marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『遠い部屋、遠い奇跡』ダニヤール・ムイーヌッディーン

遠い部屋、遠い奇跡 (エクス・リブリス)
一九七〇年代終りから二十一世紀にかけて、パキスタンパンジャーブ州に大農園を経営する地主ハールーニー家に関わる人々のそれぞれの人生を描いた連作短篇集。時代の移り変わりとともにそこに生きる人々の意識や生活が大きく様変わりしてゆく様子が、主人とその係累、執事、運転手、庭師といった末端の使用人に至る、様々の階級を異にする主人公の目を通して描かれる。一人の人物に焦点を当て、その行動や心理を通し、大地主一家を中心に繰り広げられる、虚々実々の人間臭さ溢れる人生模様が的確にスケッチされる。

半世紀近い過去を描いた諸篇では、あまり馴染みのないムスリムの結婚式や葬儀の風習を通じ、パキスタン文学らしさを示しながら、日陰をつくるために植えられた菩提樹の並木道、ミルク入りの紅茶といったE・M・フォースターの小説で見慣れたインド亜大陸の風物も抜かりなく配し、英文学の系譜を引くことを見せている点など頗る興趣に富む。一方、時代を現代にとった作品からは、シャンパンやバレエを愉しみ、パリやニュー・ヨークを往き来する優雅な階級ならではの西洋文明に首まで浸かった暮らしぶりに、同時代の西欧文学に何ら遜色ない面も披露してみせるなど、才能の片鱗を惜しげもなく見せつける。

巻頭に置かれた「電気技師ナワーブッディーン」と巻末の「甘やかされた男」は、中老年の男性を主人公とし、己の才覚で家庭生活を豊かにしてゆく姿を描いた好短篇。恵まれない階級に生まれた男は、弁舌を駆使して相手に取り入り、器用仕事をこなしながら、少しでも今より好い生活を手に入れるしかない。ささやかな幸せを手にするための涙ぐましい努力と、それが一瞬にして瓦解することが、ただ一枚の戸を隔てているに過ぎない運命の皮肉を描いて秀逸。読者に思慮を強い、余韻を感じさせる結末は短篇小説の手本のような二篇である。

つつましい生計の維持を期待するのがやっとの男たちと違い、七〇年代終りから八〇年代を背景に持つ「サリーマー」、「養え、養え」、そして表題作「遠い部屋、遠い奇跡」の女たちはたくましい。少しでもいい暮らしができるなら、年上であろうと、妻帯者であろうと、処女を捨てることになっても躊躇したりしない。しかし、階級制度や血縁関係といった旧態依然とした体制が力を持っていた時代、地方にあって、彼女たちの得た地位は、寄りかかった大樹が倒れたときひとたまりもない。ほかに頼るものとてないわが身ひとつを武器にのし上がってゆく女たちの栄華と没落を描く筆は、指の間に挟んで水気を絞りきったドライブッシュのそれのように乾ききっている。

パキスタンを舞台にしない唯一の作品「パリの我らが貴婦人」と、中篇と呼ぶべき「リリー」は、二篇とも現代の男女の結婚を主題にしている。上流階級らしい観劇や食事、パーティー、ピクニック、小旅行といったモチーフを巧みに展開させながら、単に男女が愛し合うことに比べたら、結婚というものが如何に複雑で困難な状況を呼び寄せるものであるかということを、きわめてリアルな視線で描いて見せる。二組のカップルの誰一人として悪感情を抱かせる人物はいないのに、読後に感じる深い徒労感はどこから来るのだろう。人種の壁、人生観の違い、とその要因はいくらでも挙げられるだろうが、愛はそれらを軽々と越えたりしない。醒めた現実感覚はこの作者の個性なのか。今後が楽しみな作家の一人である。