marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

四冊の『長い別れ』を読む

<The Long Goodbye>は長い間清水俊二訳が定番だった。村上春樹が単なるハードボイルド小説としてではなく、「準古典小説」として新訳『ロング・グッドバイ』を出したことは当時評判になった。旧訳に欠けていた部分を補填するなど意味のある仕事だったが、新訳の評価は二分した。これはもう原文にあたるしかないと思い、原文と照らし合わせ、新旧訳を読み比べる記事をブログに書き始めた。同じことを考えた人も多かったのだろう。ある日、松原元信氏から『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』という本が送られてきた。著書の中に、私がブログに書いた記事の引用があったので贈ってくれたのだ。

田口俊樹訳『長い別れ』が出た。さて、どうしたものだろう。今度は『四冊の「長い別れ」を読む』を始めるべきなのだろうか? チャンドラーの長篇のなかでも<The Long Goodbye>は全五十三章の大冊である。もう一度、読み比べをする気力が自分にあるだろうか。とりあえず第一章を訳し、三氏の訳と比べてみた。文庫版で、清水訳が482ページ、村上訳が594ページ、田口訳が578ページ。冗長だと評された村上訳とほぼ同量ながら、さすがに訳文はこなれていて格段に読みやすい。これまで気になっていた部分が田口訳ではどうなっているのか、を中心にしてみていくことにしよう。


1

【訳文】

はじめてテリー・レノックスに会ったとき、彼はザ・ダンサーズのテラスの前に停めたロールスロイス・シルヴァーレイスの中で酔いつぶれていた。車を出してきた駐車場係は開けたドアをずっと支えていた。テリー・レノックスの左足が持ち主に忘れられたみたいに車の外にだらんと垂れているからだ。顔立ちこそ若々しいが、髪は真っ白だった。眼を見ればひどく酔っぱらっているのはわかるが、それ以外の点では、客に大枚はたかせるためだけにある場所で、その期待に応えてきた、どこにでもいるディナージャケットを着た好青年のように見えた。
 
傍らに若い女がいた。髪はきれいな濃赤色、唇の上によそよそしい微笑を浮かべている。肩にブルー・ミンクのショールをかけていた。ロールス・ロイスがありきたりの車に見えるような代物だった、と言いたいところだが、ロールスロイスはあくまでロールスロイスである。ありきたりの車になど見えるはずがない。
 
駐車係はよくいるちょっといきがったタイプで、胸に赤い刺繡で店名を入れた白のお仕着せを着ていた。彼はうんざりしていた。
 
「ねえ、お客さん」彼はとげのある声で言った。「ドアが閉められないんで、脚を車の中に引っ込めてもらえませんか?  それとも、開けたままにしときます? いつでも好きなときに落っこちられるように」
 
女は駐車係にぐさりと刺さり、背中から少なくとも四インチは突き出そうな視線を投げた。それくらいのことで彼が怯むことはなかった。ザ・ダンサーズは、散財が人格に及ぼす影響の見本のような人々が集まる店で、客に過剰な期待は抱いていなかった。
 
車高の低い外国製の二人乗りオープンカーが駐車場に滑り込んできた。男がひとり降り立ち、ダッシュボードのシガーライターを使って細長い煙草に火をつけた。プルオーバーのチェックのシャツに黄色いズボン、乗馬靴といういで立ちで、香料入りの紫煙を燻らせ、ぶらぶら歩いてきたが、ロールスロイスには目もくれなかった。そんなものは陳腐だと思ったのだろう。テラスに上がる階段の下で立ち止まると、眼に片眼鏡をはめた。
 
女は愛嬌を振りまいて言った「いいこと思いついたわ、ダーリン。タクシーであなたの家に行ってコンバーチブルを出さない? モンテシートまで海岸沿いを走るにはもってこいの夜よ。あちらに知ってる人がいて、プールサイドでダンス・パーティーを開いてるの」
 
白髪の青年は丁重に言った。「大変申し訳ないが、もうあれは持っていないんだ。やむなく売ったんだ」彼の声と話し方から、オレンジジュースより強いものを飲んでいたとはわからなかっただろう。

「売ったって、ダーリン? それってどういうこと?」彼女はシートの上で体を滑らせて彼から身を引いた。しかし、声の方はそれよりずっと遠くへ離れていた。

「そうしなきゃならなかった」彼は言った。「食べるためにね」

「そういうことね」今の彼女の舌の上なら、一切れのスプモーニさえ溶けそうにないだろう。
 
駐車係は白髪の青年が自分に近い――低所得層であることを知った。「なあ、あんた」彼は言った。「おれは車をここからどかさにゃならない。またいつか会おう、もし会えたらな」
 
そう言って、支えていた手を離し、ドアが開くに任せた。たまらず酔っ払いはシートから滑り落ち、アスファルトの路面に尻もちをついた。そのまま見捨てても置けず、手を貸すことにした。いつだって酔っ払いにいらぬお節介を焼くのはまちがいだ。たとえ、そいつが知り合いで、好かれていたとしても、敵意を剥き出しにして突っかかってくるのが酔っ払いだ。私は彼の脇の下に手を入れ、立ち上がらせることにした。

「どうもご親切にありがとうございます」彼は丁寧に礼を言った。
 
女は運転席に身をすべらせた。「この人ったら酔っぱらうと、すっかり英国人気取りなの」女の声はまるでステンレス・スティールのようだった。「世話をかけるわね」

「後ろの席に乗せよう」私は言った。

「ほんとにごめんなさい。約束に遅れてるの」クラッチが繋がれ、ロールスがすべり出した。「この人は迷い犬みたいなものなの」女は冷やかな笑みを浮かべながらつけ加えた。「家を見つけてあげてちょうだい。下のしつけはできてる――まあ、だいたいのところ」
 
やがてロールスは刻々とエントランスのドライブウェイを進み、サンセット・ブールヴァードに出ると、右に折れて何処へともなく走り去った。それを見送っているところへ駐車係が戻ってきた。私に抱えられたまま、今では男は眠りこけていた。

「ああいうやり方もあるんだなあ」私は白のお仕着せに話しかけた。

「当然さ」彼は皮肉っぽく言った。「あんな体をしてりゃ、酔っ払いの相手をしてる暇はないだろう」

「この男を知ってるか?」

「女はテリーと呼んでたな。どこの馬の骨だか、さっぱり見当もつかない。おれはここに来て、わずか二週間なんでね」

「車を出してきてくれないか?」私は駐車券を渡した。

彼が私のオールズを運んできたとき、私はまるで鉛の袋を抱えているような気分だった。白のお仕着せが助手席に乗せるのを手伝ってくれた。客は片眼を開けて我々に礼を言うと再び眠りこんだ。

「こんなに礼儀正しい酔っ払いは見たことがない」私は白のお仕着せに言った。

「酔っ払いというやつは大きさも格好も、物腰もいろいろだ」彼は言った。「けど、みんながみんなぐうたらだ。この人、整形手術をしてるね」
「ああ」一ドル札を出すと、彼は礼を言った。整形手術については彼の言う通りだった。我が新たな友の顔の右側は凍りついたように白っぽく、細い微かな縫合の痕があった。傷跡の近くの皮膚はてらてらしていた。整形手術というには、かなり手荒い仕事ぶりだ。

「この男をどうするつもりで?」

「家に連れて帰って、住所が訊き出せるくらいは酔いを醒まさせてやるよ」
 
白のお仕着せはにやっと笑った。「こりゃまた、ずいぶんとお人好しだね。おれなら側溝に放り込んでとっとと行っちまうがね。飲んだくれに関わっても、煩わされるだけで何の得にもならない。 こういうことについちゃ、おれにはひとつ哲学がある。 世知辛い世の中だ。わが身を守ろうと思ったらクリンチに逃げて、力を蓄えておかなきゃ」

「なるほど、そのせいでここまでのし上がってこれたわけだ」私は言った。彼は最初、訳が分からなかった様子で、それから怒り出したが、その頃には私の車は動き出していた。
 
もちろん男の言うことにも一理あった。 テリー・レノックスは私に多くの面倒をかけてくれた.。 しかし、結局のところ、面倒を引き受けるのが私の仕事だ。
 

その年、私はローレル・キャニオン地区のユッカ通りに住んでいた。小さな丘の中腹にある行き止まりになった通りに建つ家で、玄関までは長いセコイアの階段が続いていて、道路の向こう側にはユーカリの木立ちが生い茂っていた。家具付きで、家主の女性は、未亡人となった娘と暮らすためにしばらくの間、アイダホに行っていた。家賃が安かったのは、家主が急に戻りたくなったときには家を空ける約束になっていたことと、階段のせいもあった。彼女は家に帰るたびに段差と向き合うには年を取り過ぎていた。
 
私はやっとのことで酔っぱらいを運び上げた。彼は面倒をかけまいと努めたが、足はゴムのようで、詫びごとの言葉半ばで眠り込んでしまう有り様だった。私はドアの鍵を開け、彼を中に引きずり込み、長いカウチに寝かせ、上掛けをかけて眠らせてやった。彼は一時間ばかり、海豚のような鼾をかいていた。それから急に目が覚めて、トイレに行きたがった。 戻ってくると彼は私をじっと見詰め、目を細めて、自分がどこにいるのか知りたがった。 私は教えてやった。彼はテリー・レノックスと名乗り、ウエストウッドのアパートに住んでいて、待つ者は誰もいない、と言った。声は明瞭で、舌は縺れていなかった。
 
コーヒーを一杯、ブラックでもらえないか、と彼は言った.。 私がそれを持ってくると、カップの下にソーサーを添えて慎重にすすった。

「ぼくは、どうしてここにいるんだろう?」そう尋ねて、辺りを見回した。

「ザ・ダンサーズに停めたロールスの中で酔いつぶれてた。連れの女性に見捨てられたんだ」

「そうだった」彼は言った。「とはいえ、誰も彼女を責められない」

「きみは英国人か?」 

「住んではいたが、生まれはちがう。タクシーを呼んでくれたら、お暇できるんだが」

「よければ送るよ」
 
彼は階段をひとりで降りた。ウエストウッドへの道中、彼はあまり多くを語らなかった。ただ、親切にしていただいてありがとう、迷惑をかけて申し訳なかったと言う以外は。おそらく何度も何度も、たくさんの人にそう言ってきたのだろう。何となく決まり文句を唱えているようなところがあった。
 
彼のアパートは狭く、息苦しく、味気ないものだった。その日の午後に引っ越してきたみたいだった。頑丈そうな緑の大型ソファの前にコーヒーテーブルがあり、その上には、半分空になったスコッチのボトルと溶けた氷の入ったボウル、炭酸水の空瓶が三本とグラス二個、ガラスの灰皿は口紅つきの吸殻と口紅がついてない吸殻で埋まっていた。写真はおろか、身の回りの品ひとつなかった。出会いや別れのために、酒を酌み交わして話をするために、一夜をともにするために借りるホテルの部屋みたいだった。人が生活を営む場所には見えなかった。
 
酒を勧められたが、断った。腰もおろさなかった。帰り際、彼は重ねて礼を言った。お骨折りを頂き深謝、というほどではなかったが、口先ばかりの礼でもなかった。いささかふらふらしていて、少々恥じ入っているようだったが、とても礼儀正しかった。自動エレベーターが上がってきて、私がそれに乗り込むまで、彼は開いたドアの前に立っていた。無一物ではあるにせよ、行儀作法はしっかり身についていた。

女のことは二度と口にしなかった。職も将来もないことにも触れなかった。彼のほぼ最後の一ドルがザ・ダンサーズの支払いで消えたことも。それなのに、連れの高級で魅力的な女は、彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりしないよう、念のためしばらくつきあってやろうともしなかった。

エレベーターで降りながら、上に取って返して、彼からスコッチの瓶を取り上げたい衝動に駆られた。しかし、私には関係ないことだし、どうせ何の役にも立たない。酒飲みはいつだって、飲みたいとなれば、何としてでも手に入れる方法を見つけるものだ。
 
