『随想』は、蓮實重彦の最も新しい単行本。雑誌「新潮」に連載した15本のエッセイを集めたものである。律儀なことに一章が四百字詰め原稿用紙28枚分。小見出しなしの一行あけ三部構成で、各章の冒頭は日時が記載されるという極めて厳密な形式で構成されている、というよりも好んでボウタイを締めてみせたりする著者のスタイリストぶりを披瀝したものと見る方があたっているかもしれない。
『随想』という、いかにも蓮實らしくない素っ気ないタイトルを冠して集められた文章は、一時期の蛞蝓が這った後に残る銀色に光る粘液の輝きにも似た文体は影を潜め、雑誌掲載を配慮したものであろう読みやすい文章で書かれている。しかし、その中身は、相変わらず皮肉で高踏的。本人の口を借りていうなら「小姑的な嫌味」に満ちたものである。
まず冒頭の第一章「文学の国籍をめぐるはしたない議論のあれこれについて」(各章のタイトルはいつもの蓮實調である)。ここで蓮實がやり玉に挙げているのは、ノーベル文学賞である。連載当時(2008年)のノーベル文学賞受賞者はル・クレジオだったが、「タイムズ」紙が、作家の出身地であるモーリシャス島が作家の出生当時英国領であったことを根拠に「半分は英国人」と報じたことを採りあげ、「このグローバライズ化された地球にあって、人はなお、ノーベル賞受賞者の国籍がたまたま自分と同じであることに悦びを見出さずにはいられないほどはしたない存在なのだろうか」と皮肉っている。
それは、英国に限らず、わが国においても同様で、村上春樹がノーベル賞をとるのではないかという期待がマスメディアにあって、その時期になるとよく話題となるが、もとより、アカデミー賞が映画としての良し悪しに関係ないのと同じで、ノーベル文学賞が文学の価値を保証するものでもなければ、それを受賞した国の国民の価値を計る物差しとはなり得ないことは、蓮實氏にあらためて指摘されるまでもなく自明のことである。
面白いのは、そのとばっちりを食らっているのが内田樹であることだ。新聞社から村上春樹のノーベル文学賞受賞に対するコメントを依頼されている内田が、自身のブログにこう書いた。
「蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は『詐欺』にかかっているというきびしい評価を下してきた。/私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。/だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、受賞に際しては『スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである』ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。私は蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す」(「内田樹の研究室」)
怖いもの知らずというのか、いつもの癖で筆が滑ったのか、ブログという気安さからか、よくもまあ蓮實重彦に向かってこんなことを、と評者などは思うのだが、これが逆鱗に触れたのだろう。『小説から遠く離れて』を読んでいれば分かるはずだが、蓮實の村上批判は、村上の「あまりにたやすく説話論的な還元に屈してしまう」点や、「たかが近代の発明にすぎない『国語』を自明の前提として書きつつある自分への懐疑の念」の希薄さという「近代小説」の書き手としての無自覚さに向けられたものであって、「高度消費社会のファッショナブルな商品文学」などという通俗的な理由ではない。
当然のことに蓮實は、村上がノーベル賞をとることに反対などしていない。反対することで「その気概に深い敬意を示す」といわれても、「敬意」の表明に接することだけはご免こうむりたい、と軽くいなしてこう続ける。
「この退屈な年中行事に三度もつきあわされてしまったという律儀なブログの書き手には、あまりにも意識の低いマスメディアから適当にあしらわれているという屈辱感がまるで感じられない。多少ともものを書いたことのある人間なら誰もが体験的に知っているだろうが、この種のコメントを求められて断れば、相手は涼しい顔で別の人間にあらためて依頼するだけのことだ。このブログの書き手は、自分がいくらでもすげ替えのきく便利な人材の一人であることを隠そうとする気さえない。」
東大仏文科の大先輩に、最後まで「ブログの書き手」、「大学の教師」としか呼んでもらえないでは、売れっ子の内田樹もかたなしである。