marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

2015-01-01から1年間の記事一覧

『大いなる眠り』第4章(5)

<「ああ、あの手のものには全く興味がない。おそらく鋼板印画の複製セットだろう。安直な彩色で二束三文の出来。そこいらによくある低俗な品さ。申し訳ないがお断りだね」 「わかりました」彼女は自分の顔に微笑を引き戻そうとがんばっていた。苛立ってもい…

『大いなる眠り』第4章(4)

<彼女は実業家たちの昼食会を大騒ぎさせるに十分なセックス・アピールを溢れさせながら私に近寄ると、ほつれた髪に手櫛をいれようと頭をかしげた。ほつれというほどではない。柔らかく輝く髪が巻き毛になっているだけだ。彼女の微笑みはかりそめのものだっ…

『大いなる眠り』第4章(3)

<女はゆっくり身を起こすと上体を左右に揺らすようにして私のほうにやってきた。タイトでどんな光も反射しない黒のドレスを着ていた。長い腿をしていて、およそ本屋では見かけることのないある種特別の歩き方だった。アッシュブロンドの髪に緑の瞳、パイピ…

『大いなる眠り』第4章(2)

<背後でドアが静かにしまり、私は床一面に敷きつめられた厚く青い絨毯の上を歩いていった。青い革の安楽椅子の脇には灰皿スタンドが添えられていた。箔押しされた革装本が数冊、磨き上げられた狭いテーブルの上にブックエンドに挟まれて並んでいた。壁のガ…

『大いなる眠り』第4章(1)

<A・G・ガイガーの店はラス・パルマスに近い大通りの北側に面していた。入口扉は中央の奥まったところに設置され、銅でトリミングされたショーウィンドウがついていた。後ろは中国製の衝立で仕切られているので店の中は見ることができなかった。ウィンド…

『神秘列車』 甘耀明

台湾の若い作家の短篇集である。少し前に読んだ呉明益の『歩道橋の魔術師』もそうだが、近頃、現代台湾文学の紹介が相つぎ、それもどの作品も高水準を保つ。台湾は多言語社会でいくつもの言語が飛び交う。作中では多様な言語を駆使する甘耀明は、父が客家(…

『恋と夏』 ウィリアム・トレヴァー

フロリアン・キルデリーの両親は画家だった。親は息子に期待したが、彼にその種の才能はなく、両親の死後相続した十二部屋もある屋敷を保持する経営の才能もなかった。借金返済のために売り払ってしまい外国にでも旅立とうと考えていた。そんな時、部屋の隅…

『プニン』 ウラジーミル・ナボコフ

何故かナボコフの作品の中でこれがいちばん好きかもしれない、という気がしてくるから不思議だ。主人公は、ほぼ作者ナボコフ自身の経歴をなぞった亡命ロシア人の大学教授ティモフェイ・プニン。新大陸アメリカのウェインデル大学でささやかなロシア語講座を…

『サリンジャー』 デイヴィッド・シールズ/シェーン・サレルノ

サリンジャーのファンや愛読書の中に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』その他を挙げている人は読まないほうがいいかもしれない。読めば、これまでと同じような気持ちで作品を読み返すことが難しくなるだろう。たしかに小説と作者は別物だ。「文は人なり」な…

『伝道の書に捧げる薔薇』 ロジャー・ゼラズニイ

ディレイニーと並んで60年代アメリカSF界を代表する作家ロジャー・ゼラズニイの初期中短篇集である。全15篇の中には、ひとつのアイデアのみで成立する超短篇も含まれているが、その持ち味を堪能しようと思えば表題作を含む中篇に読み応えのある作品が多…

『ウィダーの副王』 ブルース・チャトウィン

かつて『ウィダの総督』というタイトルで訳されていたブルース・チャトウィンの数少ないフィクションの新訳である。サザビーズでも指折りの目利きとして知られながら、世界各地を旅して歩き、現地での見聞や蒐集した資料を駆使して、それまで誰も試みたこと…

『煙の樹』 デニス・ジョンソン

主人公の一人スキップことCIAのウィリアム・サンズがなかなかやってこない指令を待ちながら、潜伏先のベトナムのヴィラで読んでいるのが、シオランとアルトーというのが、スパイ活劇風小説におけるいいスパイスになっている。二段組で600ページをこえるボ…

『中上健次』(池澤夏樹=個人編集日本文学全集23)

全集で難しいのは数多ある代表作の中から何を選ぶかということだろう。中上といえばよく引き合いに出されるのがアメリカ南部にある架空の地ヨクナパトーファ郡に起きた多くの人々と出来事を描いたウィリアム・フォークナーのヨクナパトーファ・サーガだが、…

『ジーン・ウルフの記念日の本』 ジーン・ウルフ

原題は“ Gene Wolfe’s Book of Days ” 。この「ブック・オブ・デイズ」。ここでは「記念日の本」という訳になっているが、一年間365日の一日一日について、「今日は何々の日」ということを解説した本のことである。ジーン・ウルフがその初期短篇の中から、あ…

『スウェーデンの騎士』 レオ・ペルッツ

1701年冬、シレジアの雪原を二人の男が追手を恐れながら歩いていた。軍を脱走しスウェーデン王の許へ急ぐ青年貴族クリスティアンと、絞首台を辛くも逃れた市場泥棒だ。身を隠すため入った粉挽き場にあった料理を勝手に食べた二人は、ちょうど来合わせた粉屋…