私は家まで車を走らせながら、いつの間にか唇を噛んでいた。私は感情に流されることなく生きるようにしている。だが、あの男には何か引っかかるものがあった。それが白い髪と傷のある顔、澄んだ声、礼儀正しさでないなら、何なのか知りようがない。それで充分だったのかもしれない。二度と会う理由はないのだ。彼はただの迷い犬だった。あの女が言ったように。 

【解説】

ディナージャケットの持つ意味

「眼を見ればひどく酔っぱらっているのはわかるが、それ以外の点では、客に大枚はたかせるためだけにある場所で、その期待に応えてきた、どこにでもいるディナージャケットを着た好青年のように見えた」のところ、原文では<You could tell by his eyes that he was plastered to the hairline, but otherwise he looked like any other nice young guy in a dinner jacket who had been spending too much money in a joint that exists for that purpose and for no other.>

清水訳は「眼つきで泥酔していることがわかるが、酒を飲んでいるというだけで、ほかにはとくに変わったところのないあたりまえの青年だった。金を使わせるために存在している店で金を使いすぎただけのことだった」と<in a dinner jacket>をスルーしている。後で説明するが、ディナージャケットは重要な細部なのだ。

村上訳は「泥酔していることは目を見れば明らかだが、それを別にすれば、ディナー・ジャケットに身を包んだ、当たり前に感じの良い青年の一人でしかない。人々に湯水のごとく金を使わせることを唯一の目的として作られた高級クラブに足を運び、そのとおり金を使ってきた人種だ」。旧訳が捨てて顧みなかったところを掬い取ろうという意気込みが伝わる訳だ。

さて、いよいよ田口訳である。「ディナージャケットを着たテリーの顔は若かった。が、髪はもう真っ白で、その眼を見れば、かなり酔っているのが分かった。それ以外はどこにでもいそうな、気のよさそうな若者だった。客に大金を使わせることだけが目的の店で、そういう店の目的に適(かな)う所業をこれまでに何度もしてきたことがうかがえる、そんな若者だった」

自在な訳しぶりだが一つ気になる点がある。当然テリー自身も着ているだろうが、<he looked like any other nice young guy in a dinner jacket>と、原文ではむしろ、ディナージャケットを着ているのは<any other nice young guy>の方である。つまり、ザ・ダンサーズという店は、夜会服を着ていなければ入れない、そういう店だということを言いたいためのディナージャケットだ。田口訳では、たまたまテリーがそういう服装だったというようにも読めてしまう。

<white coat>は「白のお仕着せ」

「駐車係はよくいるちょっといきがったタイプで、胸に赤い刺繡で店名を入れた白のお仕着せを着ていた」は<The attendant was the usual half-tough character in a white coat with the name of the restaurant stitched across the front of it in red>。<white coat>は「白衣、業務等において着用する主に白色または淡色の外衣」のことだが、「白衣」と訳すと紛らわしい。清水訳は「白い上衣」「白服」、村上訳は「白い上着」「白服」。「黒服」というのは聞いたことがあるが、「白服」という呼び方は普通にあるのだろうか? 田口訳の「白いコート」はちょっと首をひねる。この男は後々<white coat>と呼ばれることになるので、どう訳すかは大事なことになる。

<golfing money>とはどんな金

「ザ・ダンサーズは、散財が人格に及ぼす影響の見本のような人々が集まる店で、客に過剰な期待は抱いていなかった」は<At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.>

清水訳は「<ダンサーズ>では、金にものをいわせようとしても当てがはずれることがあるのだ」。村上訳は「金にものを言わせようとしても人品骨柄だけはいかんともしがたいことを人に教え、幻滅を与えるために、<ダンサーズ>は、この手の連中を雇い入れているのだ」。村上氏は<the sort of people>を従業員だと考えたため<that>以下を読み誤っている。

ここは片岡義男鴻巣友季子著『翻訳問答』のなかで問題にされていたところで、片岡によれば村上が「英文の構造を理解しないままに意味を取ろうとしているから」こうなるのだそうだ。因みに、片岡の訳では「ザ・ダンサーズの客はかねまわりの良さが人の性格をいかに歪めるかの見本のような人たちで、彼は店の客にはすでに充分に幻滅していた」となる。

田口訳は「遊びに大金をはたく人たちは人間的魅力にもあふれている、などという幻想をものの見事に打ち砕いてくれる人種が集まる店が、この<ダンサーズ>という店だ」。<golfing money>は「ゴルフなどの遊びに使う金」というような意味で新聞の見出しにも用いられているらしい。片岡訳と同じで、田口訳も一歩踏み込んだ訳になっている。たしかに、こうすればわかりやすくはなるだろう。だが、原文はそこまでは踏み込んでいない。

<speedster>は「2人乗りのオープンカー」

「車高の低い外国製の二人乗りオープンカーが駐車場に滑り込んできた」は<A low-swung foreign speedster with no top drifted into the parking lot>。清水訳は「トップがなく車体(ボディ)の低い外国製の高速車が駐車場にすべりこんできて」。村上訳は「車高の低い外国製のスポーツカーが、屋根を開けたまま駐車場に滑り込んできた」。田口訳は「そこへ車高の低い外国製のスポーツカーが幌をおろしたまま駐車場にすべり込んできた」。

時代的には、ポルシェ356 1500 アメリロードスターと思われるが、確かめるすべはない。ロールスロイスを陳腐と見る人間が乗る車なのだから、ライトウェイト・オープン2シーターと見てまちがいない。<speedster>は「2人乗りのオープンカー」のことだ。<with no top>なのだから、幌や屋根についてわざわざ触れず「オープンカー」でいいのではないか。

<low-income bracket>は「低所得層」

「駐車係は白髪の青年が自分に近い――低所得層であることを知った」は<The attendant had the white-haired boy right where he could reach him--in a low-income bracket>。清水訳は「駐車係は白髪の青年が自分と懐具合があまりちがわない男であることを知った」。村上訳は「駐車係はこの白髪の青年が、実は自分とさして変わらぬ境遇にあることを知った――逼迫した財政状態」。田口訳は「白髪の若い男が遠い存在ではなく、むしろ生活に困っている同類であることが駐車係にもわかったのだろう」。

三氏の訳では、駐車場係が青年が自分と同じ生活困窮者であることに気づいた、という解釈になる。まるで、同病相憐れむという感じだが、それはちがうのではないか。それまで駐車係はうんざりしながらも、相手が上客だと思って仕方なくつきあっていた。しかし、食うに困って車を売らねばならない男は、手の出せない階層ではなく<low-income bracket>(低所得層)にいることを知った。だから、それまで我慢していたことをあっさりやめて手を離したのだ。

<in the teeth>は「口に一発」ではない

「たとえ、そいつが知り合いで、好かれていたとしても、敵意を剥き出しにして突っかかってくるのが酔っ払いだ」は<Even if he knows and likes you he is always liable to haul off and poke you in the teeth>。清水訳は「よく知っている人間でも、腕力をふるって襲いかかってくるものだ」。簡略ではあるが要を得た訳だ。村上訳は「もし相手が知り合いであっても、あるいはまたこちらに好意を抱いていたとしても、そいつはわけもなくつかみかかってくるかもしれない。顎に一発叩き込まれるかもしれない」。

田口訳は「たとえ相手が知り合いでも、たとえそいつに好かれていても、いきなり殴りかかられ、口に一発食らわないともかぎらない」。村上訳と共通するのが「口に一発」としたところだ。おそらく両氏とも<in the teeth>を訳したつもりだろうが<in the teeth>は「面と向かって、おおっぴらに、公然と」という意味だ。<haul off>は「殴りかかるために後ろに腕をひく」ことで<poke>は「突く」こと。また<liable to>は、「かもしれない、〜ないともかぎらない」という意味ではなく、「人・物などが(欠点・性向として)〜しがちな、悪い傾向がある」という意味である。つまり、清水訳のままでよかったのだ。

<cow's caboose>をどう訳すか

「どこの馬の骨だか、さっぱり見当もつかない」は<Otherwise I don't know him from a cow's caboose>。清水訳は「そのほかにはなんにも知りません」と<from a cow's caboose>をスルーしている。村上訳は「それ以上のことは牛のけつ(傍点二字)ほども知らんですね」。田口訳は「それ以外はまるっきり知らない人だね」。<I don’t know him from “something”>というフレーズがあって、“something”の部分には何でもいいが馬鹿げた物が入るらしい。意味としては「彼をまったく知らない」だ。「牛の尻」を何とか生かしたくて「馬の骨」にしてみた。
「平身低頭」して礼を言うだろうか

「帰り際、彼は重ねて礼を言った。お骨折りを頂き深謝、というほどではなかったが、口先ばかりの礼でもなかった」は<When I left he thanked me some more, but not as if I had climbed a mountain for him, nor as if it was nothing at all>清水訳は「私が帰るとき、彼はまた礼を述べたが、私が彼のために大いにつくしたからというふうでもなく、言葉だけの挨拶でもなかった」。<a mountain to climb>は「大量のやるべきこと」という意味。彼の代わりに私がそれをした、ということだ。

村上訳は「帰り際に彼は重ねて礼を言ったが、私の取った労に対して平身低頭するでもなく、かといって口先だけで礼を言ってるのでもなかった」。田口訳は「辞去しかけると、彼はさらに礼を言った。平身低頭するほどでもなかったが、かといって口先だけの礼でもなかった」とほぼ村上訳を踏襲している。「平身低頭」は「ひたすら詫びる、畏れ入る」のような意味で使われる表現で、普通「礼を言う」ことには使わない。

<bit of high class>はどう訳されたか

「彼のほぼ最後の一ドルがザ・ダンサーズの支払いで消えたことも。それなのに、連れの高級で魅力的な女は、彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりしないよう、念のためしばらくつきあってやろうともしなかった」は<and that almost his last dollar had gone into paying the check at The Dancers for a bit of high class fluff that couldn't stick around long enough to make sure he didn't get tossed in the sneezer by some prowl car boys, or rolled by a tough hackie and dumped out in a vacant lot.>

ここは、松原氏の『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』でも言及されていたところで、清水訳は「最後の持ち金を<ダンサーズ>でわずかばかりのあやしげな高級酒にはたいてしまったことも口にしなかった。その高級酒というのは、警察の自動車につかまって豚箱にぶち込まれたり、もうろう(原文傍点つき)タクシーにひかれて空き地にすてておかれたりする心配がないほど永もちしない酒だった」

村上訳は「<ダンサーズ>みたいな高級な店で派手に金を使えば、自分にちっとは箔がついたような気持ちにさせられることはたしかだ。しかしそんな箔はあっという間にはげ落ちてしまう。パトカーの警官に見とがめられて留置場に放り込まれるか、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されるか、そのへんが関の山である」。問題の<bit of high class fluff>は、清水訳では「わずかばかりのあやしげな高級酒」、村上訳では「ちっとは箔がついたような気持ち」とされている。

田口訳は「さっきの高級な女のために<ダンサーズ>で払った金がほぼ最後の一ドルだったことについても。彼がパトロール警官に捕まってブタ箱に放り込まれても、あるいは荒っぽいタクシー運転手に身ぐるみ剥がされて空き地に放り出されても、あの女にはどうでもよかったのだろう」となっている。<bit of high class fluff>は「さっきの高級な女」つまり、テリーの元妻だという解釈だ。原文をよく読めば、これ以外には考えられない。<bit of fluff>は「魅力的な女、セックスの相手」を指す俗語。それに<high class>(高級な)を付け足すことでテリーの連れの女性を表したのだ。

<stick around>は、ロングマン現代英英辞典によれば<to stay in a place a little longer, waiting for something to happen>(物事が起こるのを待ちながら、ひとつの場所に少し長くとどまること)。<make sure>は「確認する」。そうすると<that>以下は「彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりされないかを確認できるだけの時間、ひとつところにとどまることができなかった」となる。そんなことができるのは、彼と同じ車で店にやってきた女しかいないのではないか。

