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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『アヴィニョン五重奏Ⅲコンスタンス』ロレンス・ダレル

アヴィニョン五重奏III コンスタンス : あるいは孤独な務め (アヴィニョン五重奏【全5巻】)


アヴィニョン五重奏』は、文字通り五部作。「コンスタンスあるいは孤独の務め」は、その第三作、サイコロの目でいうところの真ん中にあたる作品である。それだけに本作は前二作に比べても一段と重厚さを増し、後に続く二部作を見通す要衝として、その重みに耐える仕上がりとなっている。連作中、この一作が単独でブッカー賞の候補作に挙げられたというのもうなづけるところだ。

あれほど輝いていたプロヴァンスの夏は去り、冬の時代がすぐそこまで来ていた。ナチスとの戦争を控え、サムは英国を守るため軍隊に、良心的兵役拒否者ブランフォードは王子ハッサドの秘書としてカイロに「敵前逃亡」、サムの妻となったコンスタンスは精神分析医としてジュネーブの療養所に、と離れ離れになっていた。そんな折、ピアの治療のためジュネーブを訪れていたサトクリフとコンスタンスが初めて出会う。やがて、今は英国情報部の下で働くトビーも加わり旧交を温める。

ブランフォードは休暇中のサムとカイロで再会し、ナイルの川遊びを楽しむが王子に誘われて出かけた砂漠で砲撃に遭いサムは即死、ブランフォードは脊髄損傷の重傷を負う。失意のコンスタンスは、ハッサド王子とともに赤十字で働くためナチス統治下のアヴィニョンへ戻る。懐かしい城館で束の間の休息を味わうコンスタンスを更なる不幸が見舞う。リヴィアの死だ。疲れ果ててジュネーブに戻った彼女を待っていたのは、王子の取り巻きの一人で魅力的なシリア人銀行家、アッファドだった。

ヴィシー政権時代、ナチス支配下に置かれた「全世界の薔薇」南仏アヴィニョンの街と人々を描いた歴史小説であり、マルクスフロイトを借りて性と愛を思弁的に論じる恋愛劇でもあり、異端の神秘思想グノーシス主義の色濃いオカルト小説でもある。さらには、創作中の人物が作者その人と語り合い、互いの原稿を見せ合うという新奇な手法を採用するメタ小説のはしりでもある。

しかし何よりもこの小説で注目すべきは、その自己言及的なありかただろう。ブランフォードの被造物であるサトクリフは、他の登場人物とは存在のレベルが異なるからか、他の人物との対話の中で会話ではなく内言を多く発する。後に小説家となるブランフォードが自己を投影した人物であるから、当然作家意識が強い。その内言の多くは創作に関わるものだ。

「俺はしつこくそんな本を夢見る。完全には別々でない登場人物たち、先祖も子孫もごちゃ混ぜになった本。そうした人々が互いの生に出入りし、かつ互いの本質を損なわずにいることは可能か? ふむ。そして、本全体は、管弦楽法的に言えば、減五度によって編曲されている。切り換えだらけ、ポイントと側線がすべてである大部の本。ゴルゴタの丘のごとき本。」

「人目を忍ぶこの行為の裏にある着想は常に、あの理想の本だった。巨大な日曜大工セット、仕掛けとしての小説。つまるところ、ほかの本、登場人物たちのほかの人生から残された予備の部品が互いの血管を流れる――だがすべて新鮮であ り、使い古した二番煎じのものなどない――という本はどうだ?」

サトクリフが言及する「本」こそ、『アヴィニョン五重奏』五部作である。因みにコンスタンスの完璧な恋人として本作に登場するアッファドは、本作の中でフランス人の兄妹二人をマカブルに連れて行ったことをブランフォードに告げるが、その二人ブルノーとシルヴァンヌこそ第一作『ムッシュー』に登場するピエールとシルヴィーであり、アッファドその人はアッカドという名ですでに第一作に顔を出している。つまり、『アヴィニョン五重奏』は通常の意味で、連作になっているわけではない。謂わば、枠物語のなかに組み入れられた入れ子構造状の酷似した物語が、踵を接しながらも別次元で動いているのだ。この特異な仕掛けこそ、晩年のダレルが創り出した『アヴィニョン五重奏』の真骨頂である。

――と、思いはするのだが、ルポルタージュの名手として知られるダレルの筆が描き出すフェラッカ船でのナイル・クルーズの描写ひとつとってみても凡百の紀行・小説を凌駕している。また、詩人を自称するブランフォードの口を借りて吐き出される、珠玉のごとき名文句の数々。たとえば、「この夏、僕たちは何と美しく、風に洗われた日々を過ごしたことか。僕はお気に入りの給仕係を亡くした老いた王の気分だ」 のような華麗なレトリック。あるいは、コンスタンスとアッファド、サトクリフの間で繰り広げられるグノーシス主義フロイト精神分析論の活き活きとした弁舌、とどれもこれも捨てがたい。無人島に持っていく一冊の候補にしたいくらいのものだ。

唯物論が行き着いた果てにナチスによるホロコーストや核の恐怖が待っていた。第二次世界大戦を経験したダレルには西欧的価値観に対する疑問が生じていたのだろう。コンスタンスを軸にして様々な人物が語り合うのだが、そのなかには次のような言葉さえ混じる。「だが、コンスタンス、人間とは自然のありのままの産物ではないよ。トリュフのようなこぶ、癌、病なんだ。人間が我慢できるのは、かなり腐りかけの風味があるからだよ!」

ナチスの攻勢時には見て見ぬ振りを決め込み、退却と見れば地下から這い出てきてナチスと寝た女たちを丸刈りにし、親独協力者を裁こうとするアヴィニョンの人々の姿を、爆撃で壁が崩れ、思いがけず精神病院から解放された狂人が「阿呆舟」よろしく荷馬車で街路に繰り出す様と重ね、まるでカーニバルでもあるかのように描いてみせるダレルの人間認識の苦さ。第四作『セバスチャン』では、アッファド宛ての手紙の秘密が明らかにされるはず。翻訳が待たれる。