marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第26章

マーロウは、怪我をしたロジャーをキャンディの手を借りてベッドに運ぶ。キャンディは、夫人との関係を揶揄したことで、マーロウに痛い目に合わされる。気がついたロジャーは、マーロウに夫人の無事を確かめた後、睡眠薬を飲んで眠りにつく。

非番のキャンディは、ダウンタウンにでも遊びに行ってたのだろう。パリッとめかしこんでいる。その描写。

“The mex had a black and white checked sport shirt, heavily pleated black slacks without belt, two-tone black and white buckskin shoes, spotlessly clean.”

清水訳「メキシコ人のキャンディは黒と白の格子縞のスポーツ・シャツにひだの多い黒のスラックス、ベルトはなく、きれいに磨かれた黒と白のバックスキンの靴をはいていた。」
村上訳「メキシコ人は白と黒のチェックのスポーツ・シャツに、たっぷりとプリーツのついたベルトなしの黒いズボン、しみひとつない黒と白のコンビのスエード靴といういでたちだった。」

冒頭の“The Mex”を、村上氏は「メキシコ人」と、そのまま訳しているが、清水氏にしてはめずらしく「メキシコ人のキャンディは」と、言葉を重ねている。前の章で夫人が「キャンディを探してきます」と、言い置いているのだから、“The Mex”がキャンディを指していることを読者は知っている。名前を知っているのに、わざわざ“The Mex”という呼称を遣うのは、得体の知れない使用人キャンディに対するマーロウの不信感の現れではないだろうか。

また、細かいようだが、スラックスのプリーツはワン・タックなのか、ツー・タックなのかが気になる。「ひだの多い」という書き方からはひだの数が多いように読めるし、「たっぷりとプリーツのついた」だと、数ではなく一つのひだの幅が広いようにも読める。あの時代、映画などで見る限り、紳士用のズボンはたっぷりとした幅があった。今だったら、キャンディにはぴっちりした細身の「パンツ」が似合いそうなのだが。

服装にこだわってしまうのは、チャンドラー自身にこだわりがあるように思えるからだ。それも男の服装に。“two-tone black and white buckskin shoes, spotlessly clean”だが、清水氏の「きれいに磨かれた黒と白のバックスキンの靴」という訳はどうだろうか。「バックスキン」は文字通り「鹿革」なのだが、表面を毛羽立てた加工をしてある。ブラッシングで手入れをすることを「磨く」というのはちょっと苦しいのではないだろうか。また、村上氏はバックスキンをわざわざスエードに変えているが、厳密にいえば、バックスキンとスエードは似て非なるものだ。革の表皮を使うか、裏皮を使うかの違いだったと思うが、わざわざスエードにしなくてもバックスキンのままで通じるのではなかろうか。

アイリーンの寝室の前で、「扉を叩けば開けてくれるかも」と軽口を叩いて、マーロウに腕を強くつかまれたキャンディの表情を表す次の箇所。
“He winced a little and then his face set hard”
清水訳は「彼は眼をぱちぱちさせて、かたい表情を見せた」。腕の付け根に指が食い込むほど強くつかまれたとき、果たして眼をぱちぱちさせるものだろうか。村上訳では「彼は少したじろぎ、表情が硬くなった」となっている。ここも変だが、次のウェイドとマーロウの会話の場面は、もっとおかしい。

“Did I―”He stopped and winced.

酔いつぶれ、妻に暴力をはたらいてしまったかどうかの記憶も定かでない作家が、自分の不安な気持ちを表す部分である。
清水訳…「もしや、ぼくは―」その後はいわないで、片眼をつぶって見せた。
村上訳…「ひょっとしてまた―」、そこでひるんだように言い淀んだ。

「片眼をつぶって見せた」でお分かりのように、作家はここでウィンクをしてみせたと、清水氏は読んだらしい。それは、ありえない。たしかにウェイドは自己韜晦もしてみせる食えない男だが、妻に対しては誠実である。探偵に片眼をつぶって共謀をそそのかすようなことはしない。“wince”は、村上氏の訳にもあるように「たじろぐ」とか「ひるむ」という意味の単語である。作家は「もしかしたら、ぼくはまたやってしまったではないのか」という不安に言葉を濁したのだ。清水氏は“wince”を“wink”と、読みまちがえたにちがいない。そう考えれば「眼をぱちぱち」も「片眼をつぶって見せた」も訳が分かる。名訳の誉れ高い清水訳にして、こういうミスが起きる。翻訳というのは難しいものだ。

あらさがしばかりするつもりは毛頭ないのだが、最後にもう一つ。ローリング医師が夫人のために処方した睡眠薬のセコナールについて。原文は、
“Seconal,11/2grains. Prescription by Dr.Loring. That nice Dr.Loring. Mrs.Roger Wade's prescription.”
清水訳「セコナール、21/2グレイン。処方ローリング博士」
村上訳「セコナール、一錠半服用のこととある。ドクター・ローリングの処方したものだ。親切なドクター・ローリング。ミセス・ウェイドのために処方されている」
相変わらず、あっさりとした清水訳だが、1が2になっているのはいただけない。単なる誤植かもしれないが、一錠半の処方だから、ウェイドは「一錠でいい」と言ったのだろう。しかし、眠れないので、後でもう一錠飲んでいる。一錠半は夫人への処方だ。大男のロジャーには一錠では足らなかったのだろう。一錠半のところを二錠飲んで、ようやく眠くなる。はじめから2錠半なら二錠飲むところだ。夫人に対する処方である点をいつものようにカットしてしまうから、こういうことが起きる。この章は短いこともあって、清水氏、ちょっと飛ばし過ぎたのかもしれない。