カリブ海に浮かぶサント・ドミンゴ島の西部に位置するハイチは、ラテン・アメリカ諸国で初めて独立を果たし、共和国となった国である。カリブの海賊といえば、ディズニー社製のアトラクションや映画を思い浮かべるかもしれないが、17世紀にはハイチ島を基地としてフランスの海賊が海を荒らし回っていたのだ。しかし、18世紀後半、宗主国フランスに革命の嵐が吹き荒れると、植民地も政情不安となり、動乱の時代を迎えることとなる。この物語は、それより少し時をさかのぼり、1751年に幕を開ける。
『この世の王国』は、フランスの一植民地であったハイチが、いかにして奴隷制を廃し、自分たちの手で共和国を樹立することに成功したかという歴史を、ひとりの奴隷の目を通して描いたものと一応はいえるだろう。ただ、そういうと何やら難しそうな歴史小説を想像してしまいそうだが、そう思わせたなら紹介者の筆のまずさ。この小説、人間が虫や鳥、けものに変身したり、生き埋めにされた大司教の霊が化けて出たり、魔女が毒薬を調合したりというゴシック・ロマンも真っ青の怪奇幻想小説仕立てに仕上がっている。
変身の主は、修行の果てにブードゥーの祭司となったマッカンダルという奴隷。魔女に習った毒薬で農場主たちを毒殺し、ハイチ独立のさきがけとなった。マッカンダルは火刑に処されて果てるのだが、ブードゥーを信じる奴隷たちは彼は変身して逃れたと信じて疑わない。これがこの後に続く暴動、革命の原動力となる。
四部構成のこの小説、第一部はマッカンダルの事跡から始まるのだが、その前に序文が付されている。その中で作家は、自身が影響を受けたシュルレアリスムの運動が生み出した「驚異的現実」の実体が如何に貧寒としたものであったかを、徹底的にこき下ろしている。形骸化した想像力がひねりだした蝙蝠傘とミシンの手術台の上での出会いなどより、自分が訪れたハイチで目にしたかつての王国の廃墟や民衆の中に生きるブードゥーの魔術、音楽、舞踊などの方が、どれほど驚異に満ちた現実であるかを熱っぽく語っているのだ。
では、いったい何が作家をして、そうまで思わしめたのであろうか。遥か谷底を見下ろすように、今も聳えるラ・フェリエール城砦と、その眼下に広がるサン=スーシ宮の廃墟の景観を目にしたことが大きかったのではないか。ピラネージの名を出して、その偉容を形容しているが、同じ版画に影響を受けたホレス・ウォルポールのストロベリー・ヒルやウィリアム・ベックフォードのフォントヒル・アベイに比べ、その規模や形状は想像を絶している。
第二部はジャマイカのブックマンという、やはりブードゥーの祭司が先導した革命の顛末と、その鎮圧を命じられたナポレオンの義弟ルクレルクに従ってハイチを訪れた妻ポーリーヌ・ボナパルトの浮世離れした暮らしぶりを描く。疫病に冒され、暴動の起きているハイチをまるでポールとヴィルジニーの暮らす楽園でもあるかのように思いなすポーリーヌのノンシャラン振りが、どちらかといえば血なまぐさい世界を陽気な色にぬりかえる。そのコントラストが強い印象を残す。
第三部は、カプ市で人気レストランの料理長をしていたアンリ・クリストフがフランスの絶対王政を模した独裁政治を行い、同じ黒人の奴隷を酷使して王宮と城砦を築き上げるが、圧制のつけが廻り、家臣に見限られ、黄金の銃弾で自殺を図る。その最期を、城砦を築くための煉瓦を肩に、蟻の行列のように山道を登らされる奴隷の一員となった主人公ティ・ノエルの目を通して描く。
どれだけ暴動を起こし、奴隷が王になろうが、大統領になろうが、虐げられた者の暮らしは一向によくならない。第四部は、そんな人間に絶望した主人公が蟻や蜜蜂、鵞鳥に変身したすえ、悟るところがあって結局人間の姿に戻るが、大風のあとには何も残らないという寓意性の強い物語になっている。
『この世の王国』が描いた「驚異的現実」をもってマジック・リアリズムの嚆矢とする説があるようだが、それは、すこしちがう。たしかにめくるめく物語であり、ブードゥー教の儀式や変身譚が出ては来るが、ガルシア=マルケスの描く世界とは微妙に温度差がある。シュルレアリスムの影響を受けたカルペンティルの眼差しは以外に冷静で、野放図なマジック・リアリズムの詐術に依らない合理的な解決が可能な視点が貫かれている。古典的な稀譚の風趣を漂わせた格調を感じさせる文章であり、評者などは、むしろこの描き方を好む者である。とんでもない奇想の書のように受け止める向きもあろうかと思われるが、歴史上の事実を根拠にしている。いかに驚異的であれ、これがアメリカの現実なのだ。ラ・フェリエール城砦もサン=スーシ宮も世界遺産に登録され、ラバに乗れれば誰でも訪れることができる。いつか事情が許せば訪れてみたい地のひとつである。