言葉が出にくくなった。ひと頃なら、思い出そうとする努力もなしに、言葉があふれ出してきたものだが、昨今では何かを言おう、書こうとすると、まず心に浮かんだことを言い表す言葉を見つけなければならない。努力を怠れば、いつも同じ言い回しの繰り返しになる。日常生活ならそれでもいい。「ほら、あれ」で通るのだから。
しかし、たとえつまらぬ内容でも、文章にしようとすれば、いつも同じ言葉で済ますわけにはいかない。そこで、同じ内容を表す別の言葉を捜すのだが、それがなかなか出てこない。
昨日は、ついにずっと前に買ったままで使っていなかった「類語大辞典」を持ち出した。たとえば、「若者」という言葉を別の言葉で表したいと思ったら、まず「若者」を引き、その類語の出ているページを探すのだ。「青二才」や「小僧」など、よく似てはいるが、微妙にニュアンスの異なる単語が並んでいる。
その中から自分がいちばん表現したい語感を持った単語を抜き出せばいいわけだ。たしかに、こうして探せば、近似の言葉が見つかるような気はする。ただ、本来自分が使いたかった言葉が、それであるという実感に乏しい恨みが残る。自分の中に蓄えられてきた膨大な語彙に自由にアクセスできない、この不自由さが老化というものなのだろう。
ちょうど、新しいコンピュータを買ったばかりなので、古いコンピュータに対する思い入れが強い。自分もまた古いコンピュータのようなもので、メモリ容量も貧弱、CPUも今のものとは桁違いで使いものにならなくなった。外部のサーバを引き出しにして、なんとか使いこなしていかなければならない。コンピュータは買い換えることができるが、自分の脳は買い換えることはできない。こんなことならもっと、脳を大事にすればよかった。飲酒は毎日脳細胞を壊し続けているという。晩酌の習慣を見直せばよかったと、少し後悔している。