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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『空腹の技法』ポール・オースター

空腹の技法
作家オースター誕生以前に書かれたエッセイ、翻訳書につけた序文、『ムーン・パレス』、『偶然の音楽』発表時のインタビューを併せた雑文集。分類上は「エッセイ」とされているが、オースターが自ら選んだ作家や作品、詩人についての批評である。カフカベケットを除けば、日本ではあまり知られていない作家も多い。オースターの読者以外には、ほとんど興味の持てない内容といえよう。

反対に、オースター・ファンにとっては外せない一冊ともいえる。たとえば、第一部エッセイ編の巻頭を飾るのは、書名と同名の原題“ The Art of Hunger ” (空腹の芸術)。ノルウェイノーベル賞作家クヌット・ハムスンの処女長篇『飢ゑ』についての批評だ。「一人の若者が都市にやって来る。若者には名もなく、家もなく、仕事もない。彼は書くために都市に来た。彼は書く。あるいは、より正確には書かない。彼は飢え、餓死寸前に至る」という書き出しを読めば、オースターの読者なら、すぐに頷くことだろう。そう、これはまさにオースターが書きそうな物語だからだ。

19本のエッセイに共通するのは、ありとあるオースター的主題である。極限的な空腹に耐えつつ自己に書くことを課す『餓ゑ』を筆頭に、文学とは何かを考えさせる、通常の規範のまったく外に立つような書物であるところのルイ・ウルフソン著『分裂病者と言語』、徒歩でアメリカを横断しつつ食事とねぐらを提供してもらうのと引きかえに自作の詩を朗読して回るユダヤ人詩人チャールズ・レズニコフといった、オースターが後に小説化することになるアイデアの源泉が、そこここに湧き出しているといった有様なのだ。

インタビューの中で、「私が読者として(何といっても書いた本よりも読んだ本のほうが絶対多いからね!)発見したことは、自分がほとんどつねに、ある場面や状況を作品から取り出して、自分自身の体験に接ぎ木したり、逆に自分の体験をそれに接ぎ木したりしているということだ」と、自ら語っているように、オースターという作家にとって、ある場面や状況は他者のものであって同時に自分のものでもある。ランボオの言葉を借りるなら、「われは他者なり」だからだ。

小説を書く前には詩を書いていたオースターに、詩人についての言及が多いのは当然だが、気づいたのは、ユダヤ系の詩人が多く採りあげられていることだ。われわれ日本に住む日本人にとって、民族と国家は切り離すことが難しい。ふつう、「日本人」といえば、民族を表すと同時に国民をも意味してしまう。ところが、ユダヤ人というのは一般的には民族を意味するだけだ。だから、エドモン・ジャベスのように、フランス語で詩を書くエジプト系ユダヤ人もいれば、チャールズ・レズニコフのように、英語で詩を朗読するユダヤアメリカ人もいる。世界中に異なった言語で詩や小説を書くユダヤ人がいるわけだ。

オースターが、他者のなかに自分を見つけることができる理由のひとつに、ユダヤの民としての大きな物語の共有という事実があるのかもしれない。旧約聖書やタルムード、迫害と追放、そしてホロコースト。それらの記憶や経験が人間形成において影響を与えることは否定できない。オースターに見られる「父と子」、「孤独」、「部屋」、「放浪」、「飢餓」、といった主題群は、ユダヤ民族の歴史と、切っても切れない関係にあるといえよう。

インタビューについては、オースターの読者なら是非読んでおきたい。これほど気さくに自作について語る作家をオースターをおいて他に知らない。ニュー・ヨーク三部作がミステリー扱いをされたことについてふれながら、「推理小説はつねに答えを与える。私の作品は問うことをめぐるものだ」と語っている。それだけに、読者としては、その問いについての作者ならではの解答が知りたいところだ。「訳者あとがき」で、たびたび触れられたオースターの見解のほとんどすべてがここからとられたものであることがよくわかる。インタビューの部分だけでもこの本を手にとる価値は十分あると思う。