表題作「遠い女」を含むフリオ・コルタサル作五編は、ボルヘスに激賞されたといわれる最も早い時期に発表された短篇集『動物寓意譚』に収められている。ラプラタ河幻想文学という言葉があるが、アルゼンチンのブエノスアイレスは、ボルヘスやアドルフォ・ビオイ=カサーレス、マヌエル・ムヒカ=ライネスなどを輩出する幻想文学が盛んな地域である。コルタサル家の女たちも愛読者だったらしく、小さい頃から本好きだったフリオ少年は、家にあった幻想文学を耽読したらしい。「遠い女」は、ポオに影響を受けたといわれるコルタサルらしい分身譚。ただ、ポオの「ウィリアム・ウィルソン」のように外貌が似ているのではない。
アリーナ・レイエスは自分の名(Alina Reyes) を es la reina y…(彼女は女王様、そして…)と、アナグラムで置き換えてみせるような、美人で気位の高い女だった。彼女が我慢ならないのは、どこか遠くにいるはずのもう一人の自分が、乞食女か娼婦のように惨めな暮らしをしているらしいことだ。どこにいて、何をしていても、その女が寒さに震え、苦しみ、人に殴られているのを感じる。日増しにその思いは強くなるばかり。意を決したアリーナは、新婚旅行先に、女がいるはずのブダペストを選んだ。夢の中で考えた伝言(モクヨウニユク、ハシデマテ)は、相手に伝わっているはず。その日、ホテルを出たアリーナは街歩きに出かけた。目的地である橋の上には一人のみすぼらしい身なりの女が待っていた。
「わたしはあるオブセッションなり悪夢に取り憑かれると、どうしても振り払えなくなるのです。それを払いのけるには何か書くしかないのですが、その意味でわたしにとって短篇を書くというのは悪魔祓いの儀式にほかなりません」
フリオ・コルタサルの言葉である。いかにも幻想文学作家が言いそうな話だが、コルタサルの口から出ると、まんざら作り話ともいえない気がしてくる。というのも、ひとくちに幻想文学と言っても玉石混交であるのは他の文学ジャンルでも同じことで、なかには、いかにも「つくりもの」めいた拵えの目立つ作風を見せる作家も少なくない。仕事上、幻想や怪奇事象を扱ってはいるけれど、ドッペルゲンゲルも異世界の存在もはなから無縁で、信じも感じもしないのではと思わせる作家作品は掃いて捨てるほどある。そうした作品の多くは結末でオチをつけたらそれでお終い。所詮は他人事、主人公の思い入れや語り手の感情など知ったことか、という感じ。
コルタサルの作品は、そうではない。抜き差しならない感情が行間にたゆたい、身につまされた読者は胸を痛め、物語が終わっても、解決が宙吊りにされたまま、割り切れない思いを抱いていつまでも立ち尽くすしかない。こののっぴきならない読後感こそ、フリオ・コルタサルの短篇を読む楽しみなのだ。
他に次の作品を収める。
「夕食会」/アルフォンソ・レイエス(メキシコ)
『流砂』より/オクタビオ・パス(メキシコ)
「チャック・モール」/カルロス・フェンテス(メキシコ)
「分身」/フリオ・ラモン・リベイロ(ペルー)
「乗合バス」/「偏頭痛」/「キルケ」/「天国の門」/フリオ・コルタサル(アルゼンチン)
「未来の王について」/アドルフォ・ビオイ=カサーレス(アルゼンチン)
「航海者たち」/マヌエル・ムヒカ=ライネス(アルゼンチン)
いずれも、ラテン・アメリカを代表する詩人、小説家の幻想的な作品を選りすぐった短篇集である。
名のみ伝えられて、実際の作品に触れたことのなかった作家の作品が読めるのがうれしい。なかでも、巻末を飾るムヒカ=ライネスの「航海者たち」は、短篇小説という体裁ながら、夢想癖の強い騎士の海洋冒険譚という器を借り、新知識に溢れ、社会改革にも熱心な若者の集団が、旧式の武器しか持たない体制側に、てもなくひねり潰されてしまうという、リアルに書けば苦々しい寓話を、実に愉快で滑稽な幻想怪奇小説に仕上げて見せてくれている。冒頭に無聊をかこつ主人公の騎士が読みふける書物の作者名が列挙される。ヘシオドスやヘロドトスの名に混じって、ウンベルト・エーコの近著『バウドリーノ』で言及されている伝説の王プレスター・ジョンことプレスタ・ジョアン王や『教皇ホノリウスの書』の著者であるオータンのホノリウスなどの名が見えるのは、博識で知られるムヒカ=ライネスらしい。衒学趣味の横溢した、いかにも幻想怪奇文学の本流をいく構えで、たいへん結構なものである。