃げようとした。車を停められると暴言を吐き、一人の警官の顔面を殴打した」
 私は何も言わなかった。ウェバーは机からマッチ棒をつまみあげ、二つに折って肩越しに後ろに投げた。
「それとも、連中が嘘をついてるのか――いつものように?」彼は訊いた。
「連中の報告書は見ていないが」私は言った。「住宅地かどうかはともかく、市の境界内でおそらく五十五マイルは出ていただろう。 訪ねた家の外に警察の車が駐まっていた。 私が車を出すとそいつが後をつけてきた。そのときは警察の車だとは知らなかった。 つけられるいわれがなく、見かけも気にくわなかった。少々スピードは上げたが、街の明るいところに行こうとしただけだ」
 デガーモは目を動かして、意味のない冷たい視線を送ってきた。ウェバーは焦れたように歯を鳴らした。
 彼は言った。「それがパトカーだとわかってからも、ブロックの真ん中でUターンして、まだ逃げようとした。その通りなのか?」
 私は言った。「その通りだが、それを説明するには、ちょっとした打ち明け話をしなきゃならない」
「ちょっとした打ち明け話、大いに結構」ウェバーは言った. 「どちらかといえば、私はちょっとした打ち明け話を聞くのを得意にしてる」
 私は言った。「私を逮捕した警官たちは ジョージ・タリーの妻が住んでいる家の前に車を駐めていた。既にそこにいたんだ。私よりずっと前から。ジョージ・タリーは前にこの街で私立探偵をやっていた男だ。私は彼に会いたかった。その理由はデガーモが知っている」
 デガーモはポケットからマッチを取り出し、その柔らかい端を静かに噛んだ。彼は無表情にうなずいた。ウェバーは彼を見なかった。
 私は言った。「ばかなやつだよ、デガーモ。やることなすことばかげていて、やり方もばかばかしい。昨日、アルモアの家の前で事を構えたとき、要もないのにタフぶって見せたろう。くすぶってもいなかった私の好奇心にそれが火をつけた。おまけにあんたは、もしものとき、その好奇心を満たすにはどうすればいいか、ヒントまで与えてくれた。友だちを守るためにあんたがやるべきことは、私が動くまで口をつぐんでることだった。そうしてたら、私は何もしなかったし、あんただってこんなことにはならなかっただろう」
 ウェバーは言った。「ウェストモア・ストリートの一二〇〇番地区で逮捕されたことと、いったい何の関係があるんだ?」
「アルモア事件が絡んでいるのさ」 私は言った。「ジョージ・タリーはアルモア事件を調べていた。飲酒運転で挙げられるまではね」
「なあ、私はアルモア事件には一切関わっていないんだ」ウェバーは口を挟んだ。「最初にジュリアス・シーザーに短剣を突き刺したのが誰かさえ知らない。要点を押さえて話すことはできないのか?」
「私は要点を押さえている。アルモア事件の事情に詳しいデガーモは、その話をされることを嫌う。パトカーの連中さえそのことを知っている。アルモア事件を調査していた男の妻を訪ねていなければ、クーニーとダブスに私を尾行する理由はなかった。彼らがつけてきたとき、私は時速五十五マイルも出していなかった。逃げようとしたのは、あそこを訪ねたことで、袋叩きにされるかもしれない、とふと思ったからだ。そう思わせたのはデガーモだ」
 ウェバーはちらっとデガーモを見た。デガーモのタフな青い目は、部屋の向こう側の壁を見ていた。
 私は言った。「手を出したのは向こうが先だ。クーニーが私にウイスキーを無理やり飲ませ、口をつけると同時に私の腹を殴り、上着の前にこぼして証拠の匂いがつくようにした。私が鼻を殴ったのはその後だ。その手口を聞いたことがないとは言わせないよ、警部」
 ウェバーは別のマッチを折った。後ろに凭れ、小さく締まった拳を見た。彼は再びデガーモを見て言った。「君が今日、署長に就任してたら、私も仲間に入れられたのだろうな」
 デガーモは言った。「よしてくださいよ。この探偵は軽いのを二、三発くらっただけです。ちょっとした冗談ですよ。真に受けちゃ――」
 ウェバーは言った。「クーニーとダブスをあそこに行かせたのは君か?」
「ええ、まあ、そうしました」デガーモは言った。「どうしてこいつら詮索屋のことを我慢してなきゃならんのです。勝手にこっちのシマに入り込んで、もう済んでしまった事件を煽り立て、さも仕事をしたように見せかけて、年寄り夫婦から大金をふんだくろうとしてるんですよ。こいつらは、痛い目を見なきゃわからんのです」
「君にはこの件がそう見えているのか?」ウェバーは訊いた。
「見たまんまを言ってるんです」デガーモは言った。
「君のような輩には何が必要なんだろうな」ウェバーは言った。「思うに、今の君にはちょっと外の空気が必要だ。そうしていただけるかな、警部補?」
 デガーモはゆっくり口を開いた。
「つまり、私にさっさと出て行けということですか?」
ウェバーはいきなり身を乗り出し、鋭い小さな顎が巡洋艦の船首みたいに風を切った。「そうしていただけるとありがたい」
 デガーモはゆっくり立ち上がった。頬骨が暗い赤みを帯びた。前屈みになり、机の上に片手を置いて、ウェバーを見た。ちょっと緊迫した沈黙があった。
「いいでしょう、警部。しかし、あなたのやり方はまちがってる」
 ウェバーは答えなかった。デガーモはドアのほうに歩いて出て行った。ウェバーはドアが閉まるまで口を開かなかった。
