marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『遊戯の終り』フリオ・コルタサル

1956年発表というのだから、パリに来てまだ五年しかたっていない頃の作品である。掌編といってもいいほど短い作品も混じっているが、とてもとても習作などとは呼べない完成度を見せている。とはいえ、まだどこか初々しさを感じさせるコルタサルを知ることのできる初期短篇集。

日常の何気ない出来事ともいえないような些事の中に潜んでいる「向こう側の世界」への裂け目を見つけるのが、コルタサルは巧い。「誰も悪くない」は、待ち合わせ中の妻のところにかけつけようと、急いでセーターを着かけた男のいささか滑稽な情景を描いている。あわてていて通すところをまちがえたのか、なかなかセーターが着られない。手や頭が外に出ないので、身動きが取れなくなるなどというのは、誰でも一度や二度は経験があるにちがいない。ただ、それがコルタサルの手にかかると、背筋が寒くなるような怪談に変わる。自分の意思に逆らって、わが身を絞めつけ絡めとろうとしてくる何かに対する不安が、現実の世界を異界に変える。

「ねじこむように手を通してゆくと、わずかだが通ってゆき、やっと青いセーターの袖口から指が一本のぞいた。夕方の光を受けたその指は内側に折れまがり、皺だらけで先には尖った黒い爪がついている。」

セーターが異界との通路と化し、そこを通り抜けた手は、最早自分の手でありながら魔物のそれのような禍々しい形状に変貌を遂げている。あわてて抜くと別段変わったこともない。セーター(通路)の入り口に戻ったからだ。安心して頭も左手もセーターの中に入れてしまうと、再びセーターの外に出た右手はさらに勝手な動きをしはじめ、ついには左手に噛みついたり顔を引っかいたりしはじめる。外側から見れば踊りでも踊っているように見えるが、内側では恐ろしい混乱が生じている。セーターと右手のない世界に逃れようとした男を待っていたものとは。

自分の中にあって、自分の自由にならないものを、人は誰でも持っている。多くの人はうまくそれを誤魔化し、それと折り合いをつけ、気づかないふりをして世間を渡っているのだ。しかし、感受性が強かったり、神経質すぎたりする人は、それに目を瞑っていることができない。それは恐怖であり、苦痛だから。

コルタサルの世界は閉じている。すべては独白の世界だ。対話形式であっても相手はもう一人の自分に過ぎない。他者の入り込む余地のない自閉空間。水族館の水槽の中にじっとしている山椒魚を毎日毎日飽かず見続ける「山椒魚」の少年は知っているのだ。その山椒魚が自分であることを。バスの中で幼い頃の自分そっくりの少年を見つけ、仲よくなる「黄色い花」の男もまた、それが小さい頃の自分に他ならないことを知っている。しかし、それを他者にどう分かってもらえばいいのだろう。少年はふと思いつく。どうせ他人はそれをまともに受け止めない。それなら、いっそ「奇譚」として語ればいいのだ。こうして一人の幻想小説作家が誕生する。

異国で生まれ、幼少時に帰国したと思ったら、父が出奔。母親は子どもを親戚に預けて働き、女手ひとつでフリオを育てたという。多感な少年の心は、如何ばかりだったであろう。そのせいか、少年時代を舞台にした作品がコルタサルには少なくない。本作の中では、「殺虫剤」「昼食のあと」「遊戯の終り」がそれに当たる。どれも少年時代の心のふるえが伝わってくる優れた出来映えをみせている。孤独であるからこそ、人一倍他者に認められたい気持ちが強くなる。複数の人間が互いの愛を求め合う立場で対峙するときに生じるきしみに異様に敏感な少年少女の心理を描くとき、コルタサルの筆は余人の追随を許さない。

ともすれば、自分の心の闇に怯え、他者との関係の難しさに挫けそうになる、若い時代に読みたかったと思う短篇集である。