すべてはここから始まる。詩と翻訳から作家活動をはじめたオースター初の散文作品。『孤独の発明』は二部構成。第一部は、自分の父について書かれた「見えない人間の肖像」。これは、一種の人物描写エッセイ(ポルトレ)と考えればいいだろう。第二部は、偶然、孤独、父と子といった後のオースター作品に繰り返し登場する主題をめぐる断章を集めた「記憶の書」である。
父は、「見えない人間」であった。そこにいるはずなのに、いるような気がしない。ふれようとすれば、すっと身をかわす。対話をしようとしても会話にならない。自分のまわりに見えない壁をつくって、そのなかに閉じこもっている、そんな人物だったようだ。仕事には熱心で、それなりに財産も残しているが、家庭人としては、何かが欠落していた。結局、両親は離婚し、兄妹は母と暮らすことになる。父の死を知らされて思ったのは、このままでは父が永遠に消え去ってしまうというあせりだった。物を書くことを生業とする息子として「私」は、父が一人暮らしていた家や遺品、幼い頃の記憶を手がかりに、自分の父の肖像をペンで残すことにする。
「私」は、あるがままの自分という人間を、父に愛された記憶がない。いくら記憶の断片を引っ張り出してみても、自分の伸ばした手は父をつかめないし、父の目は自分の方を向いていない。では、その父はどのような子ども時代をすごしたのだろう、と疑問に思いながら、父の子ども時代の写真を見ていておかしなことに気づく。一家の集合写真は、父の父、つまり祖父が立っているべき部分が切り取られた状態で継ぎ合わせてあるのだ。
写真には父の一家の秘密が隠されていた。作家というのは何と業の深いものだろう。「私」の筆は、父の、今風にいう「デタッチメント」が、どういう経緯で生まれたのかを暴いてゆく。なるほど、幼い頃にそんな経験をした子が、長じて人の子の親となったとき、どんな態度をとればいいのか分からなかったとしても仕方がない。それほど過酷な体験を父はしていた。オースターの息子ダニエルに寄せる溢れんばかりの愛情は、どの作品からもうかがえるが、父と祖父との間にあった不幸な因縁が、自分と父の関係に影響していたことを反面教師にしてのことであった。
「記憶の書」は、同名の表題の下に、男が日記風に書き続けているノートの体裁をとっている。最初の妻との別居、母方の祖父の看病、その合間を縫うように、郊外のかつての自分の部屋で週末を息子と過ごす男は、オースターその人と考えていいだろう。ただし、日本の私小説めいた設定から作家自身をモデルにした身辺小説と思ったら読み誤る。これはそんなものではない。
ニュー・ヨーク、ヴァリック・ストリート六番地の十階にある狭い部屋に置いた机の前にすわる一人の男。仮に名前をAとしておく。Aがやろうとしているのは、自分を掘り下げることだ。暗い部屋に一人いる男は、鯨の腹のなかにいたヨナを思う。また、ピノキオのジェペット老人を。そこから、語ることを拒む、というテーマと、本物の子どもになるためには海に飛び込んで父を救わねばならないというテーマが生まれる。
あとは連想ゲームのように、つぎつぎと記憶のなかから蘇るイメージを拾い上げ記録していく。複数のテーマが網目状に関連しながら、「記憶の書」を形成してゆく。キケロやパスカル、ヘルダーリンといった先哲の残した言葉や逸話もある。マラルメとその早世した息子の写真、同じくレンブラント描くところの息子ティトゥスの肖像画、アンネ・フランクの写真もある。
作家が何かを書くということは、無から生まれるものではない。かつて自分が享受した文学や哲学、美術、音楽、歴史、或は今世界に溢れている現実の出来事、自分の家族や家系に伝わる逸話、人から聞いた話などの記憶、また、意識下に追いやられていた無数の記憶の断片からひとつのイメージをすくい取り、それにまつわる別のイメージを呼び起こし、ある種の化学反応のようなものを起こさせることで、書くべきことがノートの上に現われるものなのだ。
それは孤独な作業である。しかし、誰もがその作業をしてきた。部屋の中でひとり、自分の内奥を穿つ作業を通して、作家は自分の前に生きた多くの詩人や作家を自分の中に引き込み、今一度その人生を生きる。病んだ息子を思うマラルメは、Aである。息子の肖像画を描くレンブラントもAだ。そうして、Aは自分が一人でありながら、同時に多くの人であることを認識する。
その後、数多の作品を発表し、今やストーリー・テラーとして名高いオースターが、その出発点において如何に内省的かつ真摯な作家であったかを知ることのできる貴重な作品である。その批評家としての一端を『千一夜物語』を論じた文章からもうかがうことができる。物語ることが命じられた死を延期させる、という主題が入れ子状に物語内物語を構成しているという指摘は、目から鱗が落ちた気分だ。今更ながら、自作に物語内物語を多用するオースターの出発点を知った思いがした。