marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

 49章

エイモスの運転で、リンダがやってくる。マーロウはシャンペンでもてなそうとするが、リンダのボストンバッグを部屋に入れかけたところで口論になる。シャンペンくらいでベッドをともにする女と見られたくない、と怒り出すのだ。一度は、謝るマーロウだが、怒りの覚めやらぬリンダに、今度はマーロウのほうが怒り出す。そして痴話喧嘩のあとは仲直りのキス、となる。その冒頭から。

“When the car stopped out front and the door opened I went out and stood at the top of the steps to call down.”
清水訳
車が表でとまって、ドアがあくのが聞こえたとき、私は入り口に出て、会談の上に立っていた。
村上訳
うちの正面に車が停まり、ドアの開く音が聞こえた。私は外に出て階段のてっぺんから「すぐに下りていくから」と下に向けて声をかけた。
英語というのは、即物的というか、実践的というか、なんとも率直な言葉で、“call down”が、「下りて来るように言う」という意味を表す。村上訳は、その用例で、会話を補足して使っている。直訳すれば、「外で車が停まり、ドアがあいたとき、私は、降りてきて、と言われるために外に出て階段の上に立っていた」。もっと砕いて言うなら、「外で車が停まり、ドアが開いたとき、私はいつ声がかかっても下りてゆけるよう、外に出て階段の上に立っていた」か。

しかし、運転手のエイモスが彼女のためにドアを開け、小さな旅行鞄を手に、彼女の後から階段を上がってきたので、マーロウは待つことにした。マーロウがホテルまで送ってくれるから、とリンダは車を帰し、一人で部屋の中に入る。顔の傷に気づいたリンダは、どうしたの、と訊きマーロウはメネンディスにやられたが、もう彼のことは忘れていい、と話を打ち切る。飲み物でもということになり、シャンパンの話になる。
“I haven’t any ice bucket, but it’s cold, I’ve been saving it for years. Two bottles. Cordon Rouge. I guess it’s good. I’m no iudge.”
清水訳
「氷を入れるバケツはないが、シャンパンは冷えている。永いあいだしまっておいたのが、二本ある。コードン・ルージュです。いい品物だと思うんだがね。ぼくにはよくわからない」
村上訳
「アイス・バケツの用意はないが、よく冷えているよ。二年ほど前からずっととってあるからね。コルドン・ルージュが二本。悪くないものだ。とりたててシャンパンには詳しいわけじゃないが」
“saving it for”が、このあと問題になってくるのだが、村上氏はなぜ「二年ほど前」と時間を区切ったのだろう。閑話休題シャンパンがとってあるときいたリンダは“saving it for what?”(なんのためにとっておいたの?)と尋ね、マーロウは“saving it for you.”(君のためさ)と応える。気の利いた台詞のやりとりだ。リンダは、微笑みながら、マーロウの顔をじっとみつめて、こういう。
“You’re all cut.”
清水訳「うまいことをいうのね」
村上訳「顔じゅう傷だらけ」
次にくるのが、会ってからまだ二ヵ月しかたってないのに、という台詞だから、リンダがマーロウの言葉のいい加減さに呆れたことをいいたいのだろう。清水氏の意訳でもいいのだが、“be cut”には、「死ぬ、重傷を負う」の意味がある。顔の傷にかけて、「あなたって、まったくどうしようもない人ね」の意味を含めているのではないだろうか。その後にこう続くのだから。
“Saving for me? That’s not very likely, It’s only a couple of months since we met.”
清水訳
「私のためにしまっておいたの?おかしいじゃないの。会ってからまだ二ヵ月しかたっていないのよ」
そういわれても悪びれず、「いずれ会えるだろうと思ってしまっておいたのさ」と、かわすマーロウ。このあたりの台詞のやりとりは実に軽妙だ。

シャンパンをとりに台所へ行く際に、マーロウは旅行鞄を持って部屋から出ようとした。そこにリンダの鋭い声が飛ぶ。“Just where are you going with that?”(それを持ってどこへ行こうというの)。
“It’s an overnight bag, isn’t it?”
清水訳「身のまわりのものが入ってるんでしょ」
村上訳「だって、泊まり支度なんだろう?」
リンダのバッグは、ハンドバッグではなく、一泊程度の旅行用の鞄で、所謂ボストンバッグだった。車も帰したし、遅いから泊まるつもりで来たにちがいないとマーロウは考えたのだろう。しかし、リンダはマーロウが車でホテルに送ってくれるから、といって運転手を帰している。泊まる、とはひと言も言っていない。その一方で、マーロウは今夜は車がないこともリンダに告げている。それを承知で車を帰したからには、自分の家に泊まる気でいるとマーロウが考えるのも無理はない。

