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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『わたしは灯台守』エリック・ファーユ

わたしは灯台守 / 原タイトル:Je suis le gardien du phare[本/雑誌] / エリック・ファーユ/著 松田浩則/訳
九篇の短篇を収める短篇集である。その味わいを一口にいうなら「不条理」だろうか。特にその感が強いのは、国境に造られた壁を上り、その上からの眺望を楽しみに登りはじめた男が、様々な障害にあい、なかなか上層階にたどり着けない状況を描いた「国境」にとどめをさす。はじめは、観光気分で国境の壁にやってきた男が、許可に手間取ったり、壁の中途に設けられた宿舎に宿泊したり、ついには、その旅程の遠大さから登頂をあきらめる人と出会ったりしながら、上るべきかやめて途中で出会った女と結婚するべきか真剣に悩む様子が、状況と不釣合いなほど真摯に書かれるので、不条理感が募る。

寓話のような語り口ながら、これといった寓意があるのでもない。ただただ辻褄の合わない状況に放り出された人物の、漠然とした悪意に翻弄されているような境遇を追体験させられる、どこかカフカを読むときに似た読書体験である。特殊な状況を極限まで誇張することから起こる滑稽さと神話のようなスケール感。はじめは、ただの国境を隔てる壁でしかなかったものが、話が進むにつれ、次第に聳え立ち、覆いかぶさるような威圧感と果てしもない質量を保有する時空と化し、男の意志の成就を何が何でも拒絶する外界の意志の具現化したもののように思えてくる、その言語詐術はなかなかのもの。同じような不条理感を漂わせながら、より物語的な意匠を採用したものが「六時十八分の風」ほか数篇。

表題作「わたしは灯台守」は四部構成。短篇と呼ぶには少し長めの中篇小説。他の作品の人物に比べれば人物像がくっきり描かれている。自ら望んで海の上に建つ灯台守となった男の孤独な日常と、刻々と移るその心理の推移を追ったものだ。本人の告白からすると、現状に対し批判的な意見を表明したために、現在の状況に追いやられたある種のイデオローグのようだが、別の日の真情の吐露を信じるなら、女性に相手にされない自分を認めたくないがための逃避のようでもある。

孤独にもいろいろある。人との関係を欲しながら満たされぬ思いで陥る孤独もあれば、自ら望んでその境遇に生きる場合もある。前者の境遇にある人物を描いた作品は数多くある。多くの人が孤独であることに不遇を感じるからだろう。しかし、中には孤独を望む人もいて、その境遇に生きる自分を観照する隠者のような人もいる。後者の場合、本人の書いたものが世に残ることになる。さらに、自らは望まないのに、孤独を強いられる者もいる。獄舎に閉じ込められる囚人がそうだ。

暗礁も通る船舶もない海域に設けられた灯台には存在理由がない。しかし、彼の前にも灯台守は何人もいて、書き継がれた「日誌」で灯台の内部は埋まろうとしているほどだ。ただ、それは百五十年の間は読まれることのない決まりになっており、彼に読むことはできない。外界からの連絡は、ヘリコプターに限られていたが、ある日電話が設置される。間違い電話以外にかける相手もかけてくる相手もいない電話が醸し出す強烈なイロニー。切実に他者との関係を求めながら、そういう自分を認めず、他者を拒否するポーズを貫く主人公は、ヘリコプターが届ける昇進の連絡やそれが誤報であったことを告げる連絡によって一喜一憂し、徹底的に翻弄される。

「国境」のように、ひたすら不条理に感じられる作品とは少し異なり、表題作には苦い自己認識が認められる。現状に対する不満を抱きながら、それに対峙し、状況を改革するというアクションはとらず、否定の身振りを振りまきながら、自分の認めない状況から距離を置く批判者というスタンスを取り続ける「わたし」というものに対してである。自らを「象牙の塔の番人」と呼ぶ「わたし」は誰も読むことのない「航海日誌」を書き続ける。

エピグラフに、作家の言葉が掲げられている。「わたし」のような男を「象牙の塔の間借人」と呼ぶ作家は、こう書いている。「間借人たちは彼らの塔を愛している。唯一彼らが恐れていること。それは、いつの日か賃貸契約が解除されてしまうこと。再び路頭に迷い、もう二度と閉じこもって抵抗することができなくなること。あのくだらないものに、彼らに攻撃をしかけ感情をかきみだしにやってくる、あのどうしようもなくくだらないものに、万難を排して抵抗することができなくなること」。

「どうしようもなくくだらないもの」とは何の謂いだろう。象牙の塔を出て、日常の瑣事に携わることから生じる諸々の関係性がもたらす「非本来性」をいうのだろうか。この作家の本来性に対する切迫感が強く感じられるエピグラフだが、表題作はまさにそれを主題としている。ただ、「国境」には、作家の別の資質がのぞいているようにも思える。個人的な主題にばかり固執するのではなく、近ごろ稀な「不条理」を感じさせてくれる物語世界を創造できる作家としての活躍も期待したいものである。