「一年半前のアルモアの件と今日のレイヴァリーの襲撃を結びつけようというのが君の考えた筋書きか? それとも、キングズリーの妻がレイヴァリーを撃ったことを承知の上で煙幕を張っているだけなのか?」
 私は言った。「その件は、撃たれる前からレイヴァリーに結びつけられている。おそらく縦結びのような、ざっくりとしたやり方でね。だが、疑いを抱かせるにはそれで十分だ」
「君が考えている以上に、私はこの問題を徹底的に調べてきた」ウェバーは冷やかに言った。「私はアルモアの妻の死と個人的に何の関係もないし、当時は刑事部長でもなかったが。君が昨日の朝までアルモアのことを知らなかったとしても、それ以来、彼のことをよく耳にしているはずだ」
 私は、ミス・フロムセットとグレイソン家から聞いたことをそのまま彼に伝えた。
「レイヴァリーがアルモア医師を強請っていたというのが君の持論なんだな」彼は最後に訊いた。「そしてそれが殺人事件と何らかの関係があると?」
「持論なんてだいそれたものじゃない。単なる可能性に過ぎない。ただ、それを無視していては探偵稼業はやっていけない。レイヴァリーとアルモアの間に、関係があったとしたら、根の深い危険なものだったかもしれないし、単なる知り合いだったかもしれないし、知り合いですらなかったかもしれない。私の知る限りでは、彼らは互いに話したことがない。しかし、アルモア事件に何もおかしな点がなかったとしたら、事件に興味を持つ者が、なぜこうまで痛い目を見るんだ? ジョージ・タリーが酒気帯び運転で挙げられたのは偶然かもしれない。しかし、それは彼がこの件に取り組んでいた矢先だった。私が彼の家をじろじろ見て、アルモアが警官を呼んだのも、二度目に話をする前にレイヴァリーが撃たれたのも偶然かもしれない。しかし、今夜あなたの部下二人が、私が現れたら面倒を引き起こしてやろう、と手ぐすね引いてタリーの家を見張っていたことは偶然ではない」
「それは認めるよ 」ウェバーは言った。「そして、その事件はまだ終わっていない。告訴したいのか?」
「警察官を暴行容疑で告訴するには、人生は短すぎる 」私は言った。
 彼は少し苦笑した。「それでは、この件はすべて水に流し、いい経験をしたと思うことにしよう 」と彼は言った。「それと、私の知る限り、君の名前は拘留記録に載っていないので、いつでも自由に帰れる。もし私が君だったら、レイヴァリーの件はウェバー警部に任せておく。結果的にアルモア事件との繋がりが判明する可能性のある些細な事案も含めてね」
 私は言った。「可能性のある些細な事案も含めてというなら、昨日ピューマ・ポイント近くの山の湖で溺れてるのが見つかったミュリエル・チェスという女の件もだな?」
 彼は小さな眉を上げた。「そう思うのか?」
「ミュリエル・チェス という名前は知らないかもしれないが、ミルドレッド・ハヴィランドなら知ってるんじゃないか。以前アルモア博士の診療所の看護師だった。ミセス・アルモアがガレージで死体で発見された夜、彼女を寝かしつけた女だ。もし何か不正が行われたとしたら、誰の仕業か知っているかも知れない。金をつかまされるか、脅されるかして、すぐに街を出たのだろう」
 ウェバーはマッチ棒を二本つまみあげ、それを折った。小さな冷たい目は私の顔を見つめていたが、何も言わなかった。
「そして、その時点で」私は言った。「まさにちょっとした偶然に出会う。私が全体像の中で進んで認める唯一つの偶然だ。このミルドレッド・ハヴィランドは、リバーサイドのビアホールでビル・チェスという男と出会い、何らかの事情で彼と結婚し、リトルフォーン湖で一緒に暮らすことになる。そしてリトルフォーン湖の持ち主の妻は、アルモア夫人の遺体を発見したレイヴァリーと懇ろの関係にあった。これこそ本当の偶然と言えるだろう。偶然以外の何物でもないが、それが基本中の基本なんだ。他のすべてはそこから流れ出ている」
 ウェバーは机から立ち上がり、冷水器のところに行って、紙コップの水を二杯飲んだ。彼はゆっくりとカップを握りつぶし、二つを丸めて一つの玉にし、冷水器の下の褐色の金属製の屑入れに落とした。そして、窓の方に歩いて行って湾の向こうを見た。当時は灯火管制が施行される前で、ヨットハーバーには多くの明かりがあった。
 彼はゆっくり机に戻って腰を下ろした。手を伸ばして鼻をつまんだ。何かについて腹を括ろうとしていた。
 彼はゆっくり言った。「それを、一年半後に起こったことと一緒くたにすることに、どんな意味があるのか、さっぱりわからん」
「オーケイ」私は言った。「時間潰しをさせて済まなかった」私は帰りかけた。
「脚はひどく痛むのか?」私が身を屈めて足をさすっていると、彼が訊いた。
「かなりね。だが、よくなりつつある」
「警察の仕事は」彼は優しいとさえいえる声で言った。「問題をどっさり抱え込んでいる。政治とよく似ていてね。人格識見ともに優れた人間を求めているのに、人格識見ともに優れた人間を惹きつけるものが何もない。だから、手持ちの駒を使うしかない。それで、こういうことが起きるんだ」
「分かってる」私は言った。「こういうことには馴れっこでね。何とも思ってないよ。おやすみ。ウェバー警部」
「ちょっと待て」彼は言った。「少し座ってくれ。この件とアルモア事件に関わりがあるとしたら、それを明るみに引っ張り出し、調べてみようじゃないか」
「そろそろ誰かがやってもいい頃合いだ」私は言った。そして、もう一度腰を下ろした。

