暴動が起き、多くの人々が逃げ出した都市ベローナにやってきた男は自分の名前さえ忘れていた。街は荒廃し、昼間でも煙に覆われている。理由は分からないが政府や他都市から隔絶されて救援の手は届かず、医療や日々の食事にも窮する在り様。残った人々はコミューンを作り、公園や空き家を勝手に占拠しては共同で生活している。彼はそこで恋人を見つけ、偶々見つけた誰かのノートに詩を書くようになる。ベローナを訪れていた有名な詩人の推薦で、その詩集『真鍮の蘭』は印刷される。しかし、我が物顔に街を闊歩する無法な集団スコーピオンズに接近してゆく彼になじめず、恋人は距離を置きはじめる。二巻にわたる長篇の一巻目をダイジェストするとすればこんなふうになる。
読点から書き出される小説というのをはじめて読んだ。それだけで、これが普通の小説でないことはおおよそ見当がつくというものだ。ディレイニーが、SFの世界では天才と呼ばれる作家だと知っていてさえ、不安になる書き出しではないか。しかし、それはほんのはじめだけのこと。しばらくすると、主人公はヒッチハイクでアメリカのハイウェイを走っていて、読者はこれが旧知の世界を舞台にしていることにほっとさせられる。やがて男は車を降りるが、そこはまだベローナではない。
ベローナで何が起きているのか、主人公が何をしにこの街にきたのかは明らかではない。ただ、主人公はニュー・ヨーク生まれ、コロンビア大学他で学び、日本、オーストラリアなど世界各地をめぐったことなどは記憶している。自称二十七歳、過去に鬱症で精神病院に入院していたことや、母がチェロキー族であったことなどは、主人公の個性を何がしか強める働きを持つかもしれない。
ヒッピーを思わせるコミューンや、ヘルズ・エンジェルズを思わせる革のベストや鎖といった小物がなんとも懐かしい70年代風ファッションが続々登場するので、今読めばレトロ・スペクティブな印象を持つのだが、発表当時はリアルタイムな世界だったのだろう。当然のことながら、ただの70年代ではない。主人公が身につけるプリズム、鏡、レンズを連ねた「鎖」、「蘭」と呼ばれる剃刀状の刃を並べ手首に装着する「武器」等に加え、SF的ギミックももちろん用意されている。街は火災から出る煙で覆い尽くされ、昼は灰色、夜は闇に包まれている。威圧感の演出か仲間を見つける徴にか、スコーピオンズのメンバーはホログラム投光装置によって映し出された映像を身に纏う。上はドラゴンから下はカタツムリに至る多彩な顔触れはグループ内のヒエラルキーを物語ってユーモラスである。
人物造形の巧みさもこの作者ならでは。ベローナという都市の水先案内人役を務めるタック・ルーファーは主人公に「キッド」という名前を与える名付け親でもある。ノーベル賞候補に三度名が挙がった詩人ニューボーイは、キッドに詩や芸術について教えを垂れるマスター役。弁舌爽やかに語る芸術論はディレイニー自身の考える詩や芸術を語ったものと考えていいだろう。恋人のレイニャとの会話も含め、傍役の人物にいたるまで人物間相互の会話は思弁的といえる代物で、ジェンダーや人種、社会、芸術論とあらゆる問題を俎上に載せていく。
作中人物によってSF的と呼ばれるベローナという都市そのものが最大の謎であり、主題である。夜闇と灰色の煙で昼夜を分かたず視界を奪われた都市は、文字通りの迷路なのだが、それだけではない。日によって太陽が昇る方角や建物の位置関係が変化したり、めずらしく煙の切れ目に見えた夜空には満月と三日月の二つの月が上っているという、非ユークリッド的な空間として設定されている。時間はといえば、コーキンズが発行する新聞の日付はランダムで、曜日もでたらめ、キッドにいたっては、自分は一日と感じていた不在が他の人間には五日間にあたるなど、理解を超える展開になっている。
重要なモチーフとして主人公が持ち歩くノートがある。見開きの片側だけに手記のような文章が書かれたものだ。空いている側のページに主人公の詩が書き綴られるのだが、それを読んだニューボーイがどちらもキッドの手になるものと解するほど両ページには相関関係がある。キッドによって書き続けられるテクストと、この小説テクストとがメタ・テクストの関係にあることは予想がつく。
アメリカではベスト・セラーとなりながら、性に関する露骨な描写も災いしてか問題作ともされるなど、賛否両論を捲き起こした大作だが、ディレイニーの文章には品位があり、性描写も偏見さえなければ質量共に何の問題もない。ましてや、その文学的才能は定評のあるところ。SFという枠に収まらないリアリズム小説として読んでも何ら遜色ない面白さ。八百ページをこえる長さだが、実際に読み出したらとまらない。早く二巻目が読みたいところを我慢してレビューを書いている。この闇に閉ざされた謎めいた都市小説に最後は晴れ間が訪れることを期待しつつ、二巻目のページを捲りたいと思う。