marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ランペドゥーザ全小説』ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーザ

ランペドゥーザ全小説――附・スタンダール論
1860年五月、当時イタリアは統一されておらず、シチリアは依然王国下にあった。パレルモに広大な館を持つ公爵ドン・ファブリツォは実績ある天文学者らしく移り変わろうとする時代を冷静に受けとめていた。ガリバルディ上陸以来、革命を象徴する三色旗の動きが目立ち始めていたが、領主また家族の長として皆に慈愛や威厳を示す傍ら、夫人に隠れ、愛人と情を交わす公爵の毎日は変わらなかった。そんなある日、公爵は敷地内で兵士の死体を発見する。太古から変わらぬように見えるシチリアにも時代の波は押し寄せ、ついに公爵の足許まで忍び寄っていたのだ。

今はガリバルディ軍で大尉をしている野心家の甥タンクレーディは、館で出会った市長の娘に一目惚れし、結婚したいと言い出す。才気はあっても財産のない甥には、成り上がりではあるが金と土地を持つ市長の娘は恰好の相手といえた。当初は馴染めぬ思いをした公爵も、度々婚家を訪れるようになった甥の許婚とその父の持つ、自分たち貴族にはない生命力や金儲けの能力に対し、賛嘆の念すら覚えるのだった。やがて、住民投票の結果、両シチリア王国はヴィットリオ・エマヌエーレ二世の治下となり、統一イタリアが生まれる。管理経営能力を持たぬ貴族が没落していくのに対し、万事世知に長けた新興ブルジョワジーが擡頭し、すべてが移りゆく様を静かに眺める公爵だった。

映画好きならお気づきのように、1963年カンヌで賞を獲ったヴィスコンティの映画『山猫』の原作である。主人公のドン・ファブリツォのモデルは、作者ランペドゥーザの曽祖父に当たり、作家自身も公爵の称号を有する。「全小説」と銘打っているように、他に短篇集とスタンダール論を含むが、読者のお目当てはやはり作家唯一の長篇小説「山猫」に尽きる。スタンダールを終生の師と仰いだ作家の小説論は、所収のスタンダール論に詳しい。時間の取り扱い方や内的独白の先駆とも言える主人公の心理描出法は、そのスタンダールに倣ったものである。

長篇小説作家は読者に息抜きの場を与えねばならない、という言葉がスタンダール論にあるが、たしかに、一章が終わるたびに書物を閉じて一息入れた。主人公である公爵の思惟を長々と物語る文章は冗長なところのない引き締まった叙述であるだけに、所々に愛犬ベンディコや話し相手の神父とのやりとり、庭園の植物や泉水の様子が挿まれるのが唯一の息抜きである。さしものシチリア貴族も時代の大波をかぶり、没落の傾向に歯止めがかからない。すべて生あるものは死に向かうこと、形あるものは壊れてゆくことを知る公爵は時代に逆らうことはせず、従容としてしたがう。ただ、胸の裡にはまだ騒ぐものがある。例えば、甥の許婚に対する秘された欲望であり、親しい者たちから感じる自分の権威の衰えであるが、賢明なことに習慣となっている抽象的な思索のなかに紛らせている。

パルムの僧院』を「年配者によって年配者たちのために書かれた小説」と評するランペドゥーザだが、『山猫』もまた、そうではないだろうか。主人公の公爵は、貴族であり、歴史を継承するよう義務づけられた階層の最後の一人である。自分たちを滅ぼそうと襲い掛かる時代の動きを察知しながらその動きに抗うことも、逃げることもせず、ただ諦めるのでもない。歯噛みするような反発を総身に感じながら、その巨躯で辛うじて耐えてみせる、この巨人の運命と向き合う姿は、ある程度世の中を生きてきた者にしか通じないであろう静かな感動を呼ぶ。

イタリア統一運動時代を背景に、没落する運命にある貴族が時代にどう対峙したか、その心理、感情を自分の曽祖父に仮託し、シチリア貴族の末裔が存分に描き出した歴史長篇小説。素材に文句はない。貴族という、平民にはその細部を窺い知れない特権階級の日常生活。祈祷に始まり、衣服を整えての食事、華麗なる晩餐、そして舞踏会。建築の意匠、家具調度、料理の献立、絵画骨董に至るまでを、自身公爵でもある本人が、その幼少時の記憶を総動員して描き出すのだから、面白くないはずがない。もっとも、凡手であれば惨憺たる結果が待っていようが、ご安心あれ。ランペドゥーザ、並大抵の作家ではない。先を読むのが惜しく、章ごとに休みを入れて読むほどの圧倒的な面白さ。近頃、これほど小説を読んだという手ごたえを感じた作品に会ってない。

発表が1958年。一世紀も昔の貴族の生活を描いた小説は左派による批判を受け世間を騒がせたが、アラゴンルカーチがマンゾーニの『いいなづけ』以来のイタリア小説の名作と誉めそやしたことで、世評に上り、世界的ベストセラーとなった。作家の死後の刊行となり、未亡人や編集者の手が入った異本が多く、今回の新訳が定本となるようだ。カフェを渡り歩きながら書き綴ったといわれる小説は遅咲きながら、本格的な味わい深いもの。短篇「セイレーン」は、異様な素材を選びながら、幻想小説によくある陳腐さと無縁の、老師と若者の心の通い合いを主題とする佳編。一読の価値ありと見た。

近頃はやりのポスト・モダンを謳った貧血気味の小説など束になっても敵わない、逞しい筋肉と血管を流れる音が聞こえてきそうな血の通った本格小説である。渇ききった炎熱のシチリア、一木一草もない苛烈な大地を一日がかりで馬車に揺られてゆくような、たっぷりとした読み心地に酔いしれたい。