テレビのモニタに空爆されるバクダッドの映像が流れるチューリヒの高級ホテル・マイスター・パレス。ナイト・マネジャーをつとめるジョナサン・パインは夜間、吹雪をおして到着する一団の到来を待ち受けている。一群を率いるのはリチャード・オンズロウ・ローパー。本業はナッソーに本社を構える会社社長だが、その裏の顔は紛争地に武器を調達した代価を麻薬で受け取り、売却益を得ている「世界一の悪(わる)」だ。
カイロのホテルに勤めているころ、ジョナサンは上客であるソフィーという女に書類の保管を依頼された。書類には女の愛人とローパーの間に交わされた契約内容が記されていた。ジョナサンの通報により情報の漏れたことが原因でソフィーは殺される。女が死んだ後になって彼は女を愛していたことに気づく。
ソフィーへの償いを果たすためジョナサンはローパーの顧客情報を通報する。念願のローパー逮捕のために恰好のエージェントを得た情報部のバーは、彼をローパー陣営に送り込む手はずを整える。うまく敵陣にもぐり込んだジョナサンだったが、ローパーの傍らにはソフィーを思わせる美女ジェドが控えていた。
魅力のひとつは人物設定にある。早くに両親をなくしたジョナサンは英雄として死んだ父の後を追うように孤児院から軍隊に進むが、孤独な男の例に漏れず屈折した自我を形成する。除隊後は、料理人や接客業でその才能を発揮し、一流ホテルのナイト・マネジャーとなるが、ソフィーの死をきっかけにローパーの悪事を暴くことに文字通り命を懸けることに。料理のほかに画才を持ち、文学をよくし、ヨット、登山をこなす万能のヒーローは、誰にも愛される男ぶりのいい「イギリスの精華」。
エンタテインメントならではの勧善懲悪のストーリー展開は平板なものになりがちだが、そこはル・カレ。敵役であるはずのローパーを魅力溢れる人物として描くことで、復讐を誓う主人公の複雑な心理を呼び起こす。実際のところ、どんな集団であれ、チームを統率する指導者にはそれなりの魅力がある。また、そうでなくては集団が力を発揮することができない。いつも微笑をうかべ、相手の話を聞くローパーには、つい本心を語りたくなる。豪華な邸宅に自家用ジェット機、ヨットを所有し、世界中を飛び回る男はそれなりの哲学すら披瀝する。曰く、英国は中国から茶と交換に阿片を売った。自分の仕事はそれと同じではないか、と。怪我をしたジョナサンが静養中のローパー所有の島で、一緒に海岸を散歩したり、泳いだりするとき、二人の間にあるのは友情といってもいい感情だ。
人物の魅力とそのやっていることの悪さとの二律背反は、ローパーだけにあるのではない。相手がまぎれもない悪だと知っていて、その情婦をつとめているソフィーやジェドがそうだ。とてつもない美女であるばかりでなく、しっかりした自分を持つ彼女たちが、何故悪党の女でいられるのか。ジョナサンにしたところが、自家撞着は変わらない。いくら悪の巣に潜入するための偽の履歴作成のためとはいえ、信頼して愛情を寄せる女を次々と利用しては捨て去る。結婚寸前の娘と関係し、その婚約者の名前を使ったパスポートまで手にするのだ。ローパーを信用させるため、窃盗、殺人を犯した悪人になりすますのだが、後にこの偽の履歴の完璧さが、彼と彼をあやつる男たちを追い詰めることになる。狂言強盗を演じる味方の腕を二回折る精神異常者の悪党なのか、自らの故国も名前も捨てた愛国者なのか。どちらの姿が真なのか。アイデンティティーの不確実性というのはル・カレの骨絡みのテーマなのだ。
相変わらず、背景となる舞台が素晴らしい。雪が降りしきるスイス、チューリヒ。イギリス南西部ウェスト・コーンワル、ラニアンのコテッジ。吹き付ける強風には群れ飛ぶ鳥すら屹立する岩角に打ち付けられ海上に屍骸が浮かぶという、ジョナサンが見つけた隠れ家。或は、ナッソーに程近いエクスマ諸島中にあるローパーの島。バハマ、海中の楽園。次から次へと展開される新奇な眺望に目が奪われる。まるで映画を見ているようだ。
文章のいいのは訳文からも伝わってくる。たたみかけるような洒落た会話のテンポ。主人公の暗部を浮かび上がらせる自嘲を帯びた内的独白。絶体絶命の土壇場で堰を切ったように吐きつけられる愛の告白。いつまでも読んでいたいと思わせる名調子と裏腹に、次を読んでしまったら主人公が危機に陥るところでは、と本を閉じたくなるハラハラドキドキ感。存分に楽しませてもらった。
冷戦終了後、協調路線をとる両陣営間に諜報戦を設定することができず、スパイ小説作家にとって冬の時代の到来かと考えられていた。そんなことはない。季節が変われば厨房には別の食材が登場する。料理人は新たな材料に腕を振るえばいいだけだ。本作『ナイト・マネジャー』はそれを証明してくれる一級品のスパイ小説である。欲を言えば、読後に感じられる余韻に、あと一滴のビターがほしいところか。