marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『幽霊たち』ポール・オースター

幽霊たち (新潮文庫)
クエンティン・タランティーノに『レザボア・ドッグズ』という映画がある。それぞれ相手を知らないで呼び集められた犯罪者集団はお互いを色の名前で呼び合う。ブラックという名前が人気で、みんながその名をほしがったというのがギャグになっていたのを覚えている。ブラックやブラウンというのは、普通に存在する名前なので別段おかしくもないが、色の名前ばかりが集まると一気に可笑しくなる。

ニュー・ヨーク三部作の第二作『幽霊たち』は、主人公の私立探偵の名がブルーで、その師匠がブラウン。依頼者がホワイトで、監視対象者がブラックと、登場人物の名がすべて色の名前である。オースター自身、別の作品で主人公の作家が人物名に困ると色の名をつけると語っているので、これもその伝であろう。自作の戯曲を素材に小説化した作品ということもあり、場面も人物設定もシンプル極まりない。

引退したブラウンの下で私立探偵として働いていたブルーは、ホワイトという男から、ブラックという男の監視を依頼される。浮気調査かと思い、引き受けたブルーは、向かいのビルからブラックを見張るものの、相手は机に向かって何かを書き続けるばかりで、一向に事件らしきものは起こる気配がない。冬に始まった仕事は、一年過ぎても進展を見ない。ブルーの疑心暗鬼は募るばかりだ。

何かが起こりそうで、何も起こらない、というのはベケットの『ゴドーを待ちながら』を想起させる。初期のオースターが、カフカベケットの衣鉢を継ぐものという評価を受けたのは、この作品に負うところが多いのではないだろうか。戯曲をもとにしたといわれるだけに、小説的要素は乏しい。会話と内的独白がほとんどで、その中に、いくつかの挿話が点綴される。その後の作品における物語内物語というほどの質量は持たず、簡単な紹介にとどまるが、内容は興味深い。

それらの話に共通するのは、自分とは何かという問題だが、特に印象的なのが、ホーソーンの『ウェイクフィールド』という話で、ある日突然失踪した男が自宅近くに家を借り、何年も妻の傍で暮らしながら、連絡を取らずにいて、最後はもとの家に戻るという、ボルヘスが激賞した有名な作品である。

自分の家を見張る男というのは、ブラックを監視し続けるブルーの状態に重なる。それかあらぬか、監視を続けるうちに、ブルーはしだいにブラックに親近感を感じ、監視をサボってもブラックがどこにも行かないことさえ確信するようになる。つまり、監視している側と監視されている側に共鳴現象が起きてくるのだ。

オースターという作家は、物書きである自分という存在について過分に自覚を持つ作家である。ブラックは本を読む以外は何かを書き続けている。その本とは、ソローの『ウォールデン(森の生活}』である。その冒頭に次のような記述がある。

「われわれはふつう、話をするものは結局第一人称であることを忘れている。もしわたしがわたし自身と同じぐらい善く知っている人間が世の中にいたならば、わたしはこれほどまでにわたし自身のことを語りはしないだろう。不幸にしてわたしは経験がせまいためにこの主題にのみ限られてしまうのである。のみならず、わたし自身もすべて物を書く人間に、第一に、そして結局、彼自身の生活の単純で正直な感想を求め、単に彼が他人の生活について聞いたことを求めないのである。」(神吉三郎訳)

ソローは、オースター偏愛の作家で、その著作に何度も登場している。謎を解く鍵は、ここにあった。ブラックは、ブルーとの対話の中で「ものを書く人間の暮らしぶりを知るのが好きなんだよ。特にアメリカ人の作家のね。いろんなことを理解するのに役立つ」ともらしている。「ものを書く人間の暮らしぶりを知るのが」趣味という作家が一番知りたいアメリカ人作家とは、ソローも言うように「自分自身」であった。しかし、「書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないとも言える。そこにいるときでも、本当はそこにいないんだ」とも語っている。自分の暮らしぶりを知るためには、自分以外の誰かに自分を見てもらう必要がある。そう考えたブラックは、ホワイトという男に変装し、ブルーという探偵に自分を見張らせ、毎週報告書の提出を義務づけたのだ。

整理すると、物語は主人公ブルーの視点を通して語られる。一方、ブラックは対象人物であるとともに、ブルーの登場する作品を執筆しつつある作者という位置にある。観察者が見た事実が報告書という形で執筆者に渡され、作品化されるというのは、よくある話(柳田國男遠野物語』が一例)だが、その観察対象が執筆者であるというところが、これまでにないオースター独自の着想である。M.C.エッシャーに、鉛筆を握った手が、鉛筆を握った手を描いているという同じ像を180度回転した作品があるが、差し詰め『幽霊たち』は、その翻案である。

小説内の登場人物が進行中の物語の登場人物であることを放棄し、今まさにその物語を執筆中の作家を襲う。物語は主人公の造反により、唐突に終わる。種明かしは、その後に来る。冒頭に「時代は現代」と記されてあったのは、所謂時代設定であって、本当は三十年も前の出来事だったと、メタレベルの語り手が明かすのだ。いやはや何ともポスト・モダンな展開ではないか。戯曲家としてのオースターの側面が存分に発揮された一作である。