『マルタの鷹』は、ダシール・ハメットの代表作であるだけでなく、ここからハードボイルド探偵小説というジャンルがはじまったというべき記念碑的な作品である。サム・スペードがいなければ、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウも、ロス・マクドナルドのリュウ・アーチャーも存在しなかった。そういう意味で、探偵小説の世界では誰一人知らぬ者のいない作品である。あまりにも有名な小説で、ジョン・ヒューストン監督、ハンフリー・ボガート主演で映画化されていることもあり、評者などもテクストをしっかり読むこともなく、映画を見て内容を知ったつもりで済ませてきた。
惜しむらくは、本人の与り知らぬところでハードボイルド探偵小説という流れを作り出したことで、結果的にエンタテインメント小説(日本でいう大衆小説)のジャンルに括られることになってしまい、その後大量に配給される傍系小説と同じように消費されることになったところに恨みが残る。村上春樹が、『ロング・グッドバイ』のあとがきに書いているように、チャンドラーをフィッツジェラルドと同世代の都市小説作家として読むことが可能ならば、ハメットもまた、ヘミングウェイやフォークナーと同時代のモダニスム作家として読むことができるのではないか。この本は、その疑問に答えるべくして書かれたともいえる。
村上春樹は翻訳という行為を通して、チャンドラーを読み直す機会を与えてくれたのだったが、諏訪部浩一は、精神分析的批評やラカンの「象徴界」、フェミニズム批評のジェンダー論など、現代批評理論を駆使した「講義」というかたちでハメットの再読を迫る。正直、純然たるハードボイルド探偵小説ファンには耳慣れない批評用語が頻出し、面食らう部分もある。
ただ、しつこいくらい繰り返して解釈されるので、はじめはとっつきにくいかもしれないが、次第に筆者の言わんとするところが分かってくる。なにしろ二十章もある作品を一章ずつに区切っての講義である。講義を聞いた後で、小説『マルタの鷹』の同じ章を再読して確かめる。そのリズムがつかめれば、後は一気に『マルタの鷹』という小説が、単なる「ハードボイルド探偵小説」として済ませることのできない多面的な相貌を持つモダニズム小説であったかを知ることに困難はない。
『マルタの鷹』は、ヨハネ騎士団にまつわる宝石で飾られた黄金の鷹像をめぐる「冒険小説」であり、ミステリアスな美女、ブリジッドとスペードの「恋愛小説」でもある。しかも、歴とした「探偵小説」であるとともに「ハードボイルド探偵小説」の嚆矢でさえある。ここまでは、誰にでも理解できるところだ。筆者の眼目は、サム・スペードを取り巻く三人の女、依頼人であるブリジッド、冒頭で殺される相棒の妻で、サムの愛人であるアイヴァ、それに探偵事務所の秘書エフィを、それぞれファム・ファタール(運命の女)、ビッチ(牝犬)、母と考えることで、この円環構造を描く小説の中で、スペードがハードボイルド探偵として、いかに自己を全うできるか、そしてハメットが、どのようにしてジャンルとしての予定調和を阻んだかを論証して見せるところにある。その帰結として、『マルタの鷹』は、「ハードボイルド探偵小説」というジャンルの先駆的作品でありながら、見事にそれを脱構築した作品であったことが明らかになる。この論証過程が読みどころで、特に最終章の秘書エフィとスペードのやりとりの読解には、よくできたミステリにも似た「どんでん返し」の醍醐味が味わえる。
人類が始めて大量死というものを経験した両大戦間という時代背景に加えて、禁酒法時代のアメリカにおける警察の腐敗という状況の解説も詳しく、ドロシー・セイヤーズから笠井潔に至るまで、数多の探偵小説論を引っ張り出し、必要とあれば長文の英語原文の引用もはばかることなく、まこと「講義」の名に相応しい充実した内容である。なにしろ、ものが探偵小説であるので、解説には慎重を要する。ハードボイルド探偵小説は、本格ものと比べれば謎解き興味は薄いと考えられるが、そこは、綿密に構成されており、初めて読む読者なら、一章ずつ読んでいくことで、謎解きの感興がそがれる心配はない。翻訳だけでも六種あるというが、講義には小鷹信光氏の訳が使われているようだ。評者は村上啓夫訳を用意したが、特に不都合はなかった。むしろ、訳者によって解釈の違いが楽しめて得をした気分であった。