【解説】

「ウェバー警部はその少し曲った尖った鼻を机越しにこちらに突き出して言った」は<Captain Webber pushed his sharp bent nose across the desk at me and said>。初登場のときにウェバーは次のように描写されている。<His nose was sharp and bent a little to one side>(とがった鼻は少し片方に曲がっている)。清水訳は「とがった鼻が(中略)一方に少々まがっていた」。田中訳は「鼻はほそくとがり、すこしまがつている」。村上訳は「鼻は尖って、少しばかり一方に傾いていた」。

ところが、今回その鼻は、清水訳では「鋭くまがった鼻」、田中訳では「するどい、まがつた鼻」、村上訳では「湾曲した鋭い鼻」になっている。ひとりの人間の鼻は、そうそう形を変えたりしない。先に「とがった」と描写したなら、今回もそう書くのが道理だろう。三氏とも自分が二十一章でどう訳したのか忘れてしまったらしい。

「広くて端正なオフィスは眺めのいい角部屋だった」は<It was a large neat corner office>。清水訳は「広くて、小ざっぱりした、建物のかど(傍点二字)の部屋だった」。田中訳は「きちんとした、端の大きな部屋だ」。村上訳は「広くて小綺麗な角部屋だった」。<corner office>は、たしかに「角部屋」ではあるが、眺めのいい、つまり角を作る二つの壁面が窓になった、重役や役員のために用意された部屋のことだ。日本語にはこの言葉にうまくあてはまる言葉がない。会社なら「重役室」でいいだろうが、警察ではそうもいかない。

「君が今日、署長に就任してたら、私も仲間に入れられたのだろうな」は<If you got made chief of police today, you might let me in on it>。清水訳は「君が今日、署長に任命されたら、私にもやらせてくれるだろうな」。田中訳は「今日は、署長みたいに勝手なことをいろいろやつてたようだが、すくなくとも、あとで話ぐらいは、わたしにもきかせてくれよ」。村上訳は「もしおまえさんが、警察署長の地位についていたら、私もそういうのに荷担させられていたかもな」。

