marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

階段を駆け上がる

片岡義男の最新短編集である。にもかかわらず、どこかで読んでような気がするのはどうしてかと、自分の過去の書評を検索してみた。『白い指先の小説』という、やはり片岡の短編集があるが、その本の書評に、今回も自分ならこう書くだろうなという評があった。ちがうのは連作短編集の主人公が前回は女性で今回は男性であるということくらい。

「男と女と自動車があれば映画は撮れる。」という名文句があるが、片岡は「これ」といった材料さえあれば、短篇の一本くらいは書けるという。その「これ」が何になるかで、作品のトーンが変わってくるのだろう。

今回の短編集では、あとがきで作家自身が、その短篇を抱えるに至った「これ」について解説してくれている。それは、一枚の写真であったり、鯛焼きであったり、特にこれといったものではない。ただ、アメリカの雑誌にあったファッション写真の切り抜きは、スクラップ用に切り抜かれたまま、そんな物ばかりを収めた箱に十年近くしまっておいたものだ。つまり、ありふれた素材を作品にするには、寝かせることが必要だということだろう。機が熟するのを待つのだ。

そのどうってことのないものを作品の冒頭部分や終幕に配することで、物語をどのように作っていくかについても、あとがきの中でていねいに解説している。この短編集を書評で採りあげた堀江敏幸が心配しているように、作家が小説の書き方について詳しく語ることはあまり得策とはいえない。楽屋裏を見せ、手品のタネを明かす危険な作業だからだ。

では何故、片岡はわざわざそんな真似をしてみせるのだろうか。片岡にとっては、小説を書くという行為は、何かを隠して秘密めかしたり神秘性を帯びさせたりするような、そんな行為ではないからだろう。料理をする際にレシピを参考にすることがある。あれと同じだ。片岡にとっていい小説を書くという行為は美味しい料理を作るのと同じなのではないか。

これといった素材を手に入れたら、それに何を合わせて、どういうふうに展開させるか、テーブルウェアは何で、どこで供するのか。それによく合うアルコールは何か。そんなふうに短編小説のアイデアを煮詰めていくのだろう。同じ素材を用意して、レシピ通りの手順で調理しても、料理人が異なればできあがった料理の味がちがうのは当たり前のことだ。片岡は自分の腕に自信を持っている。秘密などは何もないと言いたげである。

ただ、一つだけ苦言を呈したい。たしかに、どの短篇も都会風で洒落ていて爽やかな好短篇に仕上がっている。それは認めるのだが、主人公の職業が、作家だったり、フリーランスの写真家であることが多すぎるような気がする。当然彼等を取り巻く人々は編集者や女優、ホステスと限られてくる。主人公の年齢や職業が変わらないと、男女の出逢いをテーマとする彼の作品の場合、よく似たテーマの使い回しが同工異曲という評を呼ぶのではないかと懸念するのである。

ニューヨーカーにでも登場しそうな、知的でありながら健康的なエロティシズムを匂わせる美女が活躍する片岡の短篇を愛する故に、このあたりをどう考えているのかを聞きたいと思う。
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