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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ボヴァリー夫人』論 蓮実重彦

「ボヴァリー夫人」論 (単行本)
あまりに有名で、作品を読んだことはなくとも、その標題くらいは聞いたことがあるだろう、ギュスターヴ・フローベール作『ボヴァリー夫人』について書かれた、著者によれば「批評的なエッセイ」である。それゆえなのか「蛞蝓が這い回った後に生じる燐光を帯びた航跡のよう」だと評される独特の文体は、すっかりとは云わぬまでも、かなり影をひそめ、読みやすく分かりやすいのに拍子抜けした。

ボヴァリー夫人』とは何か、と聞かれた多少なりとも文学に詳しい人が口にするのは、ルーアン近郊の田舎に住む免許医の妻であるエンマ・ボヴァリーが他の男と関係を重ねたあげく、男に捨てられて自殺する話、というあたりだろうか。一般的にはそれでまちがっていない、と誰でも考えたいところだが、そこは蓮実重彦。そう簡単に話をはじめてはくれない。まずは、「ボヴァリー夫人」とは、誰のことかという決まりきった設問に疑義をはさむ。たしかに、作品に登場するボヴァリー夫人と呼ばれる女性は三人いる。まずは、夫シャルルの母、次に先妻のエロイーズ、最後がエンマである。

三人のボヴァリー夫人がいるのに、標題を読んだ誰もが、エンマのことにちがいない、と思い込むのは、それまでに語られてきた多くの言説に影響されているからだ。蓮実は、たびたび「テクスト的現実」という言葉をつかう。『ボヴァリー夫人』に関してこれまで語られてきた、無責任で信用できない言説から自由になり、目の前にあるテクストを読むというところから話に入ってゆく。実は、先に使用した、そして多くの作家・批評家が無批判に用いてきた「エンマ・ボヴァリー」という呼び名は、作品内で一度も使われてはいない、というのが蓮実の議論の端緒である。たしかに、ボヴァリー氏の妻でエンマという名の女性はエンマ・ボヴァリーだろうけれど、作家が使用していない固有名を持ち出すのは、「テクスト的現実」を無視している、と筆者は言う。

語られることもあれば、語られぬこともある。姓名を詳しく記述される傍系の人物も作品中に登場するのに、何故「ヒロイン」は、一度もエンマ・ボヴァリーと呼ばれていないのか。そこには作者の意図があるにちがいない、と考えるのが、テクストに基づいて批評する者のとるべき態度なのだ。一事が万事、このスタイルで貫かれている。先行する批評、論文をあまねく渉猟し、その至らぬ点については批判を、すぐれた論考については同意を唱えながら、読者に『ボヴァリー夫人』に纏わる言説のもたらす批評の開けた地平を開陳しつつ、ゆるゆると持論を展開してゆく。

その映画批評で、大柄な西部劇俳優で政治的にはタカ派として知られるジョン・ウェインを、柱にもたれたり、ライフルでなければコーヒー・カップ、それもなければ包帯で片腕を釣ったり、若い女性を腕に抱いたり、と常に何かに触れていないと大地に佇立できない「接触の魔」と喝破して見せた手際に、手もなくひねられたのを覚えているが、『ボヴァリー夫人』も、その流儀である。テマティスムというのだろうか。ストーリーとは無縁に、たとえば、「手」、「足」、「塵埃」、「毛髪」といった事物が何度も作品中に登場する場面を吟味し、それが登場する場面の前後で、エンマやシャルルのとる行動にどのような変化が見られるか、を微細に読み込んでゆく。相変わらずの鮮やかな手並みだが、初めて見せられたときのようには驚かない。ふむふむ、なるほど、といった感じ。

それよりも、従来の小説を読みすぎて、現実世界をそれととりちがえた夢見がちな女性としてとらえられてきたエンマ像や、妻の心理や行動の変化に気づくことができない鈍重で無神経な夫と見られてきたシャルル像の読み替えに蒙を啓かれた。いかに、われわれ読者は「テクストをめぐるテクスト」に影響を受けてテクストに対しているか、そのために読むべき文章を読み飛ばし、勝手な人物像を創りあげてしまっているか。筆者があたらしく取り出してみせるシャルルのなんと、生き生きした人物であることか。
この小説を「エンマ・ボヴァリーは自殺した」と要約してみせた批評家がいたそうだが、思い出してみよう。小説は転校生のシャルルが「僕ら」の前に登場する場面から始まっているし、エンマの死後も小説は続いている。最後は薬剤師オメーの受勲の知らせで終わっているのだ。出版当初は「地方風俗」という副題が付されていたこの小説をよく読めば、エンマは「自殺」などしていないことがよく分かる。なんと、自殺を認めるはずのないカトリックの司祭にみとられて最期を遂げているではないか。

あまりにも有名な『ボヴァリー夫人』を読むという作業に待ち受ける陥穽にはまることなく、手垢のついたボヴァリー夫人像にも染まらず、ほこりを払って目も覚めるようなエンマやシャルルに出会える、フローベールが書いた「テクスト」としての『ボヴァリー夫人』を読むための待望の手引書である。