『吉田健一』(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集20)

あるとき朔太郎を読んでいて、文学とはまず第一に批評である、と書かれていて驚いたことがある。それまで文学といえば真っ先に思い浮かべるのは小説だったから、なぜ批評がその上に位置するのだ、と疑問に思ったものだ。当時、批評とは「他人の書いたものを…

 『歩道橋の魔術師』 呉明益

表題作の題名どおり、歩道橋の上に店を出す魔術師を各篇のつなぎに使った連作短篇集。時は1980年代初頭。今はなき台北の一大商業施設「中華商場」を舞台として、そこに暮らしていた少年たちの出会いや別れ、初恋、死といった、いずれも少し胸の奥がいたくな…

『Novel 11, Book 18 ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』ダーグ・ソールスター

誰もそのことによって傷つけられはしない(本人は別として)。それどころか、その行為に加担することで利益を得る者すらいる。しかし、道義的に見れば社会的に許されない行為であることはたしかだ。事実を知れば誰も彼を許そうなどとは考えないにちがいない…

『パリの家』エリザベス・ボウエン

三部構成で一部と三部は現代の「パリの家」を舞台とし、間に挟まれた二部は十年前の親の世代の恋愛事件を扱っている。ヘンリエッタは十三歳。早くに母を亡くし、父の都合でロンドンを離れ独り伊仏国境近くに暮らす祖母の家に向かう途中、同行者の都合で、パ…

『紙の動物園』ケン・リュウ

アメリカにおいては評価されにくいと聞く短篇を主体とするからか、本国では単独著作は未刊行。翻訳によって外国で作品集が刊行される珍しい作家である。これも訳者によって編まれた日本独自のオリジナル短篇集。表題作「紙の動物園」は20ページたらずの短篇…

『ナイン・ストーリーズ』J.D.サリンジャー

ジョアンナ・ラコフの『サリンジャーと過ごした日々』を読んで、久し振りにサリンジャーが読みたくなった。書棚を探すと黄ばんだ新潮文庫版の『ナイン・ストーリーズ』(野崎 孝訳)が見つかった。自分で購った記憶がないから妻の持ち物だろう。たしか柴田元…

『吉田健一』長谷川郁夫

美しい本である。その内容だけでなく、造本・装丁もふくめて、本というものを愛していた吉田健一もきっと喜ぶにちがいない。ミディアム・グレイの背に清水崑描くところの氏の横顔を配した下に、金字で書名を横書きにし、英語のサインが付されている。著者名…

『サリンジャーと過ごした日々』ジョアンナ・ラコフ

恋人と別れ、留学先のロンドンから故郷に戻ったジョアンナは、ニュー・ヨークの出版エージェンシーで働き始める。仕事は、ボスがディクタフォンに録音した手紙をタイプすること。それとジェリー宛に届く手紙に定型文の返事を書いて出すことだった。採用にあ…

『やちまた』下 足立巻一

下巻は春庭の主著のうち、自動詞、他動詞について考えを述べた「詞の通路」についての記述からはじまる。文法論のこととて国語学に詳しくないものには少々難しい。それよりも、著者の身辺雑記のほうが、読者としてはよほど興味が湧く。同じ家を借りて自炊生…

『やちまた』上 足立巻一

「丘の文庫」は、昔のままにたっていた。案内を請うと車椅子に乗った館員は、「おそらくその文庫はこの建物でしょう。当時のままで残っているのは、この建物とそこに見える赤い壁の書庫だけです」と説明した後で、閲覧室に誘った。真新しい机と椅子は最近の…

『古事記』池澤夏樹訳

この本、どこかで読んだことがある。そんな気がした。内容ではない。見かけのほうだ。読みやすい大き目の活字で組まれた本文の下に、小さなポイントの太字ゴチック体の見出しに続いて明朝体で脚注が付されている。丸谷才一他訳による集英社版『ユリシーズ』…

『堀辰雄 福永武彦 中村真一郎』

同名のアニメですっかり有名になってしまった『風立ちぬ』でなく、「かげろうの日記」とその続篇「ほととぎす」を採ったのは、大胆な新訳が売りの日本文学全集という編者の意図するところだろう。解説で全集を編む方針を丸谷才一の提唱するモダニズムの原理…

『赤毛のハンラハンと葦間の風』 W.B.イェイツ

アイルランド文芸復興運動の盟主W.B.イェイツ描くところの伝説的な放浪詩人、赤毛のハンラハンの物語と詩集『葦間の風』より十八篇の詩を選び一巻本とした袖珍本である。古風な見かけに相応しく、収められた物語も詩もおおどかで、古雅な趣きを伝えている…

『日夏耿之介の世界』 井村君江

思いもかけぬところで、日夏耿之介の名を目にすることがある。この間も『教皇ヒュアキントス』という新刊書の訳者あとがきで、芥川から日夏に原著者に関する本が贈られた挿話が記されていた。こんなところにも、と感じ入ったことであった。一般には難解な漢…

『教皇ヒュアキントス』ヴァーノン・リー

またしてもブロンツィーノ描くところの「ルクレッツィア・パンチャティキの肖像」の登場である。ヘンリー・ジェイムズ著『鳩の翼』のヒロインのモデルにもなった緋色のドレスに身を包んだ女性像は、余程当時の男性の心を虜にしたにちがいない。筆名は男性名…