marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『落語の国の精神分析』藤山直樹

落語の国の精神分析
著者は日本にたった三十人ほどしかいない精神分析家にして、年に一度はみっちりと新ネタを仕込んで客に披露する落語のパフォーミングアーティスト(職業的落語家ではない)である。小さい頃からの落語好きが嵩じて、喰いっぱぐれる心配のない今の職業についてから、落語修業を再開したという。このあたりの計算ができるのが、所謂「落語家」とちがうところだ。落語家というのは、単にネタを覚えて人前でしゃべることができる人のことではない、というのがこの本の大事なテーマの一つ。つまり、落語家論でもあるのです。この本。

もう一つのテーマ、それは分析家から見た落語世界の住人たちの精神分析の臨床カルテなのです。落語には、かなりおかしな人々が登場します。いや、中心になっているのは、ほとんどおかしな人物であるといっていいでしょう。その人物の不条理な言動を落語家の語りによって聞きながら、客の方は涙を流して面白がっているわけです。どうして、そんなことが起きるのか、その不思議の理由を探る、というのがこの本のもう一つの主題という訳です。

かいつまんでいいますよ。詳しくは本を読んでください。たとえば「らくだ」は、「死体」をめぐる二種類の人間の在り様、つまり「死体」を恐れる人間(月番と大家、漬物屋)と恐れない人間(屑屋と平次)、さらに酒を飲んだことによって、その平面からも逸脱していく屑屋の狂気を描いた物語ということになる。

「芝浜」はアルコール依存症の患者が立ち直る姿を描いた物語に、「よかちょろ」は、父性の不在ゆえに、いい歳になってもエディプス・コンプレックスを克服しきれず「父殺し」を夢見る若者の不幸を描いた物語となる。以下、「文七元結」、「粗忽長屋」、「居残り」、「明烏」、「寝床」と続く。興味のある向きは是非読まれたがいい。

文学批評理論に精神分析批評という流派がある。ラカンスラヴォイ・ジジェクなどが有名だが、この本は、その批評理論を落語という分野に当てはめてみたという点で画期的といってもいいだろう。誰もやらなかったことをはじめてやるから意味がある。著者も書いているが、落語のネタ(著者は根多と表記している)の多くは、ずっと民衆の間に語り継がれてきたフォークロアである。昔話やファンタジー精神分析に採りあげられるのだったら(実際によく採りあげられる)、落語だっていけるはず、というより、長年落語世界と親しんできた著者は、彼らとつき合ううちに、その職業的意識が発動し、どうしても落語世界の住人を精神分析しながら聴く癖がついてしまったようなのだ。

与太郎や左平次にはとんだ迷惑だろうが、傍で見ている客には滅法面白い講義となっている。自分というものが一つではなく、いくつもの自分が同時に存在しているのが普通で、それをどうにか統御し続けているのが正常人であるとか、著者自身(「注意欠陥」と診断)も含め、全ての人間は何らかの意味で「病人」であるとか、すとんとこちらの腑に落ちる話が、落語論の前ふりに使われていて、生きることとか、自分とか、自殺とかについて一度でも真剣に考えたことのある人には、新しい展望が開けるような話が満載である。

それにもまして圧倒的なのは落語家という存在について、である。巻末に著者偏愛の立川談志の弟子、談春との対談が組まれている。ここでの談春のはじけ方が半端でない。落語家というのは、殆ど落語世界の住人を地でいっているのだ。それまでけっこう奇矯な解釈を振り回してきた著者が、ただの正常人に見えてしまうくらい、その異世界住人ぶりはすごいの一語に尽きる。『赤めだか』が読みたくなった。

落語と精神分析のどちらにも興味や関心のある人ならもちろん、どちらかに少しでも興味があれば頗る面白く読めるはず。おすすめです。