marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『巨匠とマルガリータ』 ブルガーコフ

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)
もうずいぶん昔、『輪舞』という洋画があった。オムニバス風にいくつかのエピソードがあって、ひとつのエピソードの最後のシーンが次のエピソードの始まりにつながるというしゃれた形式だった。そこから、こういう映画のことを「ロンド」形式と呼ぶようになったとか。淀川長治が映画解説でしゃべっていたのを記憶している。ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』が採用しているのがその形式である。 
映画のほうは、衣装や背景の関係上、同時代の地続きの場所につなげざるを得ないが、テクスト上ではどこにでもつなげることができる。たとえそれが20世紀のモスクワからイエスが処刑される日のイスラエルにだったとしても。そう、この小説では章が変わるたびに時間や場所は自在に変化する。まるで魔法のように。
事実、魔法が使われるのだ。なにしろ主要な登場人物が悪魔なのだから。といっても、この悪魔のすることはたいしたことではない。魔術のショーを興行し、空からルーブル紙幣を降らしたり、パリ直送のモードを無料で頒布したり、もちろん魔術なのだから紙幣はワインのラベルだし、洋服は本人に見えているだけでそんなものもともとありはしない。まあ、首を引き抜いたりもするが、それくらいは悪魔なのだから当たり前だ。
悪魔を信じようとしない頑迷な輩と欲に目がくらんだ者だけが相応の罰を受ける。日本ならさしずめ天罰といったところだ。二元論的な世界観を持つキリスト教社会では、悪魔は必要悪なのだ。ヒロインのマルガリータは自らを解放するため、進んで魔女になろうとする。悪魔の夜宴サバトに参加するため衣服を脱ぎ捨て全身にクリームを塗りこみ、ほうきに乗って飛翔するのだからすごい。パニック状態に陥る一般大衆とは心意気がちがう。
圧巻なのは、悪魔ヴォランドが主催する夜宴だろう。燕尾服姿の男と髪飾りと靴以外は何も身に着けていない女が次々と登場する。ダンテの『神曲』の地獄めぐりを髣髴させる様々な悪徳のエピソードを纏って。ヴォランドに請われ、その夜宴で女王役を務めることで信用を得たマルガリータは悪魔の助けを得て愛する作家と再会を果たす。
物語がはじまってからしばらくは何が起きているのか読者にもよくわからない。だって、主要な登場人物と思われたベルリオーズ(作曲家ではない)はすぐに轢死してしまうし、その話し相手だった(宿なしの)イワンは精神病院に入れられてしまう。それもこれも悪魔を信じなかったばっかりに。当時のモスクワの住宅事情を風刺しているのだろう、悪魔でさえモスクワでの居場所を確保するためにベルリオーズ接触を試みたのだ。科学的社会主義を信奉する二人は簡単に悪魔の手中に陥ってしまう。
作者のブルガーコフは、並々ならぬ才能を持ちながら、作品を発表する機会を得ることなく、この幻の大作を残して早世した。作中、巨匠と呼ばれる作家も自らの作品を暖炉に投げ入れるなど、世間に認められない芸術家の悲哀を体現している。その意味で、本作は自己言及的な小説といえる。その「巨匠」の小説というのが、イエスを処刑しなければならなくなったピラトの葛藤を描いたものである。本作は、その小説世界と悪魔が跳梁跋扈する現実のモスクワ、そして悪魔の夜宴が行われる異世界という三つの世界を往還する。
何故モスクワに悪魔が登場するのかといえば、悪魔はピラト(ピラトゥス)とイエスヨシュア)が対話する場面に立ち会っていたからだ。現実のモスクワは、科学的社会主義を奉じる人間が支配する社会である。「宗教は阿片である」と言ったマルクスキリスト教を認めるはずがない。巨匠の小説が掲載されない理由はそこにある。しかし、キリスト教が認められなければ、悪魔にも出番がない。悪魔が巨匠擁護の側に回るのは必然である。そこで悪魔は自分の存在を見せ付けるためにモスクワ中を引っかき回す挙に出たわけだ。
現代のモスクワに出現する抱腹絶倒のカーニバル的世界。非人間的なイデオロギーによって本来的な人間の存在様態が否定されている現実に対するアンチテーゼの表現として秀逸である。しかし、それ以上にこのてんやわんやは読んでいて面白い。シニカルでペダンティックなヴォランドはじめ、その手下三人の造形は非凡。これまでの悪魔など尻尾を巻いて逃げ出しそうなほどだ。ブルガーコフは上手い作家である。
ヨシュアの処刑を止め切れなかったことを思い悩むピラトゥスの葛藤は、ヨシュアとの対話から生じてきている。マタイの書きとめた自分の言葉は嘘ばかりだとこぼすイエスヨシュア)の造形はマルクス主義者からもキリスト者からも批判を招くものだろう。世俗的であれ、宗教的であれ、完璧な世界などこの世には存在しない。月下のバルコニーで愛犬と不眠の夜を過ごすピラトゥスの姿は、生きている限り思い悩む存在としての人間を描いて哀感が強い。
魔女になってでも愛する巨匠の小説を世に出したい、と何もかも捨てて行動するマルガリータの姿は、愛するものの強さを描いている。しかし、この可愛い女は、巨匠を中傷した批評家の家をハンマーでもって破壊しつくすという恐ろしい面も持つ。知的ではあるが自分を恃みきれない巨匠のような男には、マルガリータのような無批判で意志的行動的な女性が必要なのだ。
大作ではあるが、短い章立てが、それこそロンドのようにくるくると展開し、あれよあれよと見ているうちに大団円を迎える。決して表面には出さない作家の思いのようなものが読後、こちらの胸に響いてくる。面白い小説を読みたい人にお薦めしたい。