marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第52章

スターの紹介状を持ってマーロウのオフィスを訪ねてきた男は、シスコ・マイオラノスと名乗った。マーロウは、早速レノックスの最期について質問した。そのときの客のなかにアメリカ人は二人いたという。

“ Real Gringos or just transplanted Mexicans? ”

清水訳「生粋のアメリカ人でしたか、アメリカへ移住したメキシコ人でしたか」
村上訳「普通のアメリカ人ですか、それともメキシコ系アメリカ人?」
ここは、清水氏のほうが原文に忠実なように思える。一人はスペインの血を引いているようだった、と答えた男は、それに続けて言う。

“ He spoke border Spanish. Very inelegant. ”

清水訳
「国境近くで使われるスペイン語を話していました。大へんエレガントでした」
村上訳
アメリカとメキシコの国境近辺で使われているスペイン語を話していました。とても品のない言葉です」
清水氏は二文字読み飛ばしてしまったのだろう。誤訳である。清水氏の訳については手持ちのハヤカワ文庫(初版三十五刷)を参照。この部分に限らず後の版で修正されていたら申し訳ない。

郵便ポストにこだわるマーロウは、マイオラネスになぜポストにではなく、自ら郵便局に持っていったのかと重ねて問う。「郵便ポストですか」と不審げなマイオラネスに確認するように言うところ。

“ The mailbox. The cajón cartero, you call it, I think. ”

清水訳「そうだ。郵便を投げ入れる箱さ」
村上訳「郵便ポストだよ。カヨンカルテロと君たちは呼ぶのかな」
清水氏は、スペイン語を訳してそのままもとの英文のなかに紛れ込ませている。村上氏はいつものように律儀にスペイン語であることを明らかにしている。

メネンデスら二人のアメリカ人が行った偽装工作については本文を読んでいただくとして、これがばれるとアメリカ、メキシコ両国で問題になるのは明らかだ。

“ It had to be good enough to fool a lawyer who had been a District Attorney, but it would make a very sick monkey out of the current D.A. if it backfired.”

清水訳
「地方検事をつとめたことのある弁護士をなっとくさせればよかったんだ」
村上訳
「それはかつて地方検事を務めていた弁護士をだまくらかせる程度には上出来の偽装だった。しかし、もし真相が露見したら、現職の地方検事はいい笑いものになる」
後半部を相変わらず清水氏はカットしている。一介の弁護士くらい騙しそこなってもどうということはないが、現職の地方検事となるとメネンデスにとっては命取りだ。おとなしくさせるためにマーロウを痛めつけたくもなるだろう。