リンダは混乱している。マーロウはこれまで、自分に気があるような素振りは全然見せてこなかった。リンダは、マーロウのことを「タフで、シニカルで、ひねくれて、冷酷な人だ」と思ってきた、という。マーロウは、「そうかもしれない―ときによっては」と、返す。そのあと、
“Now I’m here and I suppose without preamble, after we had a reasonable quantity of champagne you plan to grab me and throw me on the bed. Is that it?”
清水訳
「ところが、私がここへ来たものだから、シャンペンでいいかげん酔っぱらわせてから、私をつかまえてベッドにつれこもうというのね。そうなんでしょ」
村上訳
「私は今ここにいる。前置きみたいなものも抜きに。そしてあなたは、そこそこの量のシャンパンを飲んだあとで私にいどみかかり、ベッドに押し倒そうとしている。違うかしら?」
“without preamble”というのは、「前置き抜きに」でまちがいないのだが、村上氏のように訳すと、ずいぶん堅苦しく聞こえてしまう。こんな訳はいかがだろう。
「私は今はここにいる。そして、ずばり言うけど、このあと二人が気持ちよくなるくらいシャンペンを飲んだら、あなたは強引に私をベッドにつれこむつもりなのよね。ちがう?」

マーロウは正直に、そんな考えも頭の片隅にちらっと浮かんだかもしれない、と明かす。「光栄だわ」と、言いながらもリンダは、あなたのことは好きだが、だからといってあなたと寝たいと思っているとは限らない。旅行鞄のせいで早合点したんじゃないの?と、軽くいなす。バッグを元の位置に置いたマーロウはシャンパンを取りにいこうとする。「シャンパンはもっといいことがあったときのためにとっておいたら」と、引きとめるリンダにマーロウは「たった二本だ。本当にいいことがあったら一ダースは必要だ」と、言う。その一言がリンダを傷つける。自分はそれだけの価値の女だ、と言われたように感じたのだ。離婚話と旅行鞄のせいで自分のものになると思ったらお門違いよ、と怒りを募らせるリンダに、マーロウも切れる。今度旅行鞄のことを口にしたら投げ捨ててやる。別に寝ることを求めてなどいない。いっしょに酒を飲もうというだけじゃないか、と。相手を怒らせてしまったことに気づいたリンダは、マーロウに詫びる。
“I’m a tired and disappointed woman. Please be kind to me. I’m not bargain to anyone.”
清水訳
「ごめんなさいね。私は世の中にくたびれて、幻滅を感じている女よ。お願いだから、やさしくしてくださいな。つまらない女なのよ」
村上訳
「ごめんなさい。とてもくたびれて、心が傷ついているの。だから優しくしてちょうだい。相手が誰であれ自分を安売りしたくないの」
最後のところの訳が異なっている。“ bargain”は、もともと「商い」を語源とする。この文脈では、誰とも(値段を)交渉する気がないという意味になる。相手の出方を見て、駆け引きするような、そんな元気は今の自分にはない。ただ、優しくしてほしい、と訴えているのだ。そういう意味では清水氏の「つまらない女なのよ」は、よく分かる訳だ。村上氏の「安売りしたくないの」は、“ bargain”に引きずられた訳だと思われるが、この状態のリンダの口から出てくる言葉としては、少々高飛車な感じがするのは否めない。

マーロウは、そんなリンダの言ったことを否定する。君はくたびれてなんかいないし、他の誰と比べても失望してなんかいない。誰かに優しくしてもらう必要などない女なのだ、と。マーロウが、シャンパンを用意して戻ると、リンダはいない。どこへ行ったのかと探すと、リンダは髪をほどき、ローブに着替えていた。
“I meant to all time,” she said. “I just had to be difficult. I don’t know why. Just nerves perhaps. I’m not really a loose woman at all. Is that a pity?”
清水訳
「抱いてほしかったのよ」と、彼女はいった。「でもかんたんに抱かれたくなかったの。なぜだかわからないわ。―でも、ほんとはこんなことをする女じゃないのよ。そう思わなかった?」
村上訳
「はじめからそのつもりだった」と彼女は言った。「でも自分で自分をついむずかしくしてしまう性格なの。どうしてかしら。ただ神経過敏なのかもしれないわね。ガードがとても固くて、うまくほどけない。困ったものね」
心まですっかりほどけたリンダは、しどけない姿でマーロウの前に現われる。ここは、村上訳が原文に忠実だ。

簡単に落ちる女だと思ったら、ヴィクターズではじめて会った時に誘っていたさ、と言うマーロウに、
“I don’t think so, That’s why I am here?”
清水訳「私はそうは思わないわ。だから、ここに来てるのよ」
村上訳「誘いをかけなかったのなら、私はなぜ今ここにいるのかしら」
村上訳でいくと、マーロウははじめからリンダにアタックしていたんだ、ということになる。だから、次の言葉が、「でもとにかくあの夜じゃない」という部分否定になる。清水訳では、最初の出会いのときに誘ってないから、今夜がある、という意味になる。いずれにせよ、マーロウは最初の夜にはリンダを誘っていない。あの夜はもっと他に気になることがあったからだ。
親しげな会話が続くうちに、リンダはシャンパンを再三ほしがる。なぜ?と問うマーロウに、
“It’ll get flat if we don’t drink it. Besides I like the taste of it.”
清水訳「飲まないと気分がわかないの。それに、舌ざわりが好きなのよ」
村上訳「飲まないと気が抜けてしまうでしょ。それにシャンパンが好きなの」
“it”が主語なのだから、沸き立つものがなくなってしまうのはシャンパンの方だろう。このあたりの会話は、もう内容など、どうでもいいような気がしてくる。勝手にやってくれというくらいのものだ。