marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『終わりの感覚』 ジュリアン・バーンズ

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)
高校時代の歴史の時間、老教授の「歴史とは何だろう」という問いに、主人公トニー・ウェブスターは「歴史とは勝者の嘘の塊です」と答えている。斜に構えて見せたつもりだろうが、紋切り型の使いまわしにすぎず、主人公の凡庸な人となりを現している。老教授は「敗者の自己欺瞞の塊であることも忘れんようにな」と生徒を諭す。同じ問いに主人公の親友エイドリアンは「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」と、先人の言葉を引用して答える。この問答が、この小説の主題である。
今は引退し、平穏な生活を送っていた主人公のところに、かつての恋人の母親から遺産として500ポンドとエイドリアンの日記が遺されたという手紙が届く。エイドリアンは高校時代の憧れの人物であったが、別れた恋人ベロニカが自分の次に選んだ相手でもあった。何故エイドリアンの日記がベロニカの母の遺品となっているのか?また、その日記がなぜ送られてこないのか?主人公は疎遠になっていたベロニカの消息を尋ね、やがて衝撃の真実を知る。
60年代に青春時代を過ごし、一流とまではいかないが、二流の上くらいの人生を生きてきて、今はボランティアなどしながら余裕のリタイア生活を送っている。良くも悪くもない平均的な人物の代表のようで、同世代の読者からすればまるで自分のことを描いているように思わせられる。
たとえば、彼女のチェックを受けるレコード棚の話。彼女が毛嫌いするチャイコフスキーの『序曲一八一二年』と『男と女』のサントラ盤は隠してある。問題は大量のポップスだ。ビートルズストーンズは許されるが、ホリーズ、アニマルズ、ムーディーブルース、それにドノヴァンの二枚組みアルバムは「こんなの好きなの?」と言われてしまう。このあたりでニンマリするご同輩も多いのではないだろうか。
齢を重ねれば、誰にだって一つや二つ心に突き刺さった棘のようなものがあるにちがいない。ただ、それは時の経過とともに記憶の劣化作用を受け、尖った角はまるく削られ、その上を幾重にも皮膜が被い、かつてあれほど感じた痛みを感じなくなってしまっている。
この小説は、それを一気にひっぺがす。小説は読者を問い詰める。いかに矮小であったにせよ一人の男の人生もまた歴史である。おまえのそれは「敗者の自己欺瞞の塊」ではなかったか、「不完全な記憶が不備な文書と出会ったために生まれた確信」に過ぎぬのではないか、と。臆病で、面と向かって真実に向き合う勇気がなく、日々を無事に送ることだけを念じ、面倒なことに背を向けて生きてきた結果としてある平和な老後。それが如何に欺瞞に満ちた偽りの平穏であるかを暴き立てずにはおかない、これは残酷な小説である。
周到に準備され、張りめぐらされた伏線、後の事態を暗示する象徴的な事件、結末に用意された衝撃のどんでん返し、と上質なミステリを読むようなサスペンスフルな展開。『フロベールの鸚鵡』などで知られる、どちらかといえば既成の小説の枠を越える小説を書いてきたバーンズだが、それまでの実験的な作風を封印し、人生に真正面から切り結んだ実に小説らしい小説である。2011年度ブッカー賞受賞作。
蛇足ながら、ドノヴァンの二枚組LPのタイトルが『花から庭への贈り物』と訳されている。“a gift from a flower to a garden”だから、訳としては正しいのだが、発売当時の邦題は『ドノヴァンの贈り物/夢の花園より』だった。当時のファンとしては、邦題でないと、あの民族衣装風の装いをしたドノヴァンの姿が浮かんでこないのだが、今の読者にはどうでもいいことなのかもしれない。