marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ダールグレンⅡ』サミュエル・R・ディレイニー

ダールグレン(2) (未来の文学)
煙に閉ざされた灰色の都市ベローナに腰を据えた「キッド」は、レイニャとの会話から自分がまた狂いはじめているのかと疑惑を抱きながら街を徘徊する。スコーピオンズの<ねぐら>に寝泊りすることで、しだいにリーダー的存在に昇格し、グループを仕切っていたナイトメアから、その位置を譲られる。弟分のデニーとレイニャの二人と共に愛を交わし詩を書く自分と、リーダーとしてメンバー間の揉め事の仲裁をせねばならない自分との葛藤。二巻目は主にスコーピオンズというグループ内で起きるいざこざや『真鍮の蘭』出版を祝うコーキンズ邸でのパーティー・イベントが中心となる。

一巻に比べると、新たなSF的状況と言えるのは、通常の何倍もの大きさの太陽らしき光源の出現くらい。あとは他からの連絡、情報の供給を含む一切のインフラを欠いた、一種の自己完結型閉鎖的空間内における人間の行動パタンの観察とでもいえる叙述に終始する。テレビ、映画はもちろん、ラジオの電波も届かないベローナでは、コーキンズの発行する新聞が唯一の情報であり娯楽。本はといえば、キッドの新刊詩集が住民の愛読書になっている。ストーリー展開はまだるっこしい分、閉じられた世界で演じられる人間の行為が濃密に描かれることになる。

一見暴力的な相貌を持つスコーピオンズも、その実態はほとんど、<ねぐら>内でごろ寝するばかり。腹が減ったら略奪してきたスープや豆、肉類の缶詰を温めて食べ、ワインを飲み、したくなったら手近な相手と寝る、という怠惰で頽落的な日常だ。ヒッピー・コミューンでの経験をもとに描かれたのかと想像したくなる、セックス漬けの生活は70年代の対抗文化(カウンター・カルチャー)的な匂いがプンプンする。

まずはセックス。異性との一対一の組み合わせという既成概念に挑むかのように次々と繰り出されるパタンは、同性とのそれ、さらには男二人と女一人の組み合わせ(キッド、デニー、レイニャの場合)、乱交、輪姦、売春の真似と、やれそうなところはとりあえず試しているようだ。ただ、フィクションというより、作家の実体験の反映のように思えるほど、性に対する嗜好が限られていて、自由に開かれているという感じはあまりない。没頭するというのではなく、真剣に取り組む対象がないため、日常を紛らすための儀式めいたそれは、ピンチョンが『重力の虹』で描いているような強烈な没我感を伴うようなものではない。

グループ内外のトラブルの元にあるのは、人種やジェンダーの差異から生じる軋轢である。何かといえば「ニガー」という言葉が発せられる、黒人に対する白人の持つ優越感とその裏側に張り付いた恐怖心や劣等感がある。一方、偏見を持たず誰とでも接する者には、裏切り者に向ける敵視が待ち受けている。主人公は、「インディアン」との混血で、有色人種でありながら黒人種ではないという微妙な位置に置かれることで、公平な視座を得るよう配慮されている。ジェンダーに関してもレイニャやドクター・ブラウンという魅力的な女性が配され、男性優位視点からの脱却が試みられている。

後半に入ると最も目を引くのが、タイポグラフィー的な実験である。テクスト内に複数の異稿がコラージュ状に配され、一貫した叙述を追うことが難しくなる。冒頭から志向されていたことであるが、改行ではじまる書き出しが、文の途中から始まったり、小説的な文章の間に、手記もしくは草稿のような文章や、推敲段階にあることを示す訂正を表す線が引かれた単語を残した文章、と多様なナラティヴが駆使され、混在する文章で叙述されている。一篇の小説が終始一貫した視点や話者、統一された話法で書かれる必要があるのか、と問いかける実践であろう。多少読みにくくはあるが、読めないほどには毀れていない。テクストを書く主体が誰であるかという問題はこの小説の主題とも関わる重要な点であり、必要充分な実験と了解できる。

さて、最後に残されたのが、異様な記述で始まる冒頭の謎であり、ベローナという都市がはらむSF的世界の解決である。主人公の容姿に比べ異様な手の醜さや、冒頭登場する女性のふくらはぎの切り傷、といった手がかりから、主人公の出自、本名、表題の由来等についてはそれなりの解答が用意されていて、読者を納得させることが可能だが、ベローナという世界については読者自身が解決せざるを得ないようだ。何度か言及されるオランダの画家M・C・エッシャーの絵画あたりがヒントになるかもしれない。ただ、この小説はSFという枠を取り払っても自立している。特に合理的な説明を要求してはいない。

ひたすらダルいばかりのコミューン的日常やダンテの『神曲』めく、ベローナ地獄めぐりから、どう脱却し新生を目指すのか、と気を回しながら最後まで読んで、ちょっと意外に思ったのは今読めば9.11を予言していたかのような一大パニックによる幕切れ、である。冒頭に挿入された夢幻的なシーンに続く、去る者と訪れる者の一時の出会いと別離という再帰的な情景に物語作者としてのディレイニーの巧さを改めて思い知らされた。と同時に、やれやれ上手くかわされてしまったな、という舌打ちが頭蓋の奥の方で聞こえたことも記しておく。