marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『使者たち』ヘンリー・ジェイムズ

ヘンリー・ジェイムズの代表作であり、「二十世紀文学の巨峰」とも称される長篇小説である。晦渋で難解なことで知られるヘンリー・ジェイムズの小説だが、読み始めてすぐに意外にも読みやすいという印象を受けた。一年にわたって毎月雑誌に連載されたため、横道や隘路に踏み迷うことなく十二部を一部ずつ書き進めていったのが結果的に功を奏したのだろう。形式を大事にするヘンリー・ジェイムズらしく細部まで結構の行き届いた構築的な作品である。

マサチューセッツ州の町ウレットで、雑誌の編集者をしていたランバート・ストレザーは雇い主のニューサム夫人から、パリに行ったまま帰ってこない息子のチャドを呼び戻すという任務を得て、ヨーロッパに渡る。首尾よく帰国できればニューサム夫人との結婚が約束されていた。ウレットでは、チャドが帰国しないのは悪い女につかまったせいだと考えられていた。しかし、ストレザーの目にはヴィオネ夫人は優雅で洗練された素晴らしい女性と映った。そればかりか、夫人の影響か粗野だったチャドはすっかり洗練されていた。予期せぬ事態に戸惑い、ミイラ取りがミイラになったように、なかなか帰国しないストレザーに不審を抱いたニューサム夫人は娘のセアラを二人目の使者に立てるのだったが…。

主人公のストレザーは五十五歳になる雑誌編集者。早くに妻と子を亡くし、事業も失敗続き。自らを人生の失敗者だと感じている。人生など思うようにならないものと思い定め、型に流し込まれるゼリーのような人生を生きてきた男である。そのストレザーが、ヨーロッパに来て変貌を遂げる。町を歩いたり、女性と食事をしたりするうち、少しずつ自分が解放されてゆくのを自覚していく。

ピューリタニズムと資本主義の新興国アメリカにいたときには見えなかったものは、人生を楽しむヨーロッパ人の流儀だった。時を経た建築物や芸術、観劇や晩餐会といった愉しみに触れ、ストレザーは、喪失してしまっていた青春を生き直す喜びを知る。かつては文学青年だった主人公はパリの人々や景物を小説のフィルター越しに眺め感興を覚える。彼の目にはパリ近郊の田舎の風景は印象派の絵の世界に入り込んだように見える。

そんなストレザーに対し、親友のウェイマーシュやセアラは、頑ななまでにアメリカ的な見方を変えない。彼らにとってパリは堕落したバビロンなのである。一方で、資産家であるニューサム家の娘セアラや弁護士のウェイマーシュは金が力であり、それでヨーロッパを征服でもするかのように高価な宝飾品や衣類を買いあさる。彼らの目には、優雅さの極みともいえるヴィオネ夫人も若い男をたぶらかす堕落した女でしかない。

二つの世界の対立の狭間に身を置き、ストレザーは葛藤する。かくまでチャドを洗練することに尽くしたヴィオネ夫人と別れて帰国し、セアラの夫の妹エイミーと結婚させることに疑問を抱いたストレザーは、帰国するというチャドに反対し、ヴィオネ夫人といるべきだという考えを告げる。それは、ニューサム夫人の意志にそむき、自身の老後の安定を反故にすることであった。

生き生きとした人生を送ることなく、他人の思惑に流されるように生きてきた初老の男が、ヨーロッパの風に吹かれることで、はじめて本来の自分を取り戻す。普通ならこれで終りだ。ところが、皮肉なことに作者はストレザーの眼に小説に描かれたように、絵画のように見えた世界が実は幻影であったことを容赦なく暴いてみせる。ストレザーが田舎の風景が見せる美に浸りきり、画中の点景人物のように見惚れていたボート遊びの男女は、泊りがけで遊びに来ていたチャドとヴィオネ夫人だった。清らかな関係と想像していた二人は、男女の関係だったのだ。

華やかなパリの社交界を舞台にして描かれる物語は、終始ストレザーの視点を通して語られる。この小説は、ストレザーというアメリカ人の意識の冒険を描いたものである。主人公は再訪したヨーロッパで再びめぐってきた青春をつつましく謳歌しながらも、自身の身に染みついた倫理観は失わない。ロマンティックなヴェールが剥ぎ取られ、露わになった人間の姿を見てしまっても、一度手にした「見える力」は損なわれない。読了後、ランバート・ストレザーという人物に、いつの間にか共感を感じている事実に読者は気づくだろう。