『湖中の女』を訳す 41

<We were waved across the dam>は「ダムの向こうで手が振られた」

41

【訳文】

  ハイウェイを封鎖するため、パットンが何本か電話をかけ終えたとき、ピューマ湖ダムの警備に派遣されている軍曹から電話がかかってきた。我々は外に出てパットンの車に乗り込み、アンディは湖畔の道を恐ろしいスピードで走り、村を通り抜け、湖岸に沿って最後に大きなダムまで戻ってきた。ダムの向こうで手が振られた。本部の小屋脇に停めたジープで待機中の軍曹だった。
 軍曹は腕を振ってジープを発進させ、我々は彼について行った。ハイウェイを二、三百フィートほど行ったところで、数人の兵士が峡谷の端に立って下を覗き込んでいた。何台かの車がそこに止まり、兵士の近くに人だかりができていた。軍曹がジープから降り、パットンとアンディと私は公用車から降りて、軍曹のそばに行った。
「あの男は歩哨が止まれと言ったのに止まらなかった」軍曹が言った。声には苦いものが混じっていた。「歩哨は危うく道から落ちるところだった。橋の中央にいた歩哨はやっとのことで身をかわした。いちばん端にいた歩哨は避けるだけの時間があったので、止まるように命じたが、男は走り続けた」
 軍曹はガムを噛みながら谷底を見下ろした。
「こういう場合には発砲が命じられている」彼は言った。「歩哨は発砲した」彼は絶壁の端にあたる路肩を抉った跡を指差した。「ここから落ちたんだ」
 渓谷の百フィート下で、巨大な花崗岩の巨礫の脇腹にぶつかって小さなクーペがぺしゃんこになっていた。ほとんど仰向けになって少し傾いていた。下には男が三人いた。車を動かして何かを引っぱり出そうとしていた。かつては人間であった何かを。

【解説】

「ダムの向こうで手が振られた。本部の小屋脇に停めたジープで待機中の軍曹だった」は<We were waved across the dam where the sergeant was waiting in a jeep beside the headquarters hut>。田中訳は「番兵は手をふつてとおし、われわれは、監視本部の小屋のちかくでジープにのつてまつている班長のところにいそいだ」。清水訳は「私たちはダムを横切って、警備本部の建物のそばまで行った。軍曹がジープに乗って、私たちを待っていた」。両氏の訳では主語である<we>がダムを横切っている。

しかし、原文を読めば分かるように、この文は受動態で書かれている。両氏はそこを読み違えている。電話した相手が来たら話をしそうなものだが、軍曹は車から降りず、口もきいていない。両者の間には距離があるからだ。もう少し車で走らなければいけないのだから、軍曹はその労を省き、手を振ることでそれに代えた。村上訳は「ダムの向こう側にある監視所のわきに駐めたジープの中で待機していた軍曹が、手を大きく振って我々に合図をした」。

「ハイウェイを二、三百フィートほど行ったところで、数人の兵士が峡谷の端に立って下を覗き込んでいた」は<a couple of hundred feet along the highway to where a few soldiers stood on the edge of the canyon looking down>。田中訳は「ハイウェイを二百フィートばかりすすむと、崖つぷちに、二、三人の兵隊がたつて、下を見おろしていた」。清水訳は「街道に沿って二百フィートほど走り、数人の兵士が渓谷の縁で下をのぞいて立っているところまで行った」。

村上訳は「ハイウェイを百メートルばかり進み、数人の兵隊が渓谷の端に立って下を覗き込んでいるところまで行った」。<a couple of>をどう訳すか、という問題。旧訳のお二人は「二」を、村上氏は「三」を採用したのだろう。村上訳のようにメートル法で書くと日本語にした場合、「六十メートル」というのは、あまり納まりのいい数字とはいえない。そこで<a couple of>(2〜3)の後者と考え、約「百メートル」としたわけだ。

「渓谷の百フィート下で」は<A hundred feet down in the canyon >。田中訳は「二百フィートほど下の谷底で」となっている。さっきの二百フィートに引きずられたのだろう。清水訳は「百フィート下の谷底に」。村上訳は、さっきの大ざっぱな換算とは異なり、今度は「三十メートルばかり下で」と細かく刻んでいる。

やけにあっけない幕切れである。『湖中の女』は、最後の謎解きの場面で、関係者一同が集まり、探偵役が長広舌をふるって真犯人を暴くという謎解きミステリのスタイルを踏襲した、ハードボイルドらしからぬ作風になっている。作品の中を流れる時間は、それまでの長篇と比べれば極端に短い。その割に移動距離が長いのは、もともと別の作品だったものを作り変えて一本の長篇にしたからだ。

田口俊樹氏による新訳が出て、久しぶりに『長い別れ』を読み返したが、『湖中の女』のマーロウとは、ずいぶん感じがちがう。『長い別れ』のマーロウはハードボイルドのヒーローにしてはやや感傷的で熱くなりすぎている。その点『湖中の女』のマーロウはクールで、他者との間に距離を置いている。作者は、この作品を仕上げるのに時間がかかったことを体調や戦争のせいにしているが、仕上げに手こずったことで、作品との間に距離感が生まれたのだろう。そのことが作品に村上氏のいうデタッチメントの雰囲気を与えている。

『湖中の女』を訳す 40

<give me a break>は「勘弁しろよ」

40

【訳文】

デガーモは壁から離れて背筋を伸ばし、うすら寒い笑みを浮かべた。右手がさっと鮮やかに動き、銃を握っていた。手首をゆるめていたので、銃口は目の前の床を指した。 彼は私を見ないで私に話しかけた。
「お前は銃を持っちゃいない」彼は言った。「パットンは一挺持ってるが、俺を仕留めるほど早くは抜けまい。その最後の推測を裏付ける証拠が少しはあるのか。それとも、お前が頭を悩ますほどの値打ちはないのか?」
「証拠なら少しある」私は言った。「そう多くはない。しかし増えつつある。グラナダのあの緑のカーテンの向こうに、誰かが三十分以上物音ひとつ立てずに立っていた。張り込みに馴れた警官にしかできない芸当だ。そいつはブラックジャックを持っていた。そいつは私の後頭部を見なくても、ブラックジャックで殴られていることが分かっていた。ショーティにそう言ったのを覚えているか? そいつは死んだ女がブラックジャックで殴られていることも知っていた。しかし、遺体をじっくり調べる時間はなかったから、分かるわけがない。そいつは女の服を剝ぎ、体に引っ掻き傷を残した。自分をささやかな私的地獄に落としてくれた女に、君のような男が抱くサディスティックな憎しみからだ。そいつの爪の下には、今も化学検査ができるだけの血と表皮が残されている。君は右手の爪をパットンに見せたくないだろう、デガーモ?」
 デガーモは銃を少し持ち上げ、微笑んだ。大きく開いた口から白い歯を覗かせた微笑だ。
「それで、いったい俺はどうやって、あいつの居場所を知ったんだ?」彼は訊いた。
「アルモアが彼女を見たのさ。レイヴァリーの家を出るか、入るかする時に。それで神経質になった彼は私がうろついているのを見て、君を電話で呼び出した。どうやって彼女のアパートメントまで後を尾けたのかは知らない。たいして難しいことじゃないだろう。アルモアの家に隠れて彼女を尾行することもできたし、レイヴァリーを尾行することもできた。どれもみな刑事のルーティン・ワークだ」
 デガーモは黙ってしばらく静かに立って考えていた。表情は険しかったが、メタリック・ブルーの眼には面白がっているような光さえあった。もはや取り返しがつかない災厄に、部屋は暑く、重くなっていた。彼は私たちの誰よりもそれを感じていないようだった。
「俺はここを出て行くよ」彼はやっと言った。「そう遠くまではいけないかもしれないが、田舎のお巡りなんかに捕まるわけにはいかない。何か文句はあるか?」
 パットンは静かに言った。「そうはいかんよ、若いの。承知の通り、私はあんたを連行しないといけない。 何の証拠もないが、そのまま出て行かせるわけにはいかない」
「立派な腹をしてるが、パットン。俺は銃の腕がたつ。どうするつもりだ?」
「考えてるところだ」パットンはそう言って帽子を後ろに押しやって髪をくしゃくしゃにした。「まだ思い浮かばん。腹に穴を開けられたくはないが、自分の縄張りでコケにされるわけにもいかん」
「行かせればいい」私は言った。「この山からは出られない。だからここへ連れて来たんだ」
 パットンはまじめに言った。「誰かが彼を捕まえようとして、怪我をするかもしれない。それはまずい。誰かというなら、私でなければならない」
 デガーモはにやりと笑った。「あんたはいいやつだなあ、パットン」彼は言った。「ほら、銃を脇に戻して初めからやり直しだ。俺はそれで構わんよ」
 彼は銃を脇の下に隠した。 腕を垂らし、顎を少し前に突き出して見ていた。 パットンは活気のない目でデガーモの鮮やかな目を見ながら、静かに顎を動かしていた。
「こっちは座ってる」彼は不平をもらした。「あんたみたいに速くは抜けん。ただ臆病風に吹かれたと思われたくない」彼は悲しげに私を見た。「どうしてこんな面倒をここへ持ち込んだりしたんだ? 私の手を煩わせることでもないのに。おかげでこんな窮地に陥っている」その声は傷つき、困惑し、少し弱弱しく聞こえた。
 デガーモは少し頭を後ろに反らして笑った。笑いながら右手がまた銃に伸びた。
 パットンが動くところは少しも見なかった。部屋は彼のコルト・フロンティアの轟音でどよめいた。
 デガーモの腕はまっすぐ横に伸び、重いスミス・アンド・ウェッソンは彼の手から弾き飛ばされ、背後の節くれだった松材の壁に叩きつけられた。彼は痺れた右手を振って、目に驚きの色を浮かべ、それを見下ろした。
 パットンはゆっくり立ち上がった。ゆっくり部屋を横切り、銃を椅子の下に蹴り飛ばした。彼は悲しげにデガーモを見た。デガーモは指の関節の血を吸っていた。
「勘弁しろよ」パットンは悲しそうに言った。「私みたいな古狸につけ入る隙を与えちゃいかん。こっちはあんたが生まれるずっと前から、銃をいじってきてるんだ。若いの」
 デガーモはうなずいて背筋を伸ばし、ドアのほうに歩き始めた。
「止すんだ」パットンは穏やかに言った。
 デガーモは止まらなかった。ドアに手をかけ、網戸を押した。彼はパットンを振り返ったが、その顔は蒼ざめていた。
「俺はここを出て行く」彼は言った。「止める方法はひとつだけだぜ、あばよ、太っちょ」
 パットンは身動き一つしなかった。
 デガーモはドアを通り抜けて出て行った。ポーチの上に重い足音が響き、やがてそれは階段の上で響いた。私は正面の窓際に行き、外を眺めた。パットンはそれでも動かなかった。デガーモは階段を下り切り、小さなダムの上を渡り始めていた。
「ダムを横切るつもりだ」私は言った。「アンディは銃を持ってるのか?」
「持っていても使うとは思えん」パットンは穏やかに言った「銃を使う理由が見あたらん」
「まいったな」私は言った。
 パットンは溜め息をついた。「あんな風に私に譲歩すべきじゃなかった」彼は言った。「私を完全に支配下に置いていたんだからな。こっちもお返しをしてやらんといかん。わずかの間さ。それで彼がいい目を見ることはないだろう」
「彼は人殺しだ」私は言った。
「根っからの人殺しってわけじゃない」パットンは言った。「車はロックしたのか?」
 私はうなずいた。「ダムの向こう岸からアンディがこちらにやってくる」私は言った。「デガーモが彼を止めて、何やら話しかけている」
「アンディの車をとる気かもしれない」パットンは悲しそうに言った。
「まいったな」私はまた言った。キングズリーの方を見た。彼は頭を抱えて床を見つめていた。私は窓を振り返った。デガーモは丘の向こうに姿を消していた。アンディはダムを半分ほど横切ったところにいて、時々肩越しに振り返りながら、ゆっくりこちらにやってくる。遠くでエンジンがかかる音がした。アンディが小屋を見上げ、それから振り返って、ダム沿いに駆け戻った。
 エンジン音が消えていった。すっかり聞こえなくなったとき、パットンは言った。「さて、そろそろ事務所に戻って電話でもするか」
 キングズリーが突然立ち上がり、台所に行き、ウィスキーのボトルを手にして戻ってきた。彼はグラスにたっぷり注いで立ったまま飲んだ。そして、ウィスキーに手を振って別れを告げ、重い脚を引きずるようにして部屋を出て行った。ベッドのスプリングが軋む音がした。パットンと私は静かに小屋を出た。

