著者マングェルは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスやアドルフォ・ビオイ= カサーレス等ラ・プラタ幻想派のすぐ傍にいて、盲目のボルヘスに本を読み聞かせていた男。いわばバベルの図書館の音声ガイドである。ペロン政権下でイスラエル駐在アルゼンチン大使の息子として生まれ、テルアビブで幼少期を送り、アルゼンチンに帰国するも、軍事政権時代にパリに移住。そのまま残れば、弾圧に屈するか、処刑されるかという厳しい選択を迫られての結果であろう。
フリオ・コルタサルもそうだが、故国が圧政下にあるときフランスに逃れていた事実は、後の仕事に色濃く影を落とす。小さい頃の読書体験やボルヘスとの思い出など、読書をめぐる心あたたまる話の間に、過って挟まった小石のように、政治的な話題が顔をのぞかせる。特に、マリオ・バルガス= リョサが、アルゼンチンにおけるかつての指導者の犯した罪に対して現指導者が発した恩赦を擁護した発言に対する批判(第七章「罪と罰」所収)は、容赦がない。
政治嫌いを広言して憚らないボルヘスの傍に長くいて影響を受けたのかもしれないが、マングェルは「穏健なアナキスト」を自称するように、政治信条や思想に対する過激な発言は少ない。他の作家についても皮肉の衣を塗した揶揄はしばしば見せるものの、正面切っての批判は自ら封じているように見える。それだけに、マリオ・バルガス= リョサの発言に対する剥きだしの反駁には意表をつかれた。政治的弾圧によって殺された友人たちに対する自責の念が、落選したとはいえ、大統領選に出馬したノーベル賞作家の、文学者というよりも政治家としての顔の露骨な発現を赦せなかったのだろうか。
読書一般に関するエッセイ集だから、前作『図書館 愛書家の楽園』と重なる話題も多く、前作の読者なら、ああ、それ前も聞いたよ、という感想を持つかもしれない。ただ、前作が図書館という主題に限ったエッセイであったのに比べると、本作は、より著者アルベルト・マングェル個人に寄り添った話題を多く集めているようだ。数多くのエッセイを鳥瞰すると、そこに著者の読書人生が浮かび上がってくるという仕掛になっている。諸国放浪と『聖書』はもとより『ドン・キホーテ』や『イリアス』、『オデュッセイア』といった古典にはじまる浩瀚な読書体験に裏打ちされた豊かな読書人生。
なかには特に読書に関係なく、カーナビー・ストリートで自作のベルトを売っていたらミック・ジャガーの目に留まり、コンサートで使ってもらえたという幸運なエピソードなどもまじる。肩までかかる長髪に、パリのクリニャンクールの蚤の市で買った木綿のシャツの下には真っ赤なベルボトムのパンツという出で立ちで英仏間を往き来し、税関で歯磨きチューブの中までチェックを受けた経緯も当時の時代を思い出させて懐かしい。大使令息という特権を行使しようとしてイギリスの官僚主義にこっぴどくやり込められる顛末も、透けて見える階級意識を自分を道化にすることで、うまく切り抜けている。
仕掛けといえば、すべての章と文章の前に『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』から引かれたエピグラフが付されていて、これが実によく出来ている。エピグラフなのだから、エッセイの主題と関連しているのは当然なのだが、すべてを『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』二作からの引用でまとめて見せる手腕に、ほとほと感心した。ルイス・キャロルは著者の愛読書だというが、暗記できるほど読んでいなければできない芸当である。読書や図書館についてのエッセイを自分の主戦場にするからには、これくらいのキャパシティがいるのだな、とあらためて思い知らされた。
「みずからが国家の法律に背くような政府は犯罪者を正しく裁くことはできない。個人的な正義感、復讐心、欲望、ましてや個人の倫理観だけで裁きを下してはいけない。国民一人ひとりの個人的な行為を含め、すべてを国の憲法の規定に従わせるべきである。法をもって法を施行し、法律の文言から逸脱してはいけない。法の限界を超えたとき、政府はもはや政府とはいえず、権力の簒奪者でしかない。そして、そのような存在として裁かれるべきである。」
マリオ・バルガス= リョサの発言について触れた文章の中からの引用である。オーデンは「詩はなにごとも引き起こさない」と言ったそうだが、著者はそうは思わない。わたしもそうは思わない。ことはアルゼンチンやペルーに収まらない。現今のこの国にあって、引用文は警告として響く。時によらず、国や民族を選ばず、なされた読書は世の中を正しく見る目を養ってくれることを疑わない。リア王は言う。「われわれは、神のスパイのように、この世の秘密を引き受けよう。壁に囲まれた牢獄のなかで、月のように満ちては欠ける権力者たちの勢力の消長を眺めるとしよう」と。シェイクスピアの、ホラティウスの言葉がいちいち心に響く。この「神のスパイ」たちの言葉に、今こそ耳を傾けるときだ。