ガルシア=マルケスの『百年の孤独』との類似を論じた評が多いが、『百年の孤独』以後にこの手の物語を書けば、そう言われても仕方あるまい。ただ、首都にある「角の家」の中を歩き回る精霊たちや浮遊する椅子、床を叩いてお告げをする三本脚の机などのアイテムは、ラテン・アメリカというよりもゴシック・ロマンスでお馴染みの愛嬌者たちであって、土俗的な匂いの強いガルシア=マルケスの世界とは微妙に異なる。
語り口もちがう。『百年の孤独』の文体がその後頻繁に叫ばれるようになった「マジック・リアリズム」という名で呼ばれたのは、不思議極まりない出来事を当たり前のように物語るその筆法にあった。『精霊たちの家』の文体はむしろ古典的な物語の文体である。語り手は、椅子ごと浮遊するクラーラの能力を異常なものとして認識しているし、当の本人も「この家の人はみなどことなくおかしい」ことを知っている。つまり、周囲はすべて尋常であるのに、この一家の者だけが異常なのだ。
とはいえ、とても面白い作品であることはまちがいない。何より読みやすい。度々比較するのは作者に失礼だが、『百年の孤独』と比べて奇想のスケールがほどよく、読者がついて行きやすいのだ。物語は国会議員エステーバン・トゥルエバの回想ではじまり、孫娘のアルバの手記で幕を下ろす。主たる登場人物は二人の他にエステーバン・トゥルエバの妻クラーラ、その娘ブランカ、そして双子の兄弟ハイメとニコラス。この物語は老国会議員の回想記の体裁で書かれたクラーラ、ブランカ、アルバという女たちの三代記である。
「マジック・リアリズム」的色彩が強いのは、幼いクラーラの叔父マルコスの遺体が運ばれてくる冒頭部分。『百年の孤独』のメルキアデスを髣髴とさせるこの叔父の聞かせる話やトランクの中に入った神秘的な書物を日々の糧として育ったクラーラは精霊と話ができ未来を予言する能力を持った子どもだった。姉の死後、その許婚であったエステーバン・トゥルエバと結婚したクラーラは日々の出来事をノートに綴る。この物語の素材の多くはクラーラの書きとめた逸話である。今ひとつは話者であるエステーバン・トゥルエバ自身の回想、さらには後にこの物語を仕上げるアルバ自身の記憶。
クラーラというヒロインが魅力に溢れている。美しいだけでなく慈愛に溢れ、誰からも愛されている。しかも主婦としての実務的能力は皆無ときている。精力絶倫でかっとなると銀の握りのステッキを振り回し、あたる物を片端から打ち壊す恐ろしい権力者であるエステーバン・トゥルエバもこの妻にはかなわない。ごりごりの保守主義者ながら努力家でもあるエステーバン・トゥルエバは資産家となり、政治にも手を出す。舞台はチリ。思い出す人もおられようか。社会主義を奉じたアジェンデ政権がアメリカの支援を受けたピノチェト将軍の軍事クウデターによって倒されたあの事件を。
『精霊たちの家』を書いたイサベル・アジェンデは、その、サルバドール・アジェンデ大統領の姪にあたる。クラーラという女主人の存命中は、精霊たちの守護により、幸福感に溢れた一家であったが、クラーラの死とともに政治の季節を迎える。アルバの兄姉とその恋人は、社会主義や共産主義の運動に身を投じ、一家はイデオロギーの対立に翻弄される。クウデター下の虐殺、拷問を描く筆はマジックぬきのリアリズム。前半部分の幸福感を知っているだけに読者は対比的な後半部に胸塞がれる思いを抱くであろう。
エステーバン・トゥルエバがインディオの娘を強姦して産ませた庶子の子、エステーバン・ガルシア大佐は、総じて善意の集団である一家の負の遺産として登場する。フォークナーやドストエフスキーの作中人物を髣髴させるこの男の造型はクラーラ(光)に対する闇であり、天上的な世界に対する地上的な世界でもある。この対比は物語を劇的なものに変化させるだけでなく、文学的虚構をリアルポリティクスに限りなく接近させる。読者はラテン・アメリカ世界の持つ豊潤な文学的香気とともに苛酷な政治状況を否応なく突きつけられ、自分の生きる姿勢さえ問いつめられていることに気づかせられる。そういう意味では読後に一抹の苦味が残る。ジャーナリストでもある作家の一面がそこにある。訳者は木村榮一。極端に改行の少ない文章をよどみなく読ませる見事な訳である。