【解説】

「勘弁しろよ」は<You give me a break>。田中訳は「油断したのがいけなかつたんだ」。清水訳は「お前さんは私に機会を与えてくれた」。村上訳は「あんたはわたしに余裕を与えた」。<give me a break>は、日常的によく用いられるフレーズで、相手や自分に譲歩を与える場合、不快な出来事にうんざりした場合、信じられない状況に驚いた場合に、「勘弁して」、「いい加減にして」、「よく言うよ」などの意味で用いる。この場合は、自分を赦せと言っている。あれほど、自信のなさそうな素振りをしておいて、相手より早撃ちをして見せたわけだから。

「私みたいな古狸につけ入る隙を与えちゃいかん」は<You hadn't ought ever to give a man like me a break>。同じフレーズが繰り返されるが意味が変わる、チャンドラーお得意のスタイル。田中訳は「わしみたいな男に、ほんのちょつとでもチャンスをくれるのはまずい」。清水訳は「私のような人間に機会を与えちゃいけない」。村上訳は「わたしのような男には余裕を与えるべきじゃないんだ」。

「私を完全に支配下に置いていたんだからな。こっちもお返しをしてやらんといかん。わずかの間さ。それで彼がいい目を見ることはないだろう」は<Had me cold. I got to give it back to him. Kind of puny too. Won't do him a lot of good>。田中訳は「でなかつたら、わしは死んでるところだ。だから、わしのほうもお返しをしなきやいかん。たいしたお返しでもないがね。あの男も、そう遠くまではいけまい」。

<had 〜 cold>は「~(人)を思いのままにする、さんざんやっつける」という意味。清水訳は「彼は私をきめ(傍点二字)つけた。お返しをしなきゃならなかった。後味(あとあじ)がよくない。あの男にとってもいいことじゃなかった」。村上訳は「わたしを好きに料理できたのだから。だからこちらも彼にチャンスを与えなくてはならない。取るに足らないことでもあるし、本人の身のためにはならないにしても」。村上氏は、この「だから」の重なりが気にならないのかしら。

 

『湖中の女』を訳す 第三十九章

<need ~ing>は「受け身」で訳さなければいけない

39

【訳文】

 また別の重苦しい沈黙が訪れた。パットンがその注意深くゆっくりした口調で沈黙を破った。「それはいささか乱暴な言い方だと思わんかね。ビル・チェスは自分の妻の見分けぐらいつくだろう?」
 私は言った。「ひと月も水の中に浸かっていたんだ。それに、妻の服と妻のアクセサリーを着けている。妻の髪のような金髪は水に濡れ、顔はほとんど見分けがつかなかった。どうして彼がそれを疑ったりするんだ? 彼女は遺書とも読める書き置きを残していた。彼女は姿を消した。二人は喧嘩をしていた。彼女の服と車がなくなっていた。彼女が姿を消してからひと月あまり、何の音沙汰もなかった。彼女の行き先に心当たりはなかった。そして、やっとミュリエルの服を着た遺体が上がってきた。妻と同じサイズの金髪の女性だ。もちろん二人には違いがあるだろうし、もしや他人では、という疑いを抱いたなら、違いを見つけて確認したはずだ。しかし、そうした疑いを抱かせそうなものは何もなかった。クリスタル・キングズリーはまだ生きていた。彼女はレイヴァリーと駆け落ちしていた。彼女は車をサン・バーナディーノに乗り捨て、エルパソから夫に電報を打っている。ビル・チェスにしてみたら、彼女とのことはとうに終わっていた。彼女のことなど考えもしなかった。彼にとっては何の関わりもない女だったんだ。当たり前だろう?」
 パットンは言った。「それについては自分で思い至るべきだった。だが、もし思いついたとしても、すぐに捨ててしまうような考えだ。あまりにありそうもない話に思えてな」
「見かけはそうだ」私は言った。「しかし、見かけだけのことだ。 遺体が一年間湖から上がってこなかった、あるいはまったく上がらなかったとしよう。湖を浚わなければ見つからなかったかもしれない。ミュリエル・チェスが消えても、誰も彼女を探すために多くの時間を割こうとしなかった。我々は二度と彼女の消息を聞くことはなかったかもしれない。ミセス・キングズリーの場合はそうはいかない。彼女には金とコネクション、そして心配してくれる夫がいた。彼女は結局そうなったように捜索されただろう。しかし、何らかの疑惑が持たれなければ、捜査はすぐには始まらない。何かが見つかるまでには数ヶ月かかったかもしれない。湖は浚われたかもしれないが、彼女の足跡を調べ、実際には湖を出てサンバーナーディーノまで山を下り、そこから東へ列車で行ったことが分かったなら、湖を浚うようなことはなかっただろう。たとえ遺体が発見されたとしても、遺体が正しく確認されない可能性の方が高い。ビル・チェスは妻の殺人で逮捕された。彼は有罪になったかもしれない。そして湖の死体に関する限り、それで終わりだっただろう。クリスタル・キングズリーはまだ行方不明で、未解決の謎のままだっただろう。やがて、彼女の身に何かが起こり、もう生きていないのだと思われるようになる。だが、どこで何が起きたのか誰にも分からない。もし、レイヴァリーがいなかったら、我々はここでこうして話し合ってはいなかった。レイヴァリーがすべてのできごとの鍵だったんだ。彼はクリスタル・キングズリーがここを出たとされる夜、サン・バーナディーノのプレスコットホテルにいた。彼はそこで一人の女を見た。その女はクリスタル・キングズリーの車に乗り、クリスタル・キングズリーの服を着ていた。もちろん、彼はその女が誰であるか知っていた。しかし、彼は何かがおかしいと気づかなくてよかった。女がクリスタル・キングズリーの服を着ていることも、その女がクリスタル・キングズリーの車をホテルのガレージに入れたことも知らなくてよかった。ミュリエル・チェスに会ったことだけ知っていればよかったのだ。後はミュリエルがうまくやった」
 私はそこで話をやめ、誰かが何か言うのを待った。誰も口をきかなかった。パットンはどっしりと椅子に座り、肉づきのいい毛のない両手を腹の上で気持ちよさそうに組んでいた。キングズリーは、頭を椅子の背にもたせ、目は半ば閉じ、動かなかった。デガーモは暖炉のそばの壁に寄りかかり、張りつめた顔は青ざめて無表情だ。タフな大男はむっつり黙り込み、その考えを心中深く隠していた。
 私は話を続けた。
「もし、ミュリエル・チェスがクリスタル・キングズリーに成りすましているのなら、彼女を殺したにちがいない。至って初歩的なことだ。それでは、考えてみよう。我々は彼女がどんな女だったかを知っている。彼女はビル・チェスと結婚する前にすでに人を殺している。彼女はアルモア医師の診療所の看護師で彼といい仲だったが、アルモアが彼女をかばわなければならないほど巧妙な方法でアルモア博士の妻を殺害した。そして、かつて彼女はベイ・シティー警察の男と結婚していたが、その男もまた彼女をかばって殺人を見逃すようなカモだった。彼女はそんなふうに男たちを思い通りに動かすことができた。男たちは、まるでサーカスのライオンみたいに、跳んで輪をくぐる。長いつき合いではなかったので、どうしてそうなるのかは分からないが、彼女の経歴がそれを証明している。レイヴァリーにやったことがその証拠だ。彼女は自分の邪魔をする者を片端から殺していった。キングズリーの妻も邪魔者の一人だった。こんなことを話すつもりはなかったんだが、今となってはたいしたことじゃない。クリスタル・キングズリーもまた少々、男たちに輪くぐりさせることができた。彼女はビル・チェスを跳び込ませたが、ビル・チェスの妻はそれを笑って見過ごすような女ではなかった.。それに、彼女はここでの生活に心底うんざりして、逃げ出したいと思っていたに違いない。しかし、それには先立つものが必要だ。アルモアからせびろうとしたら、デガーモが彼女を探しにやって来た。それで彼女は少し怖くなった。デガーモは何をしでかすか分からない男だ。彼女が彼を心から信用できずにいたとしても仕方がない。そうだろう、デガーモ?」
 デガーモは床の上で足を動かした。「足もとの砂がどんどん下にこぼれ落ちている」彼はにこりともしないで言った。「立っていられるうちにしゃべられるだけしゃべることだ」
「ミルドレッドはクリスタル・キングズリーの車や服や身分証明書やらが特に必要ではなかったが、あれば役に立つ。彼女が持っていた金は大いに役立ったことだろう。キングズリーの話では、彼女は大金を持ち歩くのが好きだった。また、彼女の宝石はいずれ金に換えることができた。このようなことから、彼女を殺すことは理にかなっており、かつ好都合だった。これで動機は片づいた。次は手段と機会についてだ」
「機会は、お誂え向きにやってきた。彼女はビルと喧嘩し、ビルは飲みに出かけた。彼女はビルが酔っぱらうとどれくらい家を留守にするかを知っていた。時間が必要だった。時間が何よりも重要だった。彼女は時間があることを前提としなければならなかった。さもなければすべてのことが崩れ去る。彼女は自分の服を自分の車でクーン湖まで持って行き、そこに隠さなければならなかった。なぜなら、服と車があってはいけなかったからだ。彼女は歩いて帰らねばならなかった。クリスタル・キングズリーを殺し、ミリュエルの服を着せ、湖に沈めなければいけなかった。すべて時間がかかった。殺人そのものについては、酔わせたか、頭を殴って、この小屋のバスタブで溺死させたと考えられる。それが論理的であり、単純でもある。彼女は看護師で死体をどう取り扱えばいいか心得ている。彼女は泳ぎが得意だった。ビルから彼女は泳ぎが上手だったと聞いている。溺死体は沈むものだ。彼女がすべきことは、それを自分の望む深さの水中へと導くことだった。この中に泳ぎが上手い女にできないことは何ひとつない。彼女はそれをやり、クリスタル・キングズリーの服を着て、他に欲しいものを詰め込み、クリスタル・キングズリーの車に乗り込んで出発した。そして、サン・バーナーディーノで思わぬ障害に初めてぶつかった。レイヴァリーだ。
 レイヴァリーは彼女がミュリエル・チェスだと知っていた。彼が彼女を他の誰かとして知っていたとする証拠も理由もない。彼はここで彼女を見かけたことがあり、彼女に会ったときもまたここに来る途中だったのだろう。彼女はそうさせたくなかった。彼が見つけるのは鍵のかかった小屋だけだろうが、ビルと話をするかもしれない。彼女がリトル・フォーン湖を出たことをビルに絶対知られないようにするのが彼女の計画の一部だった。死体が発見された時に身元を確認させるためだ。だから彼女はすぐにレイヴァリーを引っ張り込んだ。それほど難しいことではないだろう。レイヴァリーについて確かなことが一つあるとすれば、彼は女に手を出さずにいられなかったということだ。多ければ多いほどいい。ミルドレッド・ハヴィランドのような目端の利く女にとって、彼を手玉に取ることなど容易いことだったろう。そこで彼女は彼を口説いて一緒に連れ出した。エルパソに連れて行き、彼に気づかれることなく電報を打った。最後に彼女は彼をベイ・シティに連れ帰った。 おそらくどうしようもなかったのだろう。彼は家に帰りたがり、彼女は彼から眼を離すわけにはいかなかった。彼女にとって彼は命取りだったからだ。レイヴァリーだけが、クリスタル・キングズリーが実際にリトル・フォーン湖を去ったという工作をぶち壊すことができた。いずれクリスタル・キングズリーの捜索が始まれば、レイヴァリーにも捜査の手が伸びるに決まってる。そうなれば、レイヴァリーの命など一文の価値もない。私がそうだったように、事件に関与していないという彼の否定は初めは信じてもらえないかもしれない。だが、あらいざらいぶちまければ、信じてもらえるだろう。調べれば分かることだからだ。捜索が始まるや否や、レイヴァリーは浴室で射殺された。私が話を聞きに行ったまさにその夜に。それがことのあらましだ。翌朝、彼女が家に戻った理由を除けばね。殺人犯がやりそうな、よくあることだ。彼女は彼に金をとられたからだと言ったが、私は信じない。それより、彼がどこかに金を隠していると考えたか、冷静な頭で仕事ぶりを検討して、すべてが整然と正しい方向を指していることを確認した方がいいと思ったか、あるいは、彼女が言ったように、新聞と牛乳を取り込むためだったかもしれない。どれもあてはまる。彼女は戻ってきて、私に見つかった。そこでひと芝居打って、私はまんまと引っかかったというわけだ」
 パットンは言った。「誰があの女を殺したんだ、若いの? キングズリーには似つかわしくない仕事だろう」
 私はキングズリーを見てから言った。「彼女と電話で話さなかった、とあなたは言った。 ミス・フロムセットはどうですか?  彼女は奥さんと話していると思ったのですか?」
 キングズリーは頭を振った。「そうは思わない。 そんなに簡単に騙されるような女性じゃない。 彼女が言ったのは、ひどく声が変わって沈んでいるようだということだけだった。その時は何の疑いも持たなかった。ここに来るまで疑いもしなかった。昨夜この小屋に入ったとき、何かおかしいと感じたんだ。あまりに清潔できちんとしている。クリスタルなら、ここを出て行くとき片づけたりしない。寝室には服が、家中には煙草の吸殻が、台所には瓶やグラスが散らかっているはずだ。洗っていない食器には蟻や蠅がたかっていただろう。ビルの奥さんが掃除したのかもしれないと思ったが、ビルの奥さんにはできなかっただろう、あの特別な日には。ビルと喧嘩して、殺されたのか、自殺したのか、どっちにしてもそんなことをしている暇はなかったはずだ。あれこれ考えてはみたが、こんがらがっていて、何も見つけられていない」
 パットンは椅子から立ち上がりポーチに出た。彼はタン・カラーのハンカチで唇を拭きながら戻ってきた。再び座ったが、右腰に銃のホルスターがあるので、左の尻を椅子に落ち着けた。そして、考え深げにデガーモを見た。デガーモは壁にもたれて、からだを硬くして、身じろぎもせず、石像のように立っていた。右手はだらりと下げたままで指は内側に曲げられていた。
 パットンが言った。「誰がミュリエルを殺したかをまだ聞いてない。それもショーの一部なのか、それともまだ解明されていないのか?」
 私は言った。「彼女は殺されなければならないと思った男、彼女を愛しながら憎んでいた男、 これ以上彼女が人を殺して逃げ続けるのを放っておけない程度には警官であり、彼女を逮捕して全容を明らかにするほどには警官になり切れなかった男。デガーモみたいな男だ」

