marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

2016-01-01から1年間の記事一覧

『無限』 ジョン・バンヴィル

グローブ座で演じられていた頃のシェイクスピア劇は、幕が上がる前に語り手が登場し、これから始まる芝居について観客に説明する形式をとることがあった。語り手が地の文の中に自在に登場しては言いたいことを言う、この小説を読んでいて、当時の舞台劇を思…

『日本語のために』 池澤夏樹=個人編集日本文学全集30

「祝詞(のりと)」にはじまって、中井久夫の「私の日本語雑記」に終わる、これは「特定の文学作品ではなく、さまざまな文体と日本語に関する考察を集め」た、いわば全集における「雑纂」である。その内容は、漢詩・漢文や仏典、キリスト教文書に加え、琉球…

『川は静かに流れ』 ジョン・ハート

親友のダニーからの電話でアダム・チェイスは故郷に帰ることにした。五年前、妹の誕生パーティの夜、男が殺され、継母によってアダムの仕業だと証言された。判決は無罪だったが、父は再婚相手の言葉を信じ、アダムに家を出るよう命じた。五年ぶりに帰った故…

『終わりなき道』 ジョン・ハート

まあ、確かに償いや贖いに終わりはないのかもしれないが、ずいぶんと突き放した邦題になったもんだ。原題は<REDEMPTION ROAD>。ここは、あっさりと『贖い(贖罪)への道』と訳した方が、作者が意図した主題に沿っている気がするが、あまりにも露骨すぎるの…

『海に帰る日』 ジョン・バンヴィル

妻を病気で亡くして間もないマックスは夢を見た。夢のなかで自分は今の歳でありながら少年だった。自転車が壊れ、足を怪我し、誰もいない田舎道を歩いていた。「日が暮れかかっているのに、雪のなかをひるむことなく歩き続ける哀れなでくの坊。行く手には道…

『いにしえの光』 ジョン・バンヴィル

初老の男が遠い夏の日の初恋を思い出す。相手は友だちの母親。美しくも狂おしい過去の回想をさえぎるように、愛する家族を喪った記憶から立ち直れないでいる今の暮らしが挿入される、とくれば、あのブッカー賞受賞作『海に帰る日』を思い出す人も多いだろう…

『メモリー・ウォール』 アンソニー・ドーア

短篇集なのだが、一篇一篇がとても短篇とは思えない重量感を持つ。短篇が高く評価されている作家だが、短篇向きではないのかも。ありふれた人物に起きる些細な出来事を絶妙の切り口ですくいとってみせる、そんな短篇の気安さを期待すると裏切られる。限られ…

『最終目的地』 ピーター・キャメロン

一通の手紙がウルグアイのオチョ・リオスに暮らす、作家ユルス・グントの遺族宛に送られてくる。差出人はカンザス在住の大学院生オマー・ラザギ。オマーは、グントについての博士論文ですでに賞を得ており、副賞として大学から自伝の出版に対して研究奨励金…

『ベストストーリーズⅢカボチャ頭』 若島正編

アメリカの雑誌≪ニューヨーカー≫に載った短篇の中から、原則として未訳の物を編んだアンソロジー「ベスト・ストーリーズ」の第三巻。1990年から現在までを扱う最終巻。何といっても収録された作家の顔ぶれがすごい。豪華すぎるメンバーのラインナップと背番…

『大いなる不満』 セス・フリード

一歩まちがえたら真っ逆さまに墜落しそうな崖っぷちのようなところで、曲芸を演じている道化。セス・フリードにはそんな雰囲気が濃厚に漂っている。下手を打ったら寓話になってしまいそうなぎりぎりのところで危なっかしく小説を書いている。ところが、いつ…

『すべての見えない光』 アンソニー・ドーア

第二次世界大戦前夜、パリにある国立自然史博物館に勤めるルブラン・ダニエルは白内障で急速に視力を奪われつつある娘のため、指でなぞって通りや街角を記憶できるよう、精巧な街の模型を作ってやる。しかし、マリー=ロールが模型で覚えた街の姿を頭の中に再…

『ジョイスの罠』 金井嘉彦/吉川信

柳瀬尚紀氏が亡くなったのは七月の終わり頃だったと記憶する。本書の副題に「『ダブリナーズ』に嵌る方法」とあることに、ああ、近頃はもう、『ダブリン市民』とは呼ばず、『ダブリナーズ』がスタンダードになったのだなあ、とちょっと感銘を覚えたのであっ…

『塔の中の部屋』 E・F・ベンスン

夏にはぴったりの怪談、というか幽霊譚。姿の見えるのもあるし、音や部屋の中に何かいる感じがするという存在感がたよりの幽霊もいる。さすがにどの家のクローゼットの中にも骸骨がいる、ということわざが成り立つ国はちがう。とはいっても、それほど、どこ…

『もう一度』 トム・マッカーシー

休日に車に乗って何となく走っていると、自分の手が勝手に職場に通じる道の方にハンドルを切っているのに気づいたことはないだろうか。頭は休日モードに入っているのに手足は週日の習慣行動をとっている不思議さ。車の運転という高度な運動に、知的な活動を…

『いちばんここに似合う人』 ミランダ・ジュライ

ぬるい塩水を入れたボウルに顔をつけさせ、八十歳をこえた老人三人に水泳を教える話がある。いい歳をした爺さんがキッチンの中をバタフライでターンする、畳の上の水練ならぬ床の上の水練が涙が出るほど面白い「水泳チーム」。話に出てくるばかりで一向に紹…

