marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

2017-06-01から1ヶ月間の記事一覧

『大いなる眠り』註解 第九章(1)

《翌朝はからりと晴れて明るかった。目を覚ますと、口の中に路面電車運転士の手袋が詰まっていた。私はコーヒーを二杯飲み、二社の朝刊に目を通した。アーサー・グイン・ガイガー氏に関する記事はどちらにも見つからなかった。しわをとろうと湿ったスーツを…

『私の名前はルーシー・バートン』エリザベス・ストラウト

くせになりそうな作家だと思う。自室に独りでいる自分の傍らに来て、低い声でぼつぼつと語りかけられているような、よほど親密な仲なら構わないが、そうでもない場合にはちょっと距離を置いた方がいいのではないか、と思わせるような、内心に秘かに隠されて…

『大いなる眠り』註解 第八章(4)

《それは警官ではなかった。警官なら今頃まだここで、死体の場所を示す紐やチョーク、カメラ、指紋採取用粉末、安葉巻などを手に動き回っている最中だ。人っ子一人いないではないか。殺人犯でもない。彼の逃げ足は速かった。彼は娘を見たにちがいないが、自…

『大いなる眠り』註解 第八章(3)

《急いで歩いたので半時間をいくらか過ぎたくらいでガイガーの家に到着した。そこには誰もいなかった。隣の家の前に停めた私の車以外、通りに一台の車もなかった。車はまるで迷子の犬のようにしょんぼりしていた。私はライ・ウィスキーの瓶を引っ張り出して…

『大いなる眠り』註解 第八章(2)

《雨が降りしきるカーブした通りをうねうねと十ブロックほど下っていった。樹々から小止みなく滴り落ちるしずくの下を抜け、薄気味悪いほど広大な敷地に建ついくつかの豪壮な邸宅の窓に灯りが差す前を通り過ぎた。軒やら破風やら窓灯りやらのぼんやりとした…

『運命の日』上・下 デニス・ルヘイン

(上下巻併せての評) 1910年代末のアメリカは揺れていた。1917年に起きたロシア革命を受けて、東海岸では社会主義者、共産主義者、アナーキストたちが盛んに活動し、テロ活動も頻繁に起きていた。同じころ、第一次世界大戦の帰還兵が持ち込んだスペ…

『大いなる眠り』註解 第八章(1)

《スターンウッド邸の通用口には鉛枠のついた細い窓があり、その向こうに薄暗い灯りが見えた。パッカードを車寄せの屋根の下に停め、ポケットの中の物をすべてシートの上に出した。娘は隅でいびきをかいていた。帽子は洒落て傾げたように鼻にかかり、両手は…

『大いなる眠り』註解 第七章(8)

《私は部屋の裏にある廊下に入って家の中を調べた。右側に浴室が、背面に鍵のかかったドアと台所があった。台所の窓はこじ開けられていた。網戸はどこかに消えており、留め金が引き抜かれた痕が見えていた。裏口のドアは鍵が掛かっていなかった。それは放っ…

『あなたはひとりぼっちじゃない』アダム・ヘイズリット

原題は<You Are Not a Stranger Here>。「異邦人」や「よそ者」を意味するストレンジャーよりも、「ここで」を意味する<here>が気になる。その「ここ」とはどこだろう。それは、この短篇集の中なのではないだろうか。ここには、現代アメリカやイギリスだ…

『大いなる眠り』註解 第七章(7)

《我々は少し歩いた。時には彼女のイヤリングが私の胸にぶつかったり、時にはアダージョを踊るダンサーたちのように息が合った開脚を見せたりしながら。我々はガイガーの死体のところまで行って戻ってきた。私は彼女に彼を見せた。彼女は彼が格好つけてると…

『ときどき旅に出るカフェ』近藤史恵

カフェ・ルーズは毎月一日から八日が休み。営業は九日から月末まで。店主はその間旅に出る。そして買ってきたものや見つけたおいしいものをカフェで出す。オーストリアの炭酸飲料だとかハンガリーのロシア風チーズケーキとかだ。もちろん毎月海外という訳で…

『大いなる眠り』註解 第七章(6)

《私は雨が屋根と北側の窓を打つ音を聞いていた。その外に何の音もなかった。車の音も、サイレンもなく、ただ雨音のみ。私は長椅子のところへ行き、トレンチコートを脱ぎ、娘の服をかき集めた。淡緑色のざっくりとしたウールのドレスがあった。半袖で上から…

『ザ・ドロップ』デニス・ルヘイン

はじまりは犬だった。映画『ティファニーで朝食を』のように、ごみ箱から助け出されるのが猫だったらもっとよかったのにと思ったけど、頭のイカレた男に殴られても死ななかったのは、ピットブルだったからで、猫だったら死んでいただろう。そう考えると、犬…

『大いなる眠り』第七章(5)

《閃光電球が私の見た稲光の正体だった。狂ったような叫び声は麻薬中毒の裸娘がそれに反応したものだ。三発の銃声は事の成り行きに新しい捻りを加えようとして誰かが思いついたのだろう。裏階段を降り、乱暴に車に乗り込み、大急ぎで走り去った男の思いつき…

『中動態の世界』國分功一郎

この本は、ハイデッガーやアレントはもとより、デリダにラカン、フーコーにドゥルーズ、と有名どころを次々と繰り出しては、能動と受動という二つの対立以前に在った「中動態」という態の存在をあぶりだすことを目的として書かれている。聞きなれない名前だ…

『大いなる眠り』第七章(4)

《私は彼女を見るのをやめてガイガーを見た。彼は中国緞通の縁の向こうに、仰向けに倒れていた。トーテムポールのような物の前だ。鷲のような横顔の、大きな丸い眼がカメラのレンズになっていた。レンズは椅子の上の裸の娘に向けられていた。トーテムポール…

『大いなる眠り』第七章(3)

《彼女は美しい体をしていた。小さくしなやかで、硬く引き締まり、丸みをおびていた。肌はランプの光を浴び、かすかに真珠色の光沢を浮かべていた。脚はミセス・リーガンのようなけばけばしい優美さにはあと一歩及ばないが、とても素敵だった。私は後ろめた…