【解説】

「どうして彼がそれを疑ったりするんだ?」は<Why would he even have a doubt about it?>。田中訳は「ビル・チェスが疑いをもつほうがおかしい」。清水訳は「なぜ彼が疑いもしなかったのか?」。村上訳は「なぜ彼はそのことに疑問を露ほども抱かなかったか?」。この場合の<why would>は「いったいなぜ(そんなことをするわけ?)」という意味だ。清水、村上訳のように考えるなら<why does he>となる。

「彼にとっては何の関わりもない女だったんだ」は<She didn't enter the picture anywhere for him>。田中訳は「そんなことはほんのちょつとも、頭にはうかばなかつたにちがいない」。清水訳は「彼にとって、夫人はまったく登場しない人物なのだった」。村上訳は「彼の視野のどこにも、もう彼女の姿は入ってこなかった」。<enter the picture>は「登場する、姿を見せる」という意味もあるが「(事態に)関わる」という意味もある。

「足もとの砂がどんどん下にこぼれ落ちている」は<The sands are running against you, fellow>。田中訳は「足もとの砂は、どんどんくずれていつてる」(ドガーモはむつつりした顔でいつた)。清水訳は「お前さんだっていつまでも事がうまく運ぶと思ってたらまちがいだよ」(と、彼はおどかすように言った)。村上訳は「おまえさん、このままで済むと思うなよ」(と凄みをきかせて言った)。<sands are running (out)>は「(砂時計の)砂が尽きようとしている」つまり、「残り時間が少なくなる」ということだ。デガーモは脅しているのではない。最後の時が来たと分かっているのだ。

「彼女は殺されなければならないと思った男」は<Somebody who thought she needed killing>。田中訳は「ミルドレッド・ハヴィランドを生かしてはおけないとおもつた者」。清水訳は「犯人はミュリエルは殺されなければならぬと考えた男が殺したんだ」。村上訳は「殺人が彼女の習性になっていると思った誰かです」。

村上訳だけが異なっているが、<need ~ing>は受け身で訳さなければいけない、という約束を村上氏が知らなかったのだろう。普通は<need>の前には「人」ではなく「物」がくる。当の女性が死んでいるので「物」扱いになっているのだろう。また、<she>を田中訳は「ミルドレッド」清水訳は「ミュリエル」としているが、マーロウはパットンに答えている格好で、実はデガーモにも聞かせている。ここでは「彼女」としておくのが順当だろう。

『湖中の女』を訳す 第三十八章

<as drunk as a skunk>は「ひどく酔っぱらっている」

38

【訳文】

 キングズリーはぴくっとからだを震わせ、目を開き、頭を動かさずに目だけ動かした。パットンを見、デガーモを見、最後に私を見た。その目はどんよりしていたが、その中で光が鋭くなった。椅子にゆっくり座り直し、両手で顔の両側をごしごしこすった。
「眠っていた」彼は言った。「二時間ほど前に寝てしまった。ぐでんぐでんに酔っ払ったんだと思う。とにかく、こんなに酔っ払うつもりはなかったんだ」彼は両手をだらんと垂らし、そのままにした。
 パットンが言った。「こちらはベイ・シティ署のデガーモ警部補。あなたに話があるそうだ」
 キングズリーはデガーモをちらりと見て、それから視線を巡らし、じっと私を見た。再び口をきいたときの声は酔いが醒めて、静かで、死ぬほど疲れているように聞こえた。
「つまり、君が彼女を警察に逮捕させたのか?」彼は言った。
私は言った。「そうするつもりだったが、しなかった」
 キングズリーはデガーモを見ながらそれについて考えていた。パットンは玄関のドアを開けっ放しにしていた。そして、正面の二つの窓の茶色のベネチアン・ブラインドを引き上げ、窓を引き上げた。それから近くにある椅子に腰を下ろし、腹の上で両手を組み合わせた。デガーモはキングズリーを見下ろし、睨みを利かせるように立っていた。
「あんたの奥さんは死んだよ、キングズリー」彼は容赦なく言った。「もし、まだ耳にしていなかったらだがね」
 キングズリーは彼を見つめ、唇を湿らせた。
「いやにのんびり構えてるじゃないか?」デガーモは言った。「スカーフを見せてやれよ」
 私は緑と黄色のスカーフを取り出し、目の前にぶら下げた。デガーモは親指を突き出した。「あんたのか?」
 キングズリーはうなずいた。そして、もう一度唇を湿らせた。
 「これを残しておいたのが迂闊だったな」デガーモは言った。少し息が荒かった。鼻がすぼまり、鼻の穴から口の端まで深い皺が刻まれていた。
 キングズリーはとても静かに言った。「それを私がどこに残してきたって?」彼はスカーフをちらりと見ただけだ。私のことは見もしなかった。
「ベイ・シティ、八番通り、グラナダ・アパートメント。六一八号室。覚えがあるか?」
 キングズリーは今度はとてもゆっくりと目を上げ私と目を合わせた。「彼女はそこにいたのか?」彼は小声で訊いた。
 私はうなずいた。「彼女は私がそこに行くのを嫌がった。こちらとしては金を渡す前に話が聞きたかった。彼女はレイヴァリーを殺したことを認めた。銃を取り出し、同じように私も片づけようとした。その時、誰かがカーテンの陰から出てきて私を殴り倒した。姿は見ていない。気がつくと彼女は死んでいた」私は、彼女がどのようにして死んだか、どんな様子だったかを話した。自分が何をし、何をされたのかを話した。
 彼は顔の筋肉ひとつ動かさずに聞いていた。私が話し終えると、彼はスカーフに向かって曖昧な身ぶりをした。
「それとどういう関係があるんだ?」
「警部補は、これがあなたがアパートの中に隠れていたという証拠だと考えている」
 キングズリーはそれについて考え込んだ。彼はなかなかその意味を理解できないようだった。彼は椅子にもたれかかり、背もたれに頭を預けた。「続けてくれ 」ようやく彼は言った。「君は何について話しているのかよく知っていそうだ。私には見当もつかない」
 デガーモは言った。「せいぜいとぼけてればいいさ。すぐに分かることだ。まずは、昨夜あのがみがみ屋をアパートに送ったあと、どうしたかの説明から始めてもらおうか」
 キングズリーは平静に言った。「ミス・フロムセットのことを言っているのなら、私は送っていない。彼女はタクシーで帰ったんだ。自分も帰ろうと思ったが、帰らなかった。代わりにここに来たんだ。ひと走りして、夜の空気と静けさに触れたら、けりをつけられるかもしれないと思ったからだ」
「そのことなんだが」デガーモは人を小馬鹿にするように言った。「もし差し支えなければ、何にけりをつけるのか教えて頂けるかな?」
「これまで抱えてきたすべての心配事にけりをつけようとしたんだ」
「おやおや」デガーモは言った。「奥さんの首を絞めたり、腹に爪痕を残したりするような些細なことで、そんなに心配することはないだろう?」
「若いの、そんなことを言うもんじゃない」パットンが後ろから声をかけた。「そんな言い種があるもんか。あんたはまだ証拠らしきものを何も提示しておらん」
「提示してない?」デガーモはそのいかつい頭を彼の方に振った。「このスカーフはどうなんだ、太っちょ? これは証拠じゃないのか?」
「スカーフは何の証拠にもならんよ。あんたの話を聞いた限りでは」パットンは穏やかに言った。 「それに、私は太っているんじゃない。ただ、肉づきがいいだけだ」
  デガーモはうんざりしたように彼に背を向け、キングズリーに指を突きつけた。
「ベイ・シティには、全く行っていないというんだな?」彼はとげとげしく言った。
「ああ。なぜ私が行かなきゃならない? マーロウが対処していたのに。それから、何かというと君がスカーフを持ち出す意味が分からない。スカーフをしていたのはマーロウだ」
 デガーモは突っ立ったまま、頭から湯気を立てていた。それから、とてもゆっくりと振り向き、例の気が滅入る暗い怒りの眼差しで私を凝視した。
「どういうことだ」彼は言った。「さっぱりわけがわからん。誰か、俺のことを揶揄ってるんじゃないだろうな? たとえばお前みたいな誰かさんが?」
 私は言った。「スカーフのことなら、それがアパートの中にあって、今晩早いうちにキングズリーがそれをしているのを見た、と言ったまでのことだ。君が知りたいのはそれだけのようだったんでね。待ち合わせていた女が私を見つけやすいように、そのあとで自分もスカーフを巻いた、と言い添えることもできたかもしれない」
 デガーモはキングズリーから離れ、暖炉の端の壁に倚りかかった。左手の親指と人差し指で下唇を引っ張った。右手は脇腹にだらんと垂れ下がり、指がわずかに曲げられている。
 私は言った。「言ったはずだ。私はミセス・キングズリーについてはスナップ写真でしか見たことがない、と。どちらかがもう一方を特定できるようにしなければならなかった。スカーフは識別に役立つことはたしかだった。実は、会いに行った時は知らなかったのだが、以前に一度会ったことがある。しかし、すぐには気づかなかった」私はキングズリーの方を振り返った。「ミセス・フォールブロックですよ」私は言った。
「ミセス・フォールブロックはあの家の家主だと言ってたはずだが」彼はゆっくり応じた。
「彼女はあの時そう言い、私もその時はそれを信じた。疑う理由がありますか?」
 デガーモは喉を鳴らした。その眼に少し苛立ちが窺えた。私はミセス・フォールブロックのことを話した。紫の帽子と、落ち着かない態度、空になった銃を手にしていて、それを私に渡したときの様子を話した。
 私が話し終えると、彼はひどく注意深く言った。「俺は、お前がウェバーにそんなことを話したとは聞いていない」
「彼には話していない。三時間前にすでに家に入っていたと認めたくなかった。警察に通報する前に、キングズリーに相談しに行ったことをね」
「そういうところなんだよな、俺たちがあんたのことを好きになるのは」デガーモは冷やかな苦笑を浮かべて言った。「なんとまあ、すっかりかつがれてたってわけか。自分の殺しをごまかすためにこの探偵にいくら払ったんだ、キングズリー?」
「通常料金だよ」キングズリーは無雑作に言った。「それと、もし妻がレイヴァリーを殺していないことを証明できたなら、ボーナスとして五百ドルだ」
「生憎だったな。こいつはそれを儲けそこねたってわけだ」デガーモはせせら笑った。
「とんでもない」私は言った。「とっくに頂戴したよ」
 部屋には沈黙が降りた。今にも雷鳴が轟いて張り裂けてしまいそうな、ぴりぴりと電荷を帯びた沈黙だ。だが、そうはならなかった。沈黙は壁のように重くしっかりととどまっていた。 キングズリーは椅子の中で少し動き、しばらくしてから、こくりとうなずいた。
「誰よりも君がいちばんよく知ってるだろう、デガーモ」私は言った。
 パットンの顔は木切れのように無表情だった。静かにデガーモをじっと見守っていた。キングズリーには目もくれなかった。デガーモは私の両眼の間の一点を見ていたが、自分のいる部屋の中にあるものを見ているようには見えなかった。むしろ、遥か遠く、谷の向こうにある山でも見ているかのようだった。
 ずいぶん長く感じられたが、ようやくデガーモは静かに口を開いた。「わけが分からん。俺はキングズリーの妻のことは何も知らない。 俺の知る限りでは、昨夜まで彼女を見たことはなかった」
 彼は少し目蓋を下げて、私のことをぼんやりと見ていた。私が何を言おうとしているのか、彼は完全に知っていた。とにかく、私はそれを言った。
「昨晩、君は絶対に彼女を見てはいない。なぜなら、彼女はひと月も前に死んでいたからだ。彼女はリトル・フォーン湖に沈んでいた。君がグラナダ・アパートメントで見た死体はミルドレッド・ハヴィランド、そしてミルドレッド・ハヴィランドこそはミュリエル・チェスだ。ミセス・キングズリーはレイヴァリーが撃たれるずっと前に死んでいた。従ってミセス・キングズリーは彼を撃ってはいない」
 キングズリーは椅子のアームの上で拳を握りしめたが、音を立てなかった。ことりとも音を立てることはなかった。

