「君は死体保管所にいる。そこの照明は不気味だ」という書き出しの一節からも窺えるように、全編を通してヌーヴォー・ロマンを思わせる二人称視点で書かれたハードボイルド小説。ハードボイルド小説を二人称視点で書くという試み自体が、すでに慣れ親しんだものを新しい視点から見つめることで生まれる「異化」効果となっている。作者クーヴァーはトマス・ピンチョンらと並ぶポスト・モダン文学の重鎮で、パロディの名手。つまり、これはハードボイルド小説や、それを原作として生まれた「フィルム・ノワール」と称される映画ジャンルをパロディ化したものである。
タイトルの「ノワール」は、フランス語で「黒い」の意味だが、主人公の私立探偵の名前であると同時に既に述べた「フィルム・ノワール」を踏まえてもいる。狭義には「虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画」と定義される「フィルム・ノワール」だが、時代的にモノクローム・フィルムで撮影され、白と黒のコントラストが強調されたことで、人間の持つ裏や陰の部分が前面に出た。「暗い映画」と呼ばれる所以である。道義的に許されない行為に手を染める富裕層やファム・ファタル(魔性の女)と呼ばれる美女を相手に、私立探偵が孤独な闘いを挑む。ハメットやチャンドラーの描いたサム・スペイドやフィリップ・マーロウといった私立探偵の活躍は何度も映画化されている。
何度も繰り返され、使い回された結果、ジャンルとしてのハードボイルド小説や「フィルム・ノワール」映画といった「ノワール物」は、すでにステレオタイプと化し、そのままでは陳腐なものとなっている。それを逆手にとって、どこまでも「ノワール物」の手法を生かしながら、視点を二人称にしたり、甘い物に目がなく、トレンチ・コートの下は裸にゴム底靴という出で立ちの探偵を創造したりすることで、今まで自動化されて眼にとまっていなかった「ノワール物」の細部に、もう一度目を向けさせることを意図して、この小説は書かれている。
主人公の探偵の名前はフィリップ・M・ノワール。「Mはファミリー・ネーム」とトボケているが、そこに「マーロウ」を読んでしまう読者が予め想定されている。不定期に常駐する助手の名がブランチ(フランス語なら白)。ドジで怪我ばかりする探偵の有能なコーチであり母性的な介護役を勤める、この二人のコンビは『マルタの鷹』のスペイドとエフィーだろう。すべてがこの調子で過去の「ノワール物」のパスティーシュになっているのはいうまでもない。
しかし、ただのパロディと思っていると大まちがい。ハードボイルド小説というジャンルは既に完成済みであり、下手にいじくれば無様な失敗作となるか、よくて上出来の模倣作となるのが関の山。この前読んだばかりのベンジャミン・ブラック著『黒い瞳のブロンド』など、まさにその後者の一例。内容はステレオタイプに決まっているのだから、上手くなぞったところでコピーに終わるのは当然。クーヴァーはちがう。形式にとことんこだわる。
チカチカ点滅するネオンライト、雨の降る桟橋、牛乳容器に入れたウィスキーを出す食堂、全身に刺青を施したミチコという名の娼婦、ネズミという名の情報屋。情景も人物も徹底的に深く鋭く彫り込まれ、くっきりとした輪郭をまとった細部が其処此処に立ち上がる。やわなミステリーなら機械的に書きトバシてしまうだろうディテールが、吟味され、練り上げられて俎板ならぬページの上に供せられる。それを目にし、味わう喜びは極上の料理を堪能するのに似ている。パロディと呼ぶには、あまりに高すぎる完成度をもつ上質の「ノワール」小説。最後のどんでん返しに思わずニンマリしてしまう。
「どうして都市が不潔でも、われわれは都市をこのように愛するのだろうか?むしろ都市が不潔だから愛するのだ。小便をひっかけられ、唾を吐かれているから。意味がなく、危険であるから。われわれはそこにつながりを感じることができる。原則はこれだ――肉体は常に病んでいる。健康なときでも、あるいは健康であると思っているときでも。細胞は細胞を食っている。すべては消化に関わることだ。あるいは、消化不良に。都市においてわれわれが腐敗と呼ぶもの。食べる側が食べられる側を食べること。ほとんどは騒々しい闇のなかで起こる。それは死ぬまで続く汚い闘争であり、すべての人が負けるのだ」。ノワールの独白である。チャンドラーお得意の文明批評を真似ながら、それをはるかに凌駕する一節ではないか。