marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『岸辺なき流れ下』 ハンス・へニー・ヤーン

岸辺なき流れ 下
圧倒的な読み応え。長広舌も、果てしなく続く議論も、挿入される逸話(アネクドート)も、小説的強度はドストエフスキーのそれに似るといっても過言ではない。内容以前に、読者にぐいぐい迫ってくる「読ませる力」が並大抵ではない。とにかく最後まで読み終わらずにはいられなくさせる、こんな小説はひさしぶりに読んだ。大河小説というふれこみだが、概要だけの第三部を別にすれば登場人物の数もさほど多くはなく、時代的にも一人の人間の一生のうちに収まる。問題は、この小説の持ち味が口に合うかどうかだ。

婚約者を殺した男を赦すばかりか、生涯の伴侶としてともに流竄の日々を送ることを決意する主人公の選択を受容できなければ、あとのすべてのことが絵空事にうつる。同性愛者が、世を憚りつつ二人だけの生活を営むことを可能にするためのやむをえない設定と考えることができれば、読み続けることはできるだろう。こういう選択をする主人公の生い立ちや心理を読者に納得させるために、作者は第二部を主人公の手記という形式にした。回想形式を用いることで、少年時の体験や伝聞による記憶のなかに後年の選択を余儀なくさせる楔を打つために。

下巻は第二部の後半が、その大部を占める。アニアスは作曲家として名を高め、トゥータインは馬の仲買商として成功していたが、いろいろなことがあり、二人はある島に土地を購入し家を建てる。今や死体となって部屋の長持のなかに入れられているトゥータインとの蜜月ともいえる時期が回想される。建築家や画家としての才能を持ちながら、アニアスの作曲家としての成功にかけるトゥータインと、自分の才能の有無に悩みながらも曲を作り続けるアニアス。

ところが、トゥータインの死後、独り暮らしとなったアニアスの家を訪れた者があった。かつて船主の下男をしていたアヤックスだ。料理上手で人あしらいに長けた青年は下男として雇われる。孤独な男の伴侶として、アヤックスの役割はトゥータインのそれに重ねられたが、『カラマーゾフの兄弟』におけるイヴァンとスメルジャコフのそれに似て、二人は似て非なる存在であった。トゥータインの埋葬を手伝って以来、アヤックスは雇い主を強請りはじめる。このアヤックスという青年の劣等感に裏打ちされた「悪」の歪んだ表出と、ただの二等水夫だったトゥータインがアニアスとの共同生活のうちに才能を開花させてゆく姿との対比が見事である。

作曲家グスタフ・アニアス・ホルンの主にバロック音楽に関する独特の意見が随所に挿入され、本人の作曲した楽曲のフレーズが楽譜として表記されたり、ゴシック建築とロマネスク建築の相違がキリスト教とそれ以前の異教の持つ宗教観の違いによるという論が開陳されたり、作者ヤーンのものであろう音楽や建築に関する見識が披露されているのも興味が尽きない。

しかし、それ以上に目を引くのが、主人公の披瀝する独特の宇宙論であり、人間観であり、宗教観である。小説は何でもあり。何をぶち込んでも成立するのが小説というジャンルだというのは、すでに『ユリシーズ』の洗礼を受けているヤーンなら予め了承済みであったろう。その独特の美学や哲学を思うさま、気持ちよくぶちまけている。内容的にはさほど革新的でもない。人間を特別扱いするキリスト教的な罪悪感に反論し、動物虐待を難じてみせるあたりも、キリスト教圏ならいざ知らず仏教圏なら当たり前のこと。それよりも気になるのが著者偏愛の呪物(フェティッシュ)だ。屍体愛好症(ネクロフィリア)めいた墓地、棺、人体、特に乳首に寄せる固着、糞尿等排泄への異常なこだわり、等々、枚挙に暇がない。

「音楽も例外ではないが、わたしが企てることはどれも、感情や印象が多すぎて邪魔になるのだ。雑然とした不明瞭なものの山、しばしばまだ名前もない多くのもの。形にならない幻影、もはや輪郭も定まらぬ記憶、海から浮かび上がった難破船の残骸のように、無意識の底から姿を現す、決して明らかになることのない愛と憎しみの魅力と嫌悪。」

主人公が自分を評した言葉だが、まさに本作そのものを評したものととれる。次々と浮かび上がっては想念の山を築く感情や印象の増殖に比べ、主人公の手記という一人称視点の採用によるストーリー展開の単調さと、独特の時間論を援用した船主との不可能な出会いの解決に見られるように、プロットが弱いのが気になる。とはいうものの、個性的な人物同士が出会うことによって愛憎を生み、骨絡みの葛藤が生じる独特の小説世界は濃厚にして蠱惑的である。

自分の分身ともいうべきトゥータインの棺を海溝深くに沈めた後、最期は愛する雌馬イロークと逝きたいと願う主人公の気持ちに深く共感した。その死の顛末は別として、地中深く愛馬とともに葬られたアニアスには思い残すことはなかったであろう。