チャンドラーの創作ノートに未発表作品の題名としてリストアップされていた“The Black-Eyed Blonde”(稲葉明雄訳は「殴られたブロンド」)をちゃっかり拝借して書かれた、あの『ロング・グッドバイ』の「公認続篇」だそうだ。作家は疾うに亡くなっているのに誰が公認したんだろう、と疑問に思って調べてみたら「遺族」公認とのこと。ブッカー賞受賞作家で、ミステリでも実績のある作家だからだろうか。草葉の陰でチャンドラーが苦虫をかみつぶしたような顔をしているのが見えるようだ。
ある暑い日、マーロウのオフィスを訪ねてきたとびっきりの美女はブロンドにはめずらしい黒い瞳の持ち主だった。失踪したかつての愛人を捜してほしいという依頼だ。さっそく捜査を開始すると、マーロウの足を向ける先々に死体が転がりだす。マーロウ本人も危険な目に遭うが、からくも脱出し、事件の真相にたどり着く。そこには意外な人物の姿があった。
矢車草の瞳の次は黒い瞳か、と皮肉の一つも言いたいくらいに、チャンドラーのこれまでの作品を下敷きにして書かれた、流行りの言葉で言えばパスティーシュ。平たく言えば模倣作で、そう考えれば出来はさほど悪くはない。仕事の依頼人は、一代で資産を築き上げたやり手の資産家の娘で、これ見よがしの豪邸に住み、広い邸の中には問題を抱えた兄弟姉妹がいる。凄腕のギャングや、政界に顔のきく実業家が次々と登場しては、マーロウを質問攻めにし、挙句が薬を盛っての拷問で、いつまでたっても真相に近づかないのもお約束である。
登場人物の顔ぶれだが、『ロング・グッドバイ』の続篇と銘打っているだけに、バーニー・オールズは勿論のこと、警官のグリーン、<ヴィクターズ>のバーテン、それに、なんとあのローリング医師まで登場するに至っては、笑ってしまった。会話のなかにはリンダ・ローリングもハーラン・ポッターも出てくるという大盤振舞い。そうなると、テリー・レノックスを登場させない手はない。なにしろ公認続篇なのだ。
アイルランド系の作家がアイリッシュの血を引くチャンドラーのパスティーシュを書くのだから、独立戦争が残した傷に触れようが、マーロウをアイリッシュ酒場に立ち寄らせようがそれはかまわない。問題は、作品自体が贔屓の引き倒しになってしまっていることだ。一人称で語るマーロウの口が、いつになく滑りやすくなっているのはまだ我慢ができる。もともと、おしゃべりが過ぎるのだ。ただ、話が始まって間もないうちに、依頼人であるクレアとベッドに、というのはちょっといただけない。
それだけではない。どちらかと言えば女嫌いなのではと思わせるほど、いつもは女にクールな態度をとる男が、寝ても覚めてもクレアのことが頭から離れないというのでは、これは我々がよく知っている、あのフィリップ・マーロウではない。マーロウがマーロウらしくないように、バーニーもバーニーらしくない。かつては同じ部署で働いていた同僚であるが、今は私立探偵と警察官という微妙な関係にある二人のいわくつきの「友情」は、ここで書かれるような、映画『リーサル・ウェポン』めいたバディムービーを思わせる類の軽妙なものではない。
いわんや、あのテリーとの思い出の場所である<ヴィクターズ>にバーニーを誘い、ギムレットで乾杯するなんてことは、マーロウなら絶対にするはずがない。まだある。麻薬の過剰摂取で危険な状態にあるクレアの弟をスキャンダルから守るためにとはいえ、あのローリング医師に電話をして呼ぶだなんて。正編で徹底的に侮蔑されているあの男が、ここではいっぱしの旧友のように登場するのを見て、果たしてチャンドラーは喜ぶだろうか。ポッター老をマスコミ界を支配する巨悪のように描くのも遺憾だ。著者は、本当に『ロング・グッドバイ』を読んだのだろうか。
言いたいことはまだあるが、一応「探偵小説」なので、これ以上正編との差異をあげつらうのはやめておくのが無難だろう。つい最近、テレビでも日本版『ロング・グッドバイ』をやっていた。それほど人気がある作品なのだ。それだけに続篇を名のるなら、正編に対するリスペクトを失ってはならないと思う。たしかに、謎を秘めた魅惑的な美女やそれなりに魅力を備えた悪役の造形はできている。マーロウを登場させるに相応しい舞台設定も巧みである。それならそれで、堂々と新作を書けばいい。チャンドラー自身、若い頃のマーロウと歳を感じ出したマーロウとを書き分けている。いっそ、若い頃の話にでもしてしまえば、すぐに女と寝ても若さゆえの愚かしさと見過ごすこともできる。なまじ、『ロング・グッドバイ』の後日談のような設定にするから差異が目立つのだ。
あえて、『長いお別れ』ではなく、『ロング・グッドバイ』と書いてきたのには理由がある。それは、訳者小鷹信光氏が訳に際し、村上版の『ロング・グッドバイ』を意識して訳されたと言われているからだ。そういえば“cheapy”の訳語として「はんちく」という、あまり馴染みのない言葉を引っ張り出してきたのは村上氏だったが、小鷹氏がそれを踏襲しているのが愉快だった。
ハムレット役者は孤独なものだ、という意味のことを言ったのはピーター・オトゥールだったと記憶するが、ハムレットと同じように、誰にも自分なりのマーロウ像がある。あえて、マーロウを主人公に据えるならそれだけの覚悟をもってやるがいい、と言いたいところだが、チャンドラーのファンでなくても読むかもしれない。もし、この手の小説が気に入ったら、是非チャンドラーの書いた『ロング・グッドバイ』を読んでほしい。そこには、まぎれもない正真正銘のフィリップ・マーロウがいるはずだから。