< let me in>は「中に入れる」。この場合、クーニーやダブスのやってるような仕事の仲間入りすることを指すのだろう。ここでは、文末の<today>に注目したい。時間は夜の十時過ぎ。まだ、その日の話だ。清水訳の場合、そんな時間に署長に任命されることはまずないだろう。村上訳は「今日」というように時間を限定していない。しかし、いくらベイ・シティでも、デガーモのような男が警察署長になることはない。

つまり、ここは仮定法過去を使って、あり得ない話を振っているわけだ。万が一、デガーモが今日、警察署長になっていたら、自分も悪徳警官の仕事を命じられていたかもしれない、と言いたいのだ。クーニーやダブスのような下っ端なら、お前は気にしないかもしれないが、俺だったらどうするつもりなんだ、という脅しを利かせているのだろう。田中訳は後半部分の<might>という過去形が読めていない。

「結果的にアルモア事件との繋がりが判明する可能性のある些細な事案も含めてね」は<and with any remote connection it might turn out to have with the Almore case>。マーロウは、このウェバーの言葉を引き取ってウェバーに返す。<And with any remote connection it might have with a woman named Muriel Chess being found drowned in a mountain lake near Puma Point yesterday?>(可能性のある些細な事案も含めてというなら、昨日ピューマ・ポイント近くの山の湖で溺れてるのが見つかったミュリエル・チェスという女の件もだな?)。

マーロウが省いている<turn out to>は「結局~であることが判明する」という意味だ。この時点ではまだ、ミュリエル・チェスの件の調査にウェバーは関わっていないし「アルモア事件との繋がりが判明」していないからこう言うしかない。この部分を三氏はどう訳しているだろうか。

清水訳は「アルモア事件と思いもよらぬところでつながっているかもしれないがね」「ついでにいっとくと、思いもよらぬところで昨日ピューマ・ポイントの近くの湖で溺死しているのを発見されたミュリエル・チェスという女とのつながりがあるかもしれないぜ」。「思いもよらぬところで~つながりがあるかもしれない」と、引用部分が二分されているのが惜しい。

田中訳は「また、ミセズ・アルモアの死因に関係のありそうな、どんなちいさなことも」「ミセズ・アルモアの件にかかり合いのある、ごくちいさなことまでというなら、昨日、ピューマ・ポイントの近くの、山のなかの湖でその溺死体が発見された、ミューリエル・チェスという女もそうですよ」。<turn out to>についてはウェバーが「(関係の)ありそうな」とぼかしたところを。マーロウには「かかり合いのある」と言わせている。田中氏は「言葉を引き取る」ことには無関心で、別の訳語を使っている。

村上訳は「その事件がアルモア事件に結びつくことになるかもしれない、ほんの僅かなコネクションも含めて」「そして、昨日ピューマ・ポイント近くの山間の湖で溺死体で見つかったミュリエル・チェスという名前の女を、この件に結びつけることになるかもしれない、ほんの僅かなコネクションも含めて」。村上氏は同じ文が使われていることを意識しているが、せっかくのその言葉を、後ろに持っていっては「言葉を引き取る」(他人の話の中途からその話に応じる自分のことばを続ける)ことにならない。

「彼はゆっくり机に戻って腰を下ろした。手を伸ばして鼻をつまんだ。何かについて腹を括ろうとしていた」は<He came slowly back to the desk and sat down. He reached up and pinched his nose. He was making up his mind about something.>田中訳には、このセンテンスがそっくり抜け落ちている。

《「オーケイ」私は言った。「時間潰しをさせて済まなかった」私は帰りかけた》は<“Okay,” I said, “and thanks for giving me so much of your time.” I got up to go>。清水訳は《「もういいんだね」と、私はいった。「時間をこんなに割いてくれてありがとう」》。田中訳は《「オーケー。時間をつぶして、すみませんでした」おれはたちあがつて、いきかけた》。村上訳は《「オーケー」と私は言った。「私のために時間をこんなにも割いていただいて、感謝の限りだ」》。清水訳と村上訳は<I got up to go>が欠落している。清水訳はともかく、逐語訳を旨とする村上訳には珍しいことだ。

