M.C.エッシャーの絵を見たことがあるだろうか。泳ぐ魚の群れから視線を上げていくと、何やら一つ一つの輪郭が抽象的な形の中に溶解してゆく。なおも視線を上げてゆくと隣に同じような抽象的な形が目に入る。ちがっているのは今度はそれが鳥のようにみえること。そして最後には一群の鳥の飛翔を目撃することになる「空と水」。あるいは、右手が今まさに一本の線を描き終わったところ。その線の先をたどると全く同じペンを持つ右手に至るという「描かれた手」といった一連の画業を。
コルタサルの短編には、このエッシャーの絵を見ている時に感じるのと同じような印象を受ける。図と地がある。普通は地の上に図が描かれる。ところが、エッシャーのある種の絵の場合、ある地点で図と地が入れ替わり、地であったものが図となり、図は地へと後退してしまう。あまりにも日常的な出来事を描くコルタサルの筆に読者は安心しきって叙述に仕掛けられた細部を読み落としてしまいがちになる。淡々とした叙述を「地」だと勘違いして、いつか「図」が浮かび上がるだろうと期待して先を急ぐからだ。多くの場合地と図はすでに巧妙に交錯し始めているので、結末に至ったとき、あたかも今まで見ていた図が忽然と消え、全く別の絵を目の前にするような奇妙に落ち着かない感覚を味わうことになる。
「猫の視線」は、ミステリアスな女に秘められた別の顔を探し求める男の話。音楽を聴いたり、ギャラリーの絵画を見たりしている裡に、女は絵の世界に入り込んで帰らなくなるという、絵の中に人間が閉じ込められるという、よくある話と読めるのだが、どことなく腑に落ちない点が残る。そこで読み返してみると、女が殆ど口をきかないことに気づく。視線はまっすぐ「ぼく」を見るばかり。飲み食いはおろか本を読んだり、ドアを開けたりという日常的な動作をしないのだ。そこで、はたと気づく。女はもともと猫といっしょにはじめから絵の中にいたのではないか。自分の妻だという「ぼく」の語りが、「騙り」であり、これは信用できない語り手によって語られた妄想ではないか、と。しかし、そうだと決め付けられるほどの証拠を作家は残していない。そこで、納得のいくまで幾度も読み返す羽目になる。収められた十篇の最後に「メビウスの輪」と題された一篇があるように、コルタサルもまた、エッシャーと同じくメビウス的世界を描くことに執した作家なのである。
生涯に九つの短篇集を残したコルタサルの、これは八作目にあたる。コルタサルには繰り返し使いまわすお気に入りのフェティッシュがある。自作短編を(1)儀式、(2)遊戯、(3)移行、(4)そちらと今、の四つに分類している作家自身に従えば、(3)移行、(4)そちらと今、にあたるだろうか。ある入り口を人物が通り抜けることで別の時空間にそのまま滑り込んで、別の世界で生きる、という設定である。頻繁に使われるので、同工異曲と言われるのを避けるため、いきおい技巧を尽くすことになる。
ブエノスアイレスで起きた国家の暴力を告発する記事に衝撃を受けたパリにいる作家が、帰宅途中別の暴力事件に巻き込まれ、それをもとに文章を書く。しかし、その事件はパリではなく、実はマルセイユで起きていたという怪異を描く「ふたつの切り抜き」。晩年、ラテン・アメリカの現実に対し、積極的に発言するようになったコルタサルらしい作品だ。メッセージを生のままでなく、虚構の衣をまとわせることで、より普遍性を持たせていることに注目したい。
男の画家が街角の壁に色チョークで描く「落書き」に、会話を交わすように女の画家が描いたらしい別の絵が添えられる、というそれだけなら微笑ましいエピソードととれる「グラフィティ」も、それが暴力的な取締りの対象になる(ラテン・アメリカと思しき)国家の管理下に置かれるとき、極めて今日的なアクチュアリティを持つに至る。
バッハの「音楽のささげもの」のスコアを、合唱団のパートを受け持つ八人の男女に演じさせる「クローン」。愛する女優の映画を編集しなおし、現存するプリントと置き換えてゆくという究極のファン心理の行き着く果てを描いた「愛しのグレンダ」。裏切った男にじりじりと追い詰められる恐怖を描いた「帰還のタンゴ」と、いずれも脂の乗り切った作品ばかり。
巻末に置かれた「メビウスの輪」は、言葉の通じあわない男女の悲劇的な遭遇が生んだ強姦殺人という異色の題材をメビウスの輪というトポロジーの象徴を用いることで、ユークリッド的世界では永遠に理解し会えない男女を次元を超えた世界で和解させようとした意欲作。強姦の被害者である女性心理の描き方に批判があるという。作家の意図するところは理解できるが、評価は分かれるかもしれない。目まぐるしいほどのイメージの奔流はそれまでのコルタサルの作品と比べると難解さが際立つ。晩年のコルタサルの目指そうとした世界なのだろうか。今となってはその達成が見られないのがいかにも残念である。