【解説】

「ぐでんぐでんに酔っ払ったんだと思う」は<I was as drunk as a skunk, I guess>。田中訳は「とても酔っぱらつてたようだ」。清水訳は「スカンクみたいに酔っ払ってたらしい」。村上訳は「スカンクのように泥酔していた」。<as drunk as a skunk>は「ベロンベロンに、グデングデンに、ひどく、へべれけに、酔っぱらって」いることをいう俗語。清水、村上両氏のように「酔っ払う」「泥酔する」を使うなら、「スカンクのように」はいらない。逆に村上訳からは<I guess>(〜だと思う)が抜け落ちている。

「もし、まだ耳にしていなかったらだがね」は<If it's any news to you>。田中訳は「もし、まだ知らんのなら、おしえてやるが……」。清水訳は「べつに驚くことじゃないだろうがね」。村上訳は「ご存じなかったかもしれんが」。<news to ~>は「〜にとって初耳である」という意味。

「鼻がすぼまり」は<His nose was pinched>。田中訳は「鼻のさきがうごき」、清水訳は「鼻がひきつり」、村上訳は「その鼻はこわばり」としているが、<pinch>は「つまむ、はさむ、苦しめる」という意味で、「動く、ひきつる、こわばる」などの意味はない。<pinched nose>は「鼻閉」つまり「鼻づまり」のことだ。つまり、デガーモは慢性的に鼻づまりで、息が苦しく、鼻で息を吸い込もうとすると、小鼻がまるで見えない指で挟まれてている(was pinched)ようにすぼまるのだ。

「彼は小声で訊いた」は<he breathed>。田中訳は「キングズリイは、フッと息をついた」。清水訳は「彼はやっと聞こえるような声で言った」。村上訳は「彼はそう言って息を吐いた」。<breathe>には「ささやく、小声で話す」という意味がある。なぜスカーフがそこにあったのかを知らないキングズリーとしては、マーロウにそう尋ねるしかない。ここで、キングズリーが息をついたり、吐いたりする意味が分からない。

「まずは、昨夜あのがみがみ屋をアパートに送ったあと、どうしたかの説明から始めてもらおうか」は<You could begin by accounting for your time last night after you dropped your biddy at her apartment house>。田中訳は「さあ、あの女をアパートまで送つていつたあとのことを、くわしくいえ」。清水訳は「まず昨晩だ。あんたの女を女のアパートで降ろしてからのことを話してもらおうか」。村上訳は「あんたが昨夜、あのお姉ちゃんをアパートメント・ハウスまで送り届けてから、何をしたか、そのあたりから話をしてもらおうか」<biddy>は「めんどり、ひよこ、(特に年配の口やかましい)女」という意味。デガーモは、よほどミス・フロムセットの口のきき方が癪にさわったのだろう。

「デガーモは突っ立ったまま、頭から湯気を立てていた」は<Degarmo stood rooted and savage>。田中訳は「ドガーモは獰猛な顔をして、つつ立ったままだつた」。清水訳は「デガーモは恐い顔をして、足に根が生えたようにつっ立っていた」。村上訳は「デガルモは両脚を踏ん張るようにして荒々しくそこに立っていた」。<get savage with>は「かんかんに怒る」という意味。この後マーロウの方に向きなおるのだから、彼の表情は分からないはずだ。

「その眼に少し苛立ちが窺えた」は<His eyes were a little crazy>。田中訳は「その目が、すこしおかしなひかりかたをしてきた」。清水訳は「目の色が少々変わった」。村上訳は「彼の目は少しばかり血走っていた」。デガーモは、ミセス・フォールブルックのことを知らない。それで、マーロウに注意喚起するために喉を鳴らしたんだろう。<crazy>には「いらいらした、頭にきた」の意味がある。

「落ち着かない態度」は<fluttery manner>。田中訳は「大げさな口のきき方」。清水訳は「突拍子もないしぐさ(傍点三字)」。村上訳は「そのひらひらした身振り」。<fluttery>は「ひらひらする、はためく」の他にも「(人が)そわそわする、はらはらする」など、落ちつかない様子を表す意味がある。

『湖中の女』を訳す 第三十七章

<if that's what you mean>とあるからには、言外の意味があるはず

37

【訳文】

 標高五千フィートのクレストラインでは、まだ気温は上がりだしていなかった。我々はビールを求めて店に立ち寄った。車に戻ると、デガーモは脇の下のホルスターから銃を取り出して点検した。三八口径のスミス・アンド・ウェッソンを四四口径用のフレームに装着したあぶない武器で、反動は四五口径並みだが、有効射程ははるかに大きい。
「そいつはいらないよ 」私は言った。「大きくて力も強いが、タフなタイプじゃない」
 彼は銃を脇の下に戻してぶつぶつ言った。今ではふたりともあまりしゃべらなくなっていた。話すことがなくなっていたのだ。車はカーブの連続する道を走った。鋭く切り立った崖っぷちには白いガードレールが巡らされ、場所によっては野面石と重い鉄の鎖がそれに代わった。オークの巨木の間を通り抜け、オークがそれほど高くなく、松がどんどん高くなってゆく標高まで登った。そして、ようやくピューマ湖の端にあるダムに到着した。
 私が車を止めると、歩哨は素早く銃を背中から前に回して構え、車の窓に近づいてきた。
「ダムを渡る前に車の窓を全部閉めてください」
 私は手を伸ばして自分の側のリア・ウィンドウを閉めた。デガーモは盾を構えた。「いいんだよ。なあ、俺は警察官だ 」彼はいつもの調子で言った。
 歩哨は感情を一切入れずにじっと彼を見つめた。「窓を全部閉めてください」彼はさっきと同じ口調で言った。
「ばからしい」デガーモは言った。「聞いてられるか、この一兵卒が」
「これは命令です」歩哨は言った。かすかに彼の顎の筋肉が膨らんだ。鈍い灰色がかった目がデガーモを見つめていた。「私は命令に従ってるだけです。さあ、窓を閉めるんです」
「俺が湖に飛び込めと言ったらやるのか?」デガーモはあざ笑った。
 歩哨は言った。「やるかもしれませんよ。臆病な性格なんでね」彼はがさがさの手でライフルの銃尾をたたいた。
 デガーモはからだをひねって自分の側の窓を閉めた。車はダムを横切って走った。真ん中と向こうの端にも歩哨がいた。最初のやつが信号か何かを送ったにちがいない。 彼らは我々をよそよそしく油断のない目でじっと見つめた。
 積み重なった花崗岩の塊を通り過ぎ、雑草の茂る草地を抜けた。派手なスラックスとショートパンツと農民風ハンカチーフ、微風と黄金色の太陽と澄んだ青空、松葉の匂い、清涼で穏やかな山の夏。何ひとつ一昨日と変わるところがない。しかし、一昨日は百年も前のようで、時間の流れの中、まるで琥珀の中の蠅のように結晶化していた。
 リトル・フォーン湖に通じる道に車を入れ、巨大な岩を迂回して、小さな水音を立てる滝を通り過ぎた。キングズリーの敷地に入るゲートは開いていて、パットンの車が湖の方に向かう道に停まっていた。そこから湖は見えない。中には誰もいなかった。例のカードはフロントガラスの中にまだあった。「ジム・パットンに保安官を続けさせよう。仕事探しには年を食い過ぎてる」。
 そのすぐそばで、反対側を向いて停まっているのは、小さなおんぼろのクーペだ。クーペの中にライオン狩りの帽子。私はパットンの後ろに車をとめ、ロックして降りた。アンディはクーペから降りて無表情にこちらを見つめて立っていた。
 私は言った。「こちらはベイ・シティ署のデガーモ警部補だ」
 アンディは言った。「ジムは尾根を少し越えたところにいる。あんたを待ってる。まだ朝飯を食ってない」
 我々は尾根への道を上り、アンディはクーペの中に戻った。道は尾根の向こうで小さな青い湖に下っていた。向こう岸のキングズリーの小屋には人のいる気配がなかった。
「あれが湖だ」私は言った。
 デガーモは黙って湖を見下ろし、鈍重に肩をすくめた。「さあ、野郎をふん捕まえようぜ」彼が口にしたのはそれだけだ。
 歩いて行くとパットンが岩陰から立ち上がった。お馴染みのステットソンにカーキ色のズボン、シャツは分厚い首までボタンがかかっている。左胸の星はまだ先が一つ曲がっていた。顎がゆっくり、もぐもぐ動いた。
「またお会いしましたな」彼は私ではなくデガーモを見て言った。そして、手を出してデガーモのがっしりした手を握った。「警部補、この前お会いしたとき、あんたは別の名前を名乗っておられた。いうところの潜入捜査だったんだろう。こちらも公正な扱いをしたとはいえん。そのことは謝るよ。あんたの見せた写真が誰だったのかは分かってたんだ」
 デガーモは肯き、何も言わなかった。
「私が気を抜かずに公正な態度をとっておれば、こんな骨折りをせずにすんだかもしれん」パットンは言った。「ひと一人の命を救えたかもしれん。それについては少々後悔している。とはいえ、私は何につけ、いつまでもくよくよしている人間じゃない。ここに座って、これから何をすることになっているのか教えてくれんか?」
 デガーモが言った。「キングズリーの妻が昨夜、ベイ・シティで殺された。その件について彼と話す必要がある」
「つまり、彼を疑っているということかな?」パットンは尋ねた。
「大いにだ」デガーモはうなるように言った。
 パットンは首をこすり、湖の向こうを見た。「小屋の外には全く姿を見せない。眠りこんでいるようだ。朝早く小屋の周りをこっそり見て回った。その時はラジオが鳴っていて、瓶やグラスをいじくってるような音がした。それ以上は近づかなかった。これでいいかな?」
「今から行ってみよう」デガーモが言った。
「銃は持っているのか、警部補?」
 デガーモは左の脇の下をとんとん叩いた。パットンは私を見た。私は頭を振った。銃は持っていなかった。
「キングズリーも持っているかもしれんな」パットンは言った。「ここで早撃ちの披露は勘弁してほしいんだよ、警部補。銃撃戦なんてことになったら大騒ぎだ。このあたりはドンパチには向いていないんだ。あんたは銃を早く抜くことができる人のようだ」
「手が早いのは確かだ。あんたがそういう意味で言っているのならな」デガーモは言った。「だが、まずは、やつの話が聞いてみたい」
 パットンはデガーモを見て、私を見て、再びデガーモに視線を戻し、横をむいて噛み煙草の汁をたっぷりと吐いた。
「もっと話を聞かんことには、彼と交渉することもできんよ」彼は頑なに言い張った。
 それで、我々は地面に座り込み、経緯を話した。彼は瞬きもせず静かに聞いていた。話を聞き終わると、私に言った。「人のために働くにしては、あんたのやり方はおかしくないか。個人的には、あんたらは完全に誤解していると思う。行って見てこよう。私が先に入る。あんたらの言ってることが本当で、キングズリーが銃を持っていて、少々自棄になっている場合に備えてな。私の腹はでかい。格好の標的だ」
 我々は地面から立ち上がり、遠回りして湖の周りを歩き始めた。あの小さな桟橋まで来たところで、私は言った。
「検死は済んだのか、保安官?」
 パットンはうなずいた。「溺死でまちがいない。 それが死因だと納得しているそうだ。 ナイフで刺されたり、撃たれたり、頭を割られたりしていない。体にはいろんな傷痕があるが、多すぎて決め手にはならん。解剖に適した死体だとは言い難いからな」
 デガーモは蒼ざめ、怒っているように見えた。
「こんなことは言うべきではなかった、警部補」パットンはおだやかに言い添えた。「さぞ辛かろう。あんたはあの女性をよく知っておったらしいし」
 デガーモは言った。「済んだことだ。やるべきことをやろう」
 湖畔に沿って進み、キングズリーの小屋に着いた。そして、がっしりした階段を上がった。パットンは静かにポーチを横切ってドアに向かった。網戸を試した。掛け金はかかっていなかった。彼は網戸を開け、ドアを試してみた。ドアにも鍵がかかっていなかった。彼はドアを閉めたまま、ノブを回した。デガーモは網戸を大きく引き開けた。パットンがドアを開け、我々は部屋に足を踏み入れた。
 ドレイス・キングズリーは、火の気のない暖炉のそばの深い椅子に凭れて目を閉じていた。傍らのテーブルには空のグラスとほとんど空になったウィスキーの瓶が置かれていた。部屋はウィスキーの臭いがした。瓶の近くの皿は煙草の吸殻でいっぱいだった。握り潰された煙草の空き箱が二つ、吸殻の上にのっていた。
 部屋の窓はすべて閉まっていた。ほとんど暑いくらいだった。キングズリーはセーターを着ており、顔は紅潮して生気がなかった。鼾をかき、両腕は椅子の肘掛けの外にだらんと垂れ下がり、指先が床に触れていた。
 パットンは、彼に数フィートのところまで近づき、長い間黙って彼を見下ろして立っていたが、やがて口を開いた。
「キングズリーさん」彼は落ち着いた声で静かに言った。「少し話があるんだ」。

