もう何冊目になるのだろうか。片岡がこのスタイルで短篇を書きはじめてから。主人公は女性。それもとびきりの容姿の持ち主で、無論独身。職業はフリーランスの写真家であったり、小説家であったりすることが多いが、独りで生きていくための能力を充分すぎるほど身につけている。美貌の持ち主で、その上実力があるから仕事は放っておいても向こうからやってくる。
季節は圧倒的に夏が多い。白い袖なしのブラウスや膝が見える丈のスカートにサンダルやパンプスといった出で立ちが定番。脚の美しい女性が好みのようで、女性美の規準は、この作家の場合脚にあるといっていい。相手役の男が写真家の場合、まずこの脚を撮ろうとする。しかし、そこまでだ。互いに好感を持っていることは知っているのに、再会を約束して話は終わってしまう。余韻たっぷりである。
両親はすでに亡く、実家には兄が一人いる。自分は東京のアパートや借家で独り住まい。男嫌いではないが、目下のところ独りといった立ち位置を好む。つまりは孤独で自由な生活がしたい。調理師免許を持つ腕前で食事は自分で作る。深炒り珈琲とサンドイッチ、鯛焼きが好き。
片岡はあとがきで、フィクションとして自分の対極にあるものとしての女性を主人公にしていると述べている。しかし、虚構なら女性にしても、もっといろいろなタイプの女性が考えられるだろう。虚構というより理想の女性像ではないのか。こんな女がいて、こんな町に住み、こんな生活をしてたら。作家の思いのままに描けるのだから何でもありだ。それが、このシンプルさ。
片岡義男の書く小説には不快なものが登場しない。人通りの絶えた盛り場や忘れ去られたような商店街、どこにでもある歩道橋や私鉄のホームといったありふれた背景に容姿端麗な美女を一人置くだけでストーリーが動き出すのだ。不必要な脇役や話が横道にそれるような夾雑物は徹底的にあらかじめ排除されている。
作家の目に映るのは、作家が見ようとしたものだけ。つまりはお気に入りの商品だけで構成されたセレクトショップのような小説集。あまり現役の日本人作家の小説を読まないので比べようもないが、こんな短編集ってほかでは見たことがないような気がする。
舞台背景と人物名を変えたら、『ニューヨーカー』あたりに連載できそうな匂いがしている。日本の夏から湿気を取り去り、男から汗くささ、女から世間体を気にする不自由さを取っ払ったような、全然日本的でない味わいの短篇小説集である。好きな人にはたまらないが、理解できない人には何の意味もない、嗜好品のような小説集、といったら言い過ぎだろうか。
久しぶりにお気に入りの喫茶店に入ったらいつもの味と香りの珈琲が出てきた。そんな味わいの短編集。