marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『みみずく偏書記』

みみずく偏書記 (ちくま文庫)
由良君美といえば、今では、その著書もほとんど絶版となっているが、70年代怪奇幻想文学の一時的なブームが起こったとき、仏文学の澁澤龍彦、独文学の種村季彦と並び、英文学の先達として脚光を浴びた一人。代表作に『椿説泰西浪漫派文学談義』がある。もともと、コールリッジを専門とする英文学者であるが、愛書家、読書家として知られ、美術にも造詣が深い。平井呈一に私淑し英語、翻訳においても一家言をもつ偉才である。

曽祖父は明治時代に英和辞典を編纂した学者。父はカッシーラと親交のあった哲学者という恵まれた家門に生まれる。蒲柳の質で、幼少期から家で本ばかり読んで過ごしたという筋金入りの書斎人。単に読書量の多い所謂読書家とはちがい、本というものを愛する愛書家、本人の言葉を借りれば「書痴」である。

そのため、この本の中でも、本というものの体裁、造本から構成まで、現今の本には厳しい批判を加えている。その一方で、あまり世に知られていないが、筆者の目にかなう本、著者については、手ばなしで絶賛している。その両極端に走る性向には、熱心な讃仰者がある代わり、敵も多かった。東大受験に失敗し、学習院、慶応で学位を取得、後に東大教授となるが、学内出身でないこともあり孤立。晩年は酒量も増え奇行が目立ったと伝え聞く。蝶ネクタイにパイプというダンディーぶりで知られるが、洋行経験はない。自分の能力への絶大な自信と自己に欠落した部分に対する秘されたコンプレックスという矛盾したアイデンティティにこそ由良君美という文学者の真骨頂がある。

由良も好んだ批評家、花田清輝に「楕円幻想」という一文があるが、由良本人も自分の中に二つの中心があることを意識していたふしがある。たとえば、詩について文語、雅語を典雅に使用した詩に魅かれる半面、平明な散文を駆使した詩にも魅力を感じるといったように。その振幅の大きい自我に内在する批評性こそが由良の持ち味である。

独断と偏見に満ちた一刀両断のごとき切れ味の文章の裏には、犀利な知的営為が存するのであり、無闇矢鱈に敵に切りかかっているのではない。専門莫迦では到底不可能な古今東西の文献を気の向くままに渉猟し、しかもそれを記憶する傍から忘れ、やがて厖大な無意識の底に沈める。あるとき、それは、新しく出会った何かと反応し意識の表面に浮かび上がり、全く異なった相貌の見解となって由良の筆先から躍り出すのだ。

1983年に青土社から出たものの文庫化。筆者自ら書いているように「本についての本」である。こちらの不勉強を棚に上げていうのもなんだが、採りあげている「本」と、その著者が、ほとんどはじめて目にする名前ばかり。中には夢野久作の父、杉山茂丸の『百魔』のような名の知れたものもあるが、由良の専門分野である英文学や哲学に関するものは、全くもってお手上げである。連載当時の雑誌読者には自明なのかもしれないが、一般読者には初耳だろう。それでも読ませる。世界には、こんなにも凄い人がいたのかと驚き、やがて自分の知的領域の狭さに気づかされ畏れる。それが狙いなのだ。悪くとれば虚仮脅かし。「どうだ、凄いだろう。世界は広いのだ。ちっとばかし日本で文学や哲学をかじったところで、そんなもの何ほどのことがある。」といったところか。

稚気溢れるといっては失礼千万。悪口ではない。こと文献渉猟に関して由良の右に出るものなどない。その道の大家が素人に向けて大見得を切って見せるような大人気のなさがひとつの魅力になっているといってもよい。畏れ入りました、とかしこまっていればいいのだ。由良に愛された弟子たちのように、この碩学の博学多才ぶりに驚き呆れながらも、憧れ仰ぎ見て、その導きによって知の大海に漕ぎ出せばいい。自分の不勉強を棚に上げ、地位に便々として恥じぬ輩には厳しくとも、同じ道を行こうとする若輩には実に優しい。懇切丁寧に教えを垂れてくれる。まちがっても批判などしてはいけない。もし、そんな思いを持つとしたら、所詮行く道がちがうと知れ。とっととこのテーベの大門を去り、何処へなりと行けばいい。誰も止めはしない。