【解説】

「我々はビールを求めて店に立ち寄った」は<We stopped for a beer>。田中訳は「ここで車をとめ、ビールを一杯のんだ」。清水訳は「私たちは車を停めて、ビールを飲んだ」。村上訳は「我々は休憩してビールを飲んだ」。<stop for a 〜>は「〜に立ち寄る」ことを表すイディオム。

「三八口径のスミス・アンド・ウェッソンの銃身と弾倉を四四口径のフレームに装着した、あぶない武器で、反動は四五口径並みだが、有効射程ははるかに大きい」は<It was a .38 Smith and Wesson on a .44 frame, a wicked weapon with a kick like a .45 and a much greater effective range>。

田中訳は「スミス&ウェッスンの三八口径だ。四四口径の銃身にとりつけたもので、射った時、四五口径のような反動はあるが、ねらいはうんと正確だ」。<frame>は「骨組み、支持構造体」のことで、「銃身」は「銃の弾丸通路となる鋼鉄製の円筒部分」のことだから、これでは逆になる。<a much greater effective range>を「ねらいはうんと正確だ」と訳すのはいいが<a wicked weapon>をトバしている。

清水訳は「スミス・アンド・ウェッソンの三八口径に四四口径用のフレームをとりつけたもので、四五口径なみの威力があって、狙いはより正確だ」。支持構造体であるフレームを「スミス・アンド・ウェッソンの三八口径」にとりつけるというのは、説明の仕方として、転倒している。また<kick>は「(発射時の銃などの)はね返り、反動」であって、「威力」ではない。<a wicked weapon>をトバしているのは田中訳と同じ。

村上訳は「38口径のスミス・アンド・ウェッソンだが、フレームは44口径用のもので、反動は45口径並み、射程距離は遥かに長いというすさまじい代物だ」。通常よく使われている「射程距離」だが「射程」にはもともと「距離」の意味があるので重言になる。<effective range>は「有効射程」のことで「弾丸を発射した際に、狙って当てられる距離」を表す。「距離は遥かに長い」では「狙って当てられる」という意味の説明がない。これでは弾丸がどこまで届くかを意味する「最大射程」のようだ。

「高いオークの間を抜け、オークがそれほど高くなく、松がどんどん高くなってゆく高地まで登った」は<We climbed through the tall oaks and on to the altitudes where the oaks are not so tall and the pines are taller and taller>。田中訳は「車は大きな樫の木のあいだをとおつてのぼり、樫の木がひくくなり、そのかわり、松がだんだん高くなつていく高地まできた」。

清水訳は「背の高いかし(傍点二字)のあいだを縫って登って行くと、やがて、かし(傍点二字)があまり高くなくなって、松がしだいに高くなり、私たちの前に高原が開けて来た」。村上訳は「高く聳(そび)え立つ樫の木のあいだを抜けて坂道をあがった。山をのぼるにつれて、樫の木はそれほど高くなくなり、かわりに松の木がどんどん背丈を伸ばしていった」。

これは固有の土地の風景ではなく「森林帯」の区分について説明している。ならば<oak>を「樫(かし)」と訳すのは誤りだ。シイ類、カシ類は「暖温帯林」に属す。「オーク」はブナ科コナラ属の「楢(ナラ)」のことで、ブナ類は「冷温帯林」に属している。因みにマツ類は「亜寒帯」。標高が高くなるにつれて樹々の種類が変わっていく。<altitudes>は「高所、高地」の意で、マーロウはそういう高地まで来た、と言っているのだ。

「歩哨は素早く銃を背中から前に回して構え、車の窓に近づいてきた」は<the sentry threw his piece across his body and stepped up to the window>。田中訳は「監視兵が銃をからだの前にななめにかまえて、車の窓のほうにあるいてきた」。清水訳は「警備兵が銃を肩にかけて、車の窓のところにやってきた」。村上訳は「歩哨が銃を身体の前にさっとまわし、窓のそばにやってきた」。

<throw>は「(物)をすばやく一方向に動かす」ことを意味するが、それに<across his body>が続くとなると、何かをさっとからだの向こう側に回すイメージが加わる。歩哨がそれをやるなら<piece>は、肩にかけられた銃でしかありえない。誰も通らないときは背中に回してある銃を、通行者がいるときは前に回し、警戒態勢をとるのだろう。田中訳、清水訳からは<throw>のすばやい動きが感じられない。

「何ひとつ一昨日と変わるところがない」は<The same ~ as the day before yesterday>。田中訳は「昨日きた時と少しもかわらない」。清水訳は「昨日と同じ」。村上訳は「一昨日と同じ」だ。マーロウは独楽鼠のように走り回っているが、これだけの手がかりを追うのにたった一日では到底無理だ。一日目の午後、山を訪れ、いったんは家に帰り、次の日もあちこち動いているが、山には行っていない。両氏はなぜこんな誤りをしたんだろう。

「あんたは銃を早く抜くことができる人のようだ」は<You look to me like a fellow who would jack his gun out kind of fast>。田中訳は「あんたは、なかなか手がはやそうですな」。清水訳は「あんた、拳銃に手をかけるのが早いんでしょ」。村上訳は「あんたはどうやら、銃をかなり素早く抜きそうなタイプに見えるんだが」。

<jack out>は「銃を抜く、銃をちらつかせる」を意味する俗語。断定を避け、表現を和らげる意味での<kind of ~>が使われているところが大事だ。「早撃ち」を意味するのなら、あえて表現を和らげる必要はない。パットンが言おうとしているのは「あんたは何かというと銃を持ち出す輩のように見える」ということだ。そういうパットンの言葉に対して、デガーモは<if that's what you mean>(遠回しに言ってるが、本当に言いたいのはこういうことだろう)と返している。

「手が早いのは確かだ。あんたがそういう意味で言っているのならな」は<I've got plenty of swift, if that's what you mean>。田中訳は「ピストルをぬくことなら、けつしておそいほうじゃない」。清水訳は「早撃ちということだったら、腕に覚えがある」。両氏の訳には<if that's what you mean>の持つ皮肉っぽさが感じられない。村上訳は「俺は迅速をよし(傍点二字)とする人間だ。それがあんたの意味するところであるならね」。

<swift>は「(人や物などが)速く動くこと」。<I've got plenty of swift>を直訳すれば「私はたくさんの迅速さを持っている」だ。<plenty of>は「たくさん」と訳されるが、その意味するところは「十分な、必要な分より多い、たっぷり、豊富な」というものだ。田中、清水両氏は、それを「早撃ち」と取ったが、村上氏は<plenty of swift>を「銃だけでなく何事においても」と解したのだろう。

「横をむいて噛み煙草の汁をたっぷりと吐いた」は<spat tobacco juice in a long stream to one side>。田中訳は「口のはしから、おびただしい量の噛タバコの汁をななめにとばした」。清水訳は「わきを向いて、噛みタバコの汁を長いすじ(傍点二字)をつくって吐いた」。村上訳は「煙草の汁をペット横に吐いた。それは長い筋をひいた」。田中訳の「ななめに」がどこから来るのか知らないが<long stream>には「膨大な」という意味がある。

「人のために働くにしては、あんたのやり方はおかしくないか」は<You got a funny way of working for people, seems to me>。田中訳は「あんたたちの調べかたはみようだな」。清水訳は「あんた方がやってることは、私にいわせると、すじ(傍点二字)を外れているよ」。村上訳は「わたしの見るところ、あんたはいささかけったい(傍点四字)なやり方で仕事をする人のようだな」。

引用符(コロン)の前に<said to me>とあるので、少なくとも最初の一文はマーロウに向けて発せられた言葉と考えられるが、田中、清水両氏は「あんたたち、あんた方」と二人に向けた言葉になっている。唐突な関西弁には戸惑いを覚えるが、村上訳はマーロウに向けた言葉になっている。ただ、三氏とも<for people>を完全にスルーしている。果たしてそれでいいのだろうか。保安官はクライアントを裏切るような真似をしようとしているマーロウに釘を刺しているのではないか。