『海に帰る日』 ジョン・バンヴィル

妻を病気で亡くして間もないマックスは夢を見た。夢のなかで自分は今の歳でありながら少年だった。自転車が壊れ、足を怪我し、誰もいない田舎道を歩いていた。「日が暮れかかっているのに、雪のなかをひるむことなく歩き続ける哀れなでくの坊。行く手には道…

『分解する』 リディア・デイヴィス

リディア・デイヴィスの真骨頂は、真実と嘘の兼ね合いの見事さ、の一点に尽きるといっても過言ではない。真実に拘泥し、自分の身の回りに起きたあれこれを貧乏たらしく書き記した身辺雑記に終始してそれでよしとしたのが日本の私小説。しかし、そんなもの誰…

『ほとんど記憶のない女』 リディア・デイヴィス

最初に読んだのは、今は別の男と暮らす女が過去の失敗に終わった恋愛を回想するという小説を執筆中の作家が交互に主人公を務める、『話の終わり』だった。リディア・デイヴィスは、プルースト『失われた時を求めて』第一巻『スワン家の方へ』の英訳で受賞経…

『風狂 虎の巻』 由良君美

ちくま文庫から『みみずく偏書記』、『みみずく古本市』、平凡社ライブラリーから『椿説泰西浪漫派文学談義』と、ここ何年かの間に由良君美の復刊が相次いでいるのには何かわけでもあるのだろうか。ここへ来て、青土社が『風狂 虎の巻』を新装版で出すに至っ…

『谷崎潤一郎』 池澤夏樹=個人編集日本文学全集15

姓の上に「大」一字を冠して「大谷崎」と称される谷崎潤一郎を一巻本全集に収めるとしたら何をとって何を捨てるべきかはまず迷うところだろう。さすがは池澤夏樹。よりによって『乱菊物語』をトップに持ってくるとは考えたものだ。新聞連載という縛りを逆手…

『誰もいないホテルで』 ペーター・シュタム

「凡庸さの連続が豊饒な生の厚みに変わるその一瞬を、シュタムは逃さない」という堀江敏幸の評に引かれて手にとった。ペーター・シュタムはスイス生まれの作家で、十篇のうち一篇を除いて、故郷である、ドイツ国境近くのボーデン湖を望む丘陵地帯を舞台とし…

『聖母の贈り物』 ウィリアム・トレヴァー

短篇小説の名手ウィリアム・トレヴァーの作品を一冊の短篇集として日本に紹介した初めての試みが、2007年刊のこの『聖母の贈り物』ではなかったか。知らないということは恐ろしいもので、初めて読んだとき、何だか嫌な人間ばかり出てくる小説だな、と感じた…

『イーヴリン・ウォー傑作短篇集』

今年2016年は、イーヴリン・ウォー没後50年にあたる。英国でも四十巻をこえる全集が出版され始めたと解説にあるが、日本でもここのところ、各社から出版が相次いでいる。日本ではさほど知られていないが、二十世紀イギリス文学を代表する一人である。吉田健…

『邪眼』 ジョイス・キャロル・オーツ

表題作のタイトルにもなっている「邪眼」というのは、<evil eye>(邪視)のこと。悪意を持って睨みつけることで、相手に呪いをかける行為を指し、世界各地に民間伝承が残る。邪視から身を守る護符のことをトルコでは、ナザールと呼ぶ。同心円状に色の違う…

『遅い男』 J・M・クッツェー

自転車に乗っていたポール・レマンは車に衝突されて右脚の膝から下を失う。医師は義肢をつけるよう促すが、彼は承知しない。60歳を過ぎた今、新しいことに慣れたいとは思わないからだ。離婚し、子どももいないポールは、退院後、介護士の世話を受けなくては…

『人生の真実』 グレアム・ジョイス

英国はコヴェントリー郊外に暮らす女系一家の物語である。母親のマーサを中心に姉妹が七人のヴァイン家。その末娘キャシーが産んだ子を養子に出すところから話がはじまる。何か大事なことがあれば、姉妹たちとその夫がマーサの家に集まって会議を開くのが、…

『あなたの自伝、お書きします』 ミュリエル・スパーク

ミュリエル・スパークの最高傑作と言っていいだろう。毒のある口吻、媚びない生き方、友人とのさばけた交際ぶり、鋭い人間観察力、人生に対する肯定的な姿勢。主人公フラーの人物像は、よく知られる作家スパークのそれにぴったりと重なる。それもそのはず。…

『イエスの幼子時代』 J・M・クッツェー

タイトルだけ読めば、聖書に材を得た子ども向けの物語か、と勘ちがいしてしまいそうだが、いやいやとんでもない。イエスなんかこれっぽっちも出てこない。近未来の世界を舞台にしたディストピア小説の型を借りたこれは、人間と、人間が生きる社会について真…

『ホワイト・ジャズ』 ジェイムズ・エルロイ

「暗黒のLA四部作」第四作。シリーズ完結作は意外に手堅くまとめられていた。デイヴィッド・クラインというLA市警警部補の一人称限定視点で書かれていることもあって、これまでの作品のように、個性的な主人公が何人も登場し、複数の視点から事件をながめ、…

『LAコンフィデンシャル』上・下 ジェイムズ・エルロイ

ラメント。嘆き歌。結局これを聴きたいがために上下二巻の長丁場をひたすら耐えるのかもしれない。悪の巨魁に立ち向かい、力及ばず死んでいく者。死なないまでもボロボロになって都市を離れてゆく者。ともに戦った仲間の無念を思い、ひとり立ち尽くす未だ滅…