marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第35章

何か鬱屈することがあるのだろう。ウェイドは、また酒をあおりはじめた。用があれば呼ぶように言い置き、作家を書斎に残したままマーロウはパティオに出た。湖上ではサーフ・ボードをひっぱったモーターボートが轟音を上げていた。キャンディもコックもいない。婦人が帰るまではいてやろうと、マーロウは思った。
この章は問題が少ない。細かな訳にちがいはあるが、許容範囲だ。例によって清水氏が訳すのを省略した部分を挙げる。
どうしてさっさと引き上げないのかと自問自答しつつも、そんなことができるなら郷里にいて普通の暮らしをしていただろうと考えながら、もしかしたらありえた自分の生活を数え上げる中で妻に触れた部分。“ the wife with a cast-iron permanent ” 村上訳「妻は鋳鉄のようながちがちのパーマをかけ」ている。戯画化して語る田舎の小金持ちの生活ぶりは、わびしい限りだ。
様子を見に入った書斎で、ウェイドが言う台詞。“ Don’t bother me. I have a little man on my shoulder telling me stories. ” 清水訳は、「かまわないでくれ。心配してもらわんでいい」だが、直訳すれば、「邪魔するなよ。肩に乗った小人さんからお話を聞いているところだ」(村上訳)となるはず。どうも、話の本筋に関係ないところは、適当にかいつまんで訳してしまうくせが清水氏にはあるようだ。映画字幕に携わっていたという経歴と無関係ではあるまい。そのまま訳すと、読者には何のことだか分からないだろうという親切心もあるのだろう。次もそうだ。
“ I’m a sex writer, but with frills and straight. ”
清水訳「ぼくはセックスを書いている作家だが、ほんとうのことを書いていないんだ」
村上訳「僕はセックスを売り物にする作家だ。それもちゃらちゃらした異性愛がぼくの専門さ」
批評家や芸術家には同性愛者が多いという話の続きで、ウェイドが小説の舞台にしている時代も同性愛者は多かった、と言ったそのあとの言葉だ。ウェイドが言いたいのは、自分はセックスを描くことを専門にしている作家なのに、本来同性愛が盛んだった時代を舞台にしながら、気取った文章で異性愛ばかり書いている。売らんがために真実を裏切り、読者におもねっている三文作家だ、ということだ。清水氏の意訳で充分通じている。村上訳は“ but ” を生かしきれていない気がするものの、自嘲の意味合いは清水訳より強く伝わってくる。