『湖中の女』を訳す 第三十六章

<fire plug>は「点火プラグ」ではなく「消火栓」

【訳文】
 
36

 アルハンブラで朝食を食べ、車を満タンにした。ハイウェイ七〇号線を走り、トラックを追い越しながら、車はなだらかな起伏のある牧場地帯に入っていった。私が運転した。デガーモは隅の方でむっつり座りこみ、両手をポケットに突っ込んでいた。
 私はずんぐりしたオレンジの木のまっすぐな列が輻のように回転するのを眺めていた。タイヤが舗装道路に啜り泣きのような音を立てていた。眠り足りないのと感情を揺さぶられたせいで疲れきり、生気をなくしていた。
 サン・ディマスの南にある長い坂に着いた。道はそこから尾根に向かって上っていき、ポモナに下っている。霧が立ちこめる地帯はここで終わり、半砂漠地帯が始まる。朝の太陽は古いシェリー酒のように軽くドライで、真昼には溶鉱炉のように熱くなり、日が暮れてあたりが黒々とした煉瓦のようになると同時に気温も落ちる。
 デガーモは口の端にマッチを咥え、ほとんど嘲るように言った。
「昨夜はウェバーに油を絞られた。あんたと話したと言ってたが、どうなんだ」
 私は黙っていた。彼は私を見てまた目をそらした。窓の外に向けて手をひらひらさせた。「ただでくれると言われても、こんな土地に住もうとは思わんね。朝起きる前から空気がよどんでいる」
「あと少しでオンタリオに着く。フットヒル・ブールヴァードに入れば、世界一美しいグレヴィレアの並木が五マイル続いている」 
「俺には消火栓と見分けがつかんよ」とデガーモは言った。
 街の中心まで来て、ユークリッド・アヴェニューを北上し、みごとな緑地帯のある道路を走った。デガーモはグレヴィレアの並木を鼻で笑った。
 しばらくしてから彼は言った。「あそこの湖で溺れたのは俺の女だ。その話を聞いてから、頭がおかしくなった。赤いものばかりが目につく。もし、チェスという男をふんづかまえたら......」
「よくもまあ、ぬけぬけと言うもんだな」私は言った。「アルモアの妻を殺した女を逃がしておいて」
 私はフロントグラス越しにまっすぐ前を見据えた。彼の頭が動き、その視線が私の上で凍りつくのが分かった。手がどう動いているかは分からなかった。顔にどんな表情が浮かんでいるのかも分からなかった。長い時間がたって、彼の口から言葉が出てきた。固く食いしばった歯の端をすり抜けて出てくるとき、かすかに擦れる音がした。
「あんた、頭がどうかしてるんじゃないか?」
「いや」私は言った。「君だってそうだ。フローレンス・アルモアがベッドから起き上がってガレージまで歩いて行ったりしなかったことを君は誰よりも知っているはずだ。彼女が誰かに運ばれたと知っている。タリーが彼女のダンスシューズを盗んだ理由も知っていた。あのダンスシューズにはコンクリートの道を歩いた痕跡がない。アルモアがコンディの店で妻の腕に注射したのが適量で、多すぎなかったことを知っていた。彼にとって注射は、あんたが金も寝場所もない浮浪者を痛めつけるのと同じで慣れたものだ。アルモアは妻をモルヒネで殺していないし、彼女を殺したいならモルヒネはまず使わない。しかし、他の誰かがそれをやり、アルモアが彼女をガレージに運び、そこに置いたことをあんたは知っている。厳密に言えば彼女はまだ一酸化炭素を吸い込める程度には生きていたが、医学的には呼吸停止によって死んでいた。 あんたはそれらのことをすべて知っている」
 デガーモは柔らかな口調で言った。「兄さん、よく今まで命があったものだなあ」
 私は言った。「あまり罠にひっかからず、プロの強面の連中をあまり怖がらないようにしてきたのさ。アルモアのやったことは人間の屑のやることだ。人間の屑と、心に疚しいことがあって人目を恐れる者だけができることだ。厳密に言えば、彼は殺人罪で有罪になる可能性さえある。この点については決着がついたとは思えない。確かに、彼女が助かる見込みのないほど深い昏睡状態にあったことを証明するには、大変な時間がかかるだろう。しかし、実際問題として誰が彼女を殺したかというなら、あの女の仕業だとあんたは知ってる」
 デガーモは笑った。それは耳障りな不快な笑いであり、空々しく、無意味なものだった。
 フットヒル・ブールヴァードに出て、再び東に折れた。まだ涼しいと思ったが、デガーモは汗をかいていた。脇の下に銃を吊っていて上着を脱げなかったのだ。
 私は言った。「女はミルドレッド・ハヴィランドといってアルモアとできていた。妻もそれを知っていた。彼女はアルモアを脅していた。彼女の両親から聞いている。その女、ミルドレッド・ハヴィランドはモルヒネのことを知り尽くしていた。 どこで必要な分だけ手に入れられるのか、どれだけ使えばいいのかも知っていた。彼女はフローレンス・アルモアをベッドに運んだあと一人で家にいた。注射器に四、五グレーンのモルヒネを入れ、アルモアがすでに打ったのと同じ穴を通して意識を失った女性に注射することができた。たぶんアルモアがまだ家の外にいる間に彼女は死ぬだろうし、彼は家に帰って彼女が死んでいるのを見つけるだろう。問題は彼にある。彼はそれを解決しなければならない。誰かが彼の妻に薬物を注射して殺したなんて誰も信じないだろう。そのときの状況を知らない者には分かるはずがない。しかし君は知ってた。知らなかったとは言わせない。君はそこまでの馬鹿じゃない。君は彼女をかばって事件を揉み消した。まだ未練があったからだ。君は彼女を脅し、危険な街から、警察の手の届かないところに追いやった。君は殺人を見て見ぬふりをした。 彼女がそうさせたんだ。 なぜ彼女を探しに山に行ったりしたんだ?」
「それで、どこを探せばいいか、どうして俺に分かったんだ?」彼は容赦なく言った。「ついでにそれについても説明してくれるか?」
「いいとも」私は言った。「彼女はビル・チェスにうんざりしていた。酒浸りの、癇癪持ちの男のうらぶれた暮らしに。しかし、そこから逃げ出すには金が必要だった。彼女はもう危険は去ったと考え、アルモアを強請っても大丈夫だと思ったんだ。それで彼女はアルモアに手紙を書いた。アルモアは彼女と話をつけるために君を送りこんだ。彼女はアルモアに、現在の名前も、どこでどのように暮らしているのかも、詳しくは知らせなかった。ピューマポイントのミルドレッド・ハヴィランド宛てで手紙は届く。彼女は届いたかどうか問い合わせるだけでよかった。しかし、手紙は来なかったし、彼女とミルドレッド・ハヴィランドを結びつける者もいなかった。君が持ち合わせていたのは古い写真といつものでかい態度だけだ。そんなものは、あそこの人たちには通じず、何の手がかりも得られなかった」
 デガーモはとげとげしく言った。「彼女がアルモアに金をせびろうとしたことは誰から聞いた?」
「誰からも。事実関係からして、そうとしか考えられなかった。もし、レイヴァリーかキングズリー夫人がミュリエル・チェスの正体を知っていて、それを誰かに洩らしていたなら、君は彼女の居場所と使っている名前を知ることができたはずだ。君は知らなかった。したがって、手がかりはあのあたりで彼女が誰なのかを知っている唯一の人物、つまり彼女自身からきたことになる。だから、彼女がアルモアに手紙を書いたにちがいないんだ」
「オーケイ」彼はついに言った。「忘れてしまおう。今となっちゃどうでもいいことだ。俺が窮地に陥ってるなら、それは俺の問題だ。同じ状況になったらまたやるだろう」
「それでいいさ」私は言った。「私は誰を強請るつもりもない。君でさえも。こんなことを話したのは、やってもいない殺人の件でキングズリーの首に縄をかけさせないようにするためだ。もしやってたなら、吊るせばいい」
「俺に話したのはそういう理由があってのことなのか?」
「ああ」
「俺のやり方が気に食わないからかと思ってた」
「君のことを憎むのはもうやめた」私は言った。「もう済んだことだ。私は憎むときは激しく憎むが、そう長くはもたない」
 我々は葡萄の国を通り抜けようとしていた。傷痕のある山腹沿いに広がる砂地の葡萄の国だ。しばらくしてサン・バーナーディーノに着いたが、止まることなくそのまま走り続けた。

【解説】

「霧が立ちこめる地帯はここで終わり、半砂漠地帯が始まる。朝の太陽は古いシェリー酒のように軽くドライで、真昼には溶鉱炉のように熱くなり、日が暮れてあたりが黒々とした煉瓦のようになると同時に気温も落ちる」は<This is the ultimate end of the fog belt, and the beginning of that semi-desert region where the sun is as light and dry as old sherry in the morning, as hot as a blast furnace at noon, and drops like an angry brick at nightfall>

田中訳は「太平洋の霧がくる、いちばんはしの境界線で、ここからは、半砂漠になり、朝のうちは、古いシェリー酒みたいに太陽の光はすみ、さわやかで、それが昼には、釜のなかのようにカッとあつく、日はギラギラ照りつけるが、夜にはいるとともに、癇癪をおこして足もとにぶつけたレンガそつくりで、とたんに気温がおちる」

清水訳は「ここで霧の多い地帯が終わり、なかば砂漠のような地帯が始まるのだった。明け方の太陽は年代物のシェリーのように明るく、ドライで、真っ昼間になると溶鉱炉のように熱く、夜が訪れると腹を立てたレンガのように落っこちて行く」

村上訳は「霧の立ちこめる地帯はそこで終了し、その先は準砂漠地帯になる。太陽は朝には年代物のシェリー酒のように軽くドライになり、真っ昼間には燃えさかる火炉のように熱くなり、黄昏時(たそがれどき)には怒った煉瓦となって沈んでいく」

チャンドラーお得意のダブル・ミーニング。酒に喩えているのだから<light>は色や明るさではなく、飲み口として「軽く」の方がぴったりくる。「ドライ」は砂漠地帯の乾燥を「霧」と対比させている。<brick>は「煉瓦」だが、円い太陽を煉瓦に喩えるのは無理がある。<brick red>と考えると夕暮れ時の空の色とも考えられる。また、形容詞<brick>には「ひどく寒い(俗)」という意味がある。<drop>は「日」と「気温」二つがともに「落ちる」ことをいうのだと考えたい。

「俺には消火栓と見分けがつかんよ」は<I wouldn't know one from a fire plug>。田中訳は「グレヴィレアだろうがなんだろうが、おれには消火栓と区別はつかん」。清水訳は「俺が見たって消火栓と区別がつかないね」。村上訳は「おれはシノブノキと点火プラグの違いもわからないよ」。これは村上氏の誤訳。「点火プラグ」は<spark plug>で色は白だ。グレヴィレアの花は赤い。すぐ後にデガーモが赤い色について言及していることもある。彼はグレヴィレアの花を知っていたにちがいない。

「固く食いしばった歯の端をすり抜けて出てくるとき、かすかに擦れる音がした」は<They came through tight teeth and edgeways, and they scraped a little as they came out>。田中訳は「その言葉は、かみしめた歯のよこのほうからはきだされたようで、物をこすりつけた時みたいな、いやな音がまじつていた」。清水訳は「その言葉はかたく噛み合わされた歯のあいだから出てきて、出てくるときにものを削るような音を立てた」。

村上訳は「それは端から端まできつく嚙みしめられた歯の間から出てきた。そこを出てくるときに言葉はいくらか削り取られていた」。旧訳が<scrape>を自動詞の「(物が)きしむ音を立てる」と取っているのに対して、他動詞の「削り取る」だと取っている。しかし、それなら目的語があるはずだ。また、「削り取られていた」なら受動態の形をとるはずだが、原文にはbe動詞もない。第一に言葉が歯で削り取られるというのもおかしな話だ。

「私は誰を強請るつもりもない」は<I'm not planning to put the bite on anybody myself>。田中訳は「ぼくは、それをタネに、だれをゆするつもりもない」。清水訳は「私はだれにも食いつくつもりはない」。村上訳は「このことで誰かを懲らしめてやろうというようなつもりは、私にはない」。<put the bite on>は、アメリカのスラングで「(人)に金をせがむ、(人)から金をゆする」という意味だ。