marginalia

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『敗者の身ぶり』中村秀之

敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画
「身ぶり」という、それ自体は曖昧な多義性を持つものを、意識的、無意識的を問わず、ある時代に固有の精神や経験を具現するものと読むことで、講和条約発効前後に発表された日本映画を分析したもの。テマティスム批評の流れを汲む映画批評である。

採りあげる作品は、黒澤明の『虎の尾を踏む男達』、『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』、小津安二郎の『晩春』と『麦秋』、谷口千吉の『赤線地帯』、松竹映画『二等兵物語』シリーズ初期作品、成瀬巳喜男の『なつかしの顔』と『浮雲』他(付録として米映画一本を含む)である。

映画批評にもいろいろなスタイルがあるが、役者や監督という人間が表現しようとした意図の成就如何に着目するのではなく、画面上に映し出される映像を何かを意味するものの集合としてとらえることで、そこに意味されているものを読みとっていこうとするのが、テマティスム映画批評というものである。そういう目で見られたとき、美しい映画女優は単なるオブジェに等しく、黒澤、小津といった世界的監督さえも特権的な力を持たない。名作の名をほしいままにする小津、黒澤、成瀬の作品と『二等兵物語』が並ぶのは単に同じ時代を共にしたという理由だけではない。

そうはいっても、著者の批評が冴えるのは、やはり、小津の二作における原節子の仕種、身ぶりを論じた第二章「絆とそのうつろい」、さらには成瀬を論じた第六章「女が身をそむけるとき」においてだろう。黒澤の諸作その他も、時代固有のメンタリティをよく抽出しているとは思うものの、読みとられた「身ぶり」が傍役のものであったりするところに不満が残る。『二等兵物語』を「敗軍の兵を許す」という身体性の表出と見る分析にも教えられるところは多いが、「身ぶり」という観点では、伴淳、アチャコのそれは、原節子のそれに遠く及ばない。

成瀬の二作。著者はニュース映画を見る女たちが、多くの観衆が見入る画面に映し出される兵士の行軍や引き揚げ船の映像から目を背けるという一種異様な「身ぶり」に目をとめる。戦中のニュース映画には出征兵士が映っており、銃後の家族がこぞって映画館に押し寄せたという。しかし、実は画中の人物の殆どは戦死の運命下にあった。1941年の映画でそれが予見されていたと筆者は読み解く。『浮雲』の場合。高峰秀子演じるヒロインは、敗戦後、復興しようとする日本に背を向け続ける。季節は変わるはずであるのに、高峰秀子は常に寒そうな身ぶりをしている。敗戦後掌を返すように、したたかに戦後社会を生きることのできなかった人々の心性がそこに露出している。

『晩春』における原節子の正座が「日本的なもの」の絆のきつさが強まるときに現われるという指摘はなるほどとうなづかされる。また、あの有名な「壷」のシーンに関連して、原節子の頭部が画面上から消えるカットが何度もあり、それは父親の結婚相手について言及されるときに起こる、という。普段は椅子に座り、畳の上では足を崩す快活な原が、家族のしがらみのなかで、次第次第に手も足も出なく(正座)なり、彼女らしさ(頭部)を喪失してゆく様を身ぶりに見出す、この読解は注目に値する。

麦秋』について著者はこう言い切る。<『麦秋』において空を見上げる身振りは死者を召喚する機能を持つ>と。死んだ二男を想起する場面で人々は常に上を振り仰ぐ。戦地から帰らぬ家族を待つ人々にとってほぼ確定している死を口に出せない分、身ぶりの果たす役割は大きかったであろう。最後に、咀嚼するには堅いが味のある独特の文体を紹介するために、もう一箇所引用しておこう。原が結婚を決意する契機となった戦地からの二男の手紙に添えられていた麦の穂にふれた部分である。

<『麦秋』とは、ほとんど誰も記憶にとどめることがないであろう一匹の犬の波打ち際の彷徨で始まり、ひとりの死者の記憶を解き放とうと決意した若い女性の毅然とした行動を描き、その記憶をぎこちなく呑み込もうとする老人たちの目の前で、死者の形見と同種の植物が海のように立ち噪(さわ)ぐ光景で終わる物語なのだ。救われるべき「無数」の記憶は残されている。>