マーロウが肘掛椅子に腰を下ろすところから始まり、長時間話し込んだあと、それではと立ちかけて、もう一度腰を下ろすところで終わっている。初めに座った時と、二度目に座ったときの間で、二人の互いに相手に寄せる感情が大きく変化している。肝胆相照らす仲とまではいわないが、かなり相手の能力や人柄について知り合えたのではないだろうか。チャンドラーの小説には、パットンもそうだが、マーロウの相手役に印象的な人物がよく登場する。両者の間で行われる細かな心理戦が読む愉しさを生み出しているのだ。精読することで、それがよく分かる。

『湖中の女』を訳す 第二十六章

<dismal flats>は「見すぼらしい家屋」ではなく「海岸沿いの湿地」

【訳文】

 監房棟はほとんど新品同様だった。軍艦の灰色に塗られた鋼鉄の壁や扉は、二、三ヵ所、噛み煙草の唾を吐かれて外観を損ねていたが、まだ塗りたての鮮やかな光沢を保っていた。頭上の照明は天井に埋め込まれ、厚い摺り硝子のパネルが嵌っていた。監房の片側に二段ベッドがあり、上段には濃い灰色の毛布を巻きつけた男がいびきをかいていた。こんなに早くから眠りこんで、ウイスキーやジンの匂いもさせず、眠りを邪魔されないように上の寝台を選んでいるところから見て、古くからいる下宿人にちがいない。
 私は下の寝床に腰を下ろした。銃を持っているかどうかは調べられたが、ポケットはひっくり返されなかった。煙草を取り出して、膝の裏の熱く腫れあがったところをさすった。痛みはくるぶしまで広がっていた。ウィスキーを吐いたせいで、上着の前の方が嫌な匂いがした。私は布地を持ち上げ、そこに煙草の煙を吹きかけた。煙は天井の照明を蔽う平らな矩形の硝子のまわりをたゆたった。留置場は静まり返っていた。留置場のどこか遠く、別の場所で女が金切り声を上げていた。私のところは教会のように平和だった。
 どこにいるのかしらないが、女は叫び続けていた。か細く、甲高い非現実的な声だった。月明かりに照らされたコヨーテの叫び声に似ていたが、コヨーテのように哀調を帯びて高まっていきはしなかった。しばらくすると、その音は止んだ。
 立て続けに煙草を二本吸い、吸殻を隅の小さな便器に捨てた。上段の男はまだいびきをかいていた。見えるのは毛布の端から出ているべっとりと脂ぎった髪の毛だけだ。うつ伏せに寝て、熟睡している。したたかなものだ。
 私は再び寝台に座った。細長い鉄の薄板を並べた上に薄くて固いマットレスが敷いてある。濃い灰色の毛布が二枚、なかなかきちんと畳んである。とてもいい留置場だ。新市庁舎の十二階にある。とてもいい市庁舎だ。ベイ・シティはとてもいいところだ。そこに住む人々はそう思っている。もし私が住人だったらそう思うにちがいない。私の目に映るのは、青い入り江と断崖とヨットハーバー、そして静かな通りに面した家並み。古い家々は年経た樹々の陰で鬱々とし、新しい家々は緑が目に映える芝生と金網のフェンス越しに、支柱を添えた若木が並ぶ緑地のある大通りに面している。私は二十五番通りに住んでる娘を知っていた。気持ちのいい通りだった。彼女は気立てのいい娘だった。そして、ベイ・シティが好きだった。
 彼女は、古い幹線道路の南側の低湿地帯に広がるメキシコ人や黒人のスラム街のことなど考えもしなかったろう。あるいはまた、崖の南側に伸びる平らな海岸沿いの安酒場、盛り場の汗臭い小さなダンスホールマリファナ煙草を扱う店、静か過ぎるホテルのロビーで新聞を読むふりをしながら目を光らせる細い狐顔の男、そして板張りの遊歩道の上で網を張る掏摸、ぺてん師、詐欺師、酔っぱらい専門の盗っ人、ぽん引き、男娼たちのことも。
