原題は所収の別の一篇のタイトルを採って『ずれた時間』であった。どういう理由でこの表題になったかは「訳者らの判断による」と解説にあるが、この短篇集の一つ前に発表された『愛しのグレンダ』という表題を持つ短篇集の存在が大きいのではないだろうか。その表題作「愛しのグレンダ」は、ある女優を熱愛するあまり、膨大な資金と労力を費やし、全出演作の瑕疵を編集作業で削除し、廃棄されたプリントと入れ替えることで完璧な作品集を秘密裡に完成させるグループの活動を描いた作品だが、表題作「海に投げ込まれた瓶」は、その「エピローグ」であると、副題がつけられている。
英女優グレンダ・ジャクソンをモデルにしたグレンダ・ガーソンの完璧な演技の集大成を創りあげ、天地創造にも似た喜びのうちにあったグループは、一度は引退を宣言した女優の復帰発言に衝撃を受け、完成度を落とさないため、女優を殺害するというのが、「愛しのグレンダ」だった。
ところが、その短篇集が発行され、まだ英訳も出ないうちに、当の女優が主演する映画『ホップスコッチ』が発表される。「ホップスコッチ」は「石蹴り遊び」の謂いで、いうまでもなくコルタサルの代表作の題名である。CIAやKGBの内幕を暴いた暴露本をめぐるスパイ活劇には元スパイが書いた本の題名「ホップスコッチ」も登場する。それが、作品の中で女優を殺したことへの意趣返しなのか、それとも皮肉をこめた挨拶なのか、作家には分からない。勝手に名前を借りた女優に直接訊くことなどできるはずもなく、真意を問う手段として、その疑問と自分なりの考えを書いた手紙を壜に入れ、海に流すことにする。これが「海に投げ込まれた瓶」の概略である。
話題性はあるだろう。グレンダ・ジャクソンといえば、ハリウッド女優でもないのにアカデミー賞を二度受賞した名女優である。しかし、作品としては、前作「愛しのグレンダ」がなければ意味を持たない、いわば「アンサーソング」である。作家自身も書いているように、この「事件」を締め括るための終幕でしかない。コルタサル最後の短篇集を飾る表題としては如何なものか。
個人的な見解としては、原作通り『ずれた時間』に戻すのが妥当だと思う。全部で八篇収められているうち、すでに名を記した二篇をのぞく残り六篇を簡単に紹介しておこう。偶然立ち寄った見知らぬ町の美術館で見たスーパーリアリズム絵画そっくりの風景を、同じ町の中に見つけてしまう、二次元から三次元への移行を描いた「局面の終わり」。並のボクサーでしかなかった男が、急にハード・パンチャーに変貌を遂げる「二度目の遠征」。 atar a la rata (ネズミを罠に掛ける)という回文を素材に、軍に追いつめられたゲリラ部隊の状態を寓意的に描く「サタルサ」。夜の学校に忍び込んだ学生が目撃したのは、見てはならない夜宴だった。バルガス=リョサを髣髴させる「夜の学校」。両親に内緒で反政府集会に通いつめる兄が願うのは、植物状態の妹の覚醒であった。後期コルタサルらしいラテン・アメリカの状況を背景にした「悪夢」。ある娼婦の毒殺事件にまつわる逸話を、創作ノート風に綴った「ある短篇のための日記」。
残る一篇が原作における表題作である「ずれた時間」。アニバルは、物を書くのが嫌いじゃない。しかし、あんな記憶をわざわざ書いてどうなるのかという疑念もある。「(記憶を)ぼくなりのやり方でつなぎ止めておくために文字にし、まるでタンスの中のネクタイか夜のフェリシアの肉体のように身近にしまい込んでおけば、それだけいっそう、さまざまな物事が真実になると信じこむ、おめでたい性向がぼくにはあるが、実際、二度と体験できないことを書きつらねていると、それが眼前にいっそう彷彿としてきて、まるで、なんの変哲もない記憶の内部に第三次元への通路が開け、必ずといってよいほど苦々しいものであるにもかかわらず渇望せずにはいられない連続性が生まれるように思われる。」
少年時、友達の姉に感じた愛とも憧憬ともいえる思慕の念を、大きくなっても変わらず持ち続け、アニバルは今もサラを夢に見る。アニバルは思い出を文字にする。友達の家で毎日見ていたサラの美しい姿。突然やってきた別離と、その後の人生。ついに告白できなかったことへの悔い。年のはなれた男女の間にそれぞれに過ぎていった時間のずれはどうにもならないのか。ある日、仕事帰りの一杯を飲みに出かけた街角でアニバルはサラと突然の再会を果たす。喫茶店のテーブルを挟んでようやくかなった告白の結果は…。
作家でなくとも、日々文章を書く者にとって、書かれたものと、現実の差というものは気にならないわけがない。記憶をたどり、事実だけを記しているつもりでも、そこに選ばれたものは、自分というフィルターがかかっている。しかし、一度文字にしてしまえば、そこにひとつの世界が立ち上がる。描かれてしまったものは、それなりの質量を保持するに至る。仮令それが自分の想念が作り出した世界であっても。頭の中に浮かび上がることを文字にすることの重さを痛いほど感じさせる、フリオ・コルタサルにしか書けない、甘く、苦い追憶の物語。やはり、この一篇こそが最後の短篇集の表題に相応しい。