 私は扉のそばに行って立った。向かい側には誰も動くものはいなかった。監房棟の照明は薄暗くひっそりしていた。留置場というのは因果な稼業だ。
 私は時計を見た。九時五十四分。家に帰り、スリッパに履き替えてチェスの試合を再現する時刻だ。背の高いグラスに入った冷たい酒とパイプを燻らせる長い沈黙の時間。足を投げ出して何も考えずに座る時間。雑誌を読みながら欠伸をする時間。人間として、家長として、くつろいで夜の空気を吸いながら、明日のために頭を切り替える以外に何もすることのないひとりの男になる時間だ。
 青灰色の看守の制服を着た男が、番号を読みながら監房の間を通ってきた。彼は私の房の前で立ち止まり、扉のロックを解除して、彼らがいつもいつもいつも、そうしなければならないと思い込んでいる厳しい目を私に向けた。俺は警官だ、ブラザー。俺はタフだ、気をつけろ、ブラザー。さもないと四つん這いでしか歩けなくしてやるぞ、ブラザー。しゃっきりするんだ、ブラザー。本当のことをすっかりしゃべっちまえ、ブラザー、吐くんだ。忘れるんじゃねえ、俺たちはタフガイだ。俺たちは警官なんだ。お前のような屑どもを好きなように扱えるんだからな。
「出ろ」彼は言った。
 私が監房から出ると、彼は扉の鍵をかけ直して親指をくいと動かした。私たちは大きな鉄製の門扉に向かい、彼はその鍵を開けて私たちは通り抜け、彼は鍵をかけ直した。鍵束が大きな鉄の輪の中で楽しそうな音を立てた。しばらくして、私たちは内側は軍艦の灰色に、外側は木のように塗られた鋼鉄の扉を通った。
 デガーモがカウンターの傍に立って内勤の巡査部長としゃべっていた。
 メタリック・ブルーの眼を私に向けて言った。「調子はどうだ?」
「いい」
「うちのブタ箱みたいにか?」
「いいブタ箱だ」
「ウェバー警部が会いたいそうだ」
「そいつはいい」私は言った。
「いい、という以外に言葉を知らんのか?」
「今は」私は言った. 「ここではな」 
「少し足を引きずってるな」彼は言った. 「何かにつまずいたのか?」
「ああ」私は言った。「ブラックジャックにつまずいてね。ぴょんと跳び上がって左膝の裏に咬みついたんだ」
「そいつは気の毒だ」デガーモは言った。うつろな目だ。「係の者から所持品を受け取れ」
「持ってる」私は言った。「取られなかった」
「そいつはいい」彼は言った。
「そのとおり」私は言った。「いいよ」
 内勤の巡査部長はもじゃもじゃ頭を上げ、我々二人をじっと見つめた。
「そんなに、いいものがお望みなら」彼は言った. 「クーニーのけちなアイリッシュの鼻を見てったらどうだ。ワッフルにかけたシロップみたいに顔中に広がってるぞ」
 デガーモは興味なさそうに言った。「どうした? 喧嘩でもしたのか?」
「さあね」内勤の巡査部長は言った。「例のブラックジャックがぴょんと跳び上がって咬みついたのかもな」
「内勤の巡査部長にしちゃ、ぺらぺらとよくしゃべるな」デガーモは言った。
「内勤の巡査部長は、大抵おしゃべりときてる」内勤の巡査部長は言った。「だから殺人課の警部補になれないんだろうよ」
「な、これで分かったろう」とデガーモは言った。 「ここでは、俺たちはひとつの幸せな家族みたいなもんだ」 
「満面に笑みを浮かべながら」内勤の巡査部長は言った。「歓迎の意を表して両腕を大きく広げるが、両手には石を握ってるのさ」
 デガーモが私の方を向いて顎をしゃくり、我々は外に出た。

【解説】

「監房棟はほとんど新品同様だった」は<The cell block was almost brand new>。清水訳は「留置所の監房はほとんど真新しいといってよかった」。田中訳は「ブタ箱は、ほとんど新築だつた」。村上訳は「留置場は新築同様だった」。<cell block>を辞書で引くと「独房棟」と出る。しかし、ベッドは上下二段で、先客がいるところを見ると「独房」とはいえない。<cell>だけなら「監房」ですむが<block>がついていれば「一棟」の意味だ。しかし、マーロウは通路を歩いただけで留置場のすべてを見たわけではない。自分の見た範囲という意味で「監房棟」としてみた。

「軍艦の灰色に塗られた鋼鉄の壁や扉は、二、三ヵ所、噛み煙草の唾を吐かれて外観を損ねていたが、まだ塗りたての鮮やかな光沢を保っていた」は<The battleship gray paint on the steel walls and door still had the fresh gloss of newness disfigured in two or three places by squirted tobacco juice.>

清水訳は「スチールの壁とドアの軍艦色のグレイのペンキが、吐きつけられた噛みタバコの汁で二、三カ所よごれているほかはまだ新しさを保っていた」。田中訳は「鉄の壁は戦艦のように灰色のペンキでぬつてあり、ドアのしきり(傍点三字)のところも、まだピカピカで、ほんの二、三ヵ所、嚙タバコの汗(ママ)でよごれているだけだ」。田中氏は<door still had>の<still>を<sill>と誤読したのだろう。「汗」は誤植ではないか。

村上訳は「鋼鉄の壁は軍艦の灰色に塗られ、ドアはまだ新鮮な輝きを放っていたが、二、三ヵ所に煙草の汁をつけられ、美観がそのぶん損なわれていた」。田中訳もそうだが、<the steel walls and door>はセットで訳さないとドアが何色か、分からなくなる。また単に「煙草の汁」としてしまうと、<tobacco juice>が「タバコ(嗅ぎタバコまたは噛みタバコ)によって茶色になった唾液」であることが伝わりにくい。

「彼女は、古い幹線道路の南側の低湿地帯に広がるメキシコ人や黒人のスラム街のことなど考えもしなかったろう」は<She wouldn't think about the Mexican and Negro slums stretched out on the dismal flats south of the old interurban tracks.>。清水訳は「彼女はメキシコ人と黒人のスラム街が、いまは使われていない市街電車の線路の南がわの見すぼらしい家屋にひろがってゆくのを考えていなかった」。

清水氏は<the dismal flats>を「見すぼらしい家屋」と訳し、田中訳も「陰気な、ひくい建物」になっている。村上訳は「惨めな低地」としている。一般的には「陰鬱な」と訳されることの多い<dismal>だが、二つの辞書に「(太平洋海岸沿いの高地の)湿地(米方言)」、「(米南部)海岸沿いの湿地」という別解があった。また、<flat>は「家賃の低いアパート」の意味もあるが、<flats>のように複数形になると「平地、浅瀬、湿地、干潟」の意味になる。

「あるいはまた、崖の南側に伸びる平らな海岸沿いの安酒場、盛り場の汗臭い小さなダンスホール」は<Nor of the waterfront dives along the flat shore south of the cliffs, the sweaty little dance halls on the pike>。清水訳は「崖の南がわの海岸にそってならんでいる曖昧(あいまい)宿、汗くさい、ちっぽけなダンスホール」と<on the pike>をスルーしている。

田中訳は「また、南の断崖のむこうには、海岸にそつて埠頭があり、通りには、汗くさい、小汚いダンスホールが並び」と<dives>をカットしている。<on the pike>は「通りには」と訳されている。村上訳は「あるいはまた、崖の南側に沿って並んだ、海辺の曖昧宿のことも、尾根にある汗臭い小さなダンスホールのことも」と<on the pike>を「尾根にある」と訳している。

<pike>には「槍、キタカワカマス(魚)、有料道路、尖峰」等の意味がある。村上氏の「尾根」は「尖峰」から来ているのだろうが、海岸線に沿った猥雑な界隈を眺めていた視線が、唐突に何処とも知れぬ尾根に移るのはどうだろう。1902年にカリフォルニア州ロングビーチにできた娯楽施設に<the Pike>というのがある。海岸沿いの立地、複合的な遊興施設という意味で、その<the pike>を使ったと考えられないだろうか。

「留置場というのは因果な稼業だ」は<Business in the jail was rotten>。清水訳は「留置所はさびれていた」。村上訳は「留置場はいかにも閑散としていた」。<rotten>は「腐った、(道徳的に)腐敗堕落した」という意味だが、「寂れた、閑散とした」という意味はない。<rotten busines>には「因果な商売(稼業)」という意味がある。おそらく、これを使ったのだろう。どうしたことか、田中訳にはこの文を含む四つの文からなるセンテンスが見られない。うっかりして、読みトバしたのかもしれない。

<「満面に笑みを浮かべながら」内勤の巡査部長は言った。「歓迎の意を表して両腕を大きく広げるが、両手には石を握ってるのさ」>は<“With beaming smiles on our faces,” the desk sergeant said, “and our arms spread wide in welcome, and a rock in each hand.”>。ところが、清水訳にはこの部分が欠落している。章の結びにあたるところでもあり、うっかりミスとは考えにくい。田中訳といい清水訳といい、この章には遺漏が多い。何